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闇の中の高次2

 綾と許嫁の口約束の後、二人きりになる機会があった。綾が承諾してくれたことに舞い上がっていたかもしれない。そして、綾も高次のことを前からずっと思ってくれていたのだと勝手な想像までしていた。


 高次は許嫁らしいことをしようと、手を取って抱きしめた。そこまでは綾もされるがままになった。しかし、その表情は強張っていた。その時は恥ずかしさ故でのことだと思った。そのくちびるを吸おうとすると、綾は力任せに高次の胸を押した。そんな力があるとは思ってもみなかったから驚いた。高次はよろめいていた。


「申し訳ございません。咄嗟のことで乱心いたしました。今日のところはご勘弁願います」

 そう口早に言って、その場を去っていった。

 高次はその言葉通り、綾がただ、驚いただけだと信じていた。しかし、それから二人きりになることはなかった。それも仕方がなかった。身重の理子は歩くにも綾の手が必要だった。二人を腹におさめている理子の姿は人とは思えないほどだったのだ。


 ただ、理子を前にして、綾に小言を言うことはあった。勝気な綾はたびたび高次に楯突くような言動をとっていた。

 女は男の言うことをきいていればいい。女の意見など求めていないのに、生意気な口をきいた。一度は声を荒げ、その態度をきつく窘めたこともあった。

 理子の出産が終われば、すぐに祝言を挙げるつもりでいた。それまでに綾のたずなをうまく引き、手なずけなければならないと考えていた。それが夫であることの使命と誇りだ。

 そう、その日ももうすぐやってくると楽しみにしていた。


 しかし、綾は裏切った。

 本当は高次のことなどどうでもよかったのだと思う。そうでなければ、どうして突然、双子の一人と一緒に桐野家へ行こうと考えたのか。なぜ、高次に一言、相談しようと思わなかったのか。


 あの夜、赤子を抱いて駕籠に乗り込む綾を見た。

 出ようとする駕籠を止めて、どういうことなのか問いただすと、

「許嫁のことはお忘れください。誠に申し訳ございません。急なものですから、のちに書状を届けさせます故」

と言って、目を伏せた綾だった。

 高次の怒りは爆発し、気づいたら罵倒していた。

「裏切りものめっ」と。



 あとで理子から、その事情を聞いた。しかし、それでも納得できなかった。

 綾が行かなくても他の侍女でもよかったはずだ。高次よりも赤子を選んだことが許せなかった。


 それまで綾を愛おしく思っていた感情が、逆転した。憎しみに変わった。綾を責めるなという理子でさえ鬱陶しく思い、何日も姉とは口をきかなかった。

 この頃から高次は甲斐大泉藩桐野家も憎んだ。


 それでも理子の産んだ子が、加藤家の嫡男であったことが少し、高次を落ち着かせていた。しかし、それもつかの間で、その嫡男は体が弱く、すぐに熱を出し、医者が付きっきりとなった。


 そして、ついに側室が男児を産んだ。他の家臣たちは安堵していた。もしも、嫡男になにかあっても次男がいるということだ。

 しかし、高次の考えは違っていた。

 理子の産んだ男児はもう一人いた。まぎれもなく、加藤家の血を引いている男児が。

 しかし、もう養子として出て行っている事実は変えられない。


 高次はそんなことまで、綾のせいにした。綾が赤子を連れていったからだと。


 高次の考えていることは矛盾だらけだった。しかし、心配と不安とその怒りを、桐野と綾にぶつけることで、何とか平静を装えたのだった。

 そんな時、理子のもとに、綾から書状が届いた。


 理子はうれしそうに高次に告げた。

 花よ、蝶よと、もてはやされ、育てられたこの姉は、自分の幸せは高次の幸せでもあると思っているところがあった。だから平気でそのようなことが口にできたのだと思う。そう、綾は高次の許嫁だったのだ。


「綾が、桐野の若様の子を宿している。側室になり、年明けには生まれるとのことじゃ。めでたいのう」


 あの綾が、他の男のものになった。しかも桐野の若様とは、高次が一度は感謝したあの御仁だった。

 あの綾が、あの男のものに・・・・・・。

 綾はずっと恋焦がれていた大事な存在だった。明隆に嘘までついてあの身を守ったというのに、高次から逃げ、今は他の男の子供を宿しているという。


 高次の頭の中では、桐野の若殿と綾の裸体が重なる幻想に囚われていた。頭の中をこじ開けてかきむしりたいくらいの衝動に駆られていた。

 いつかの裏切られたというドロドロした心が高次を覆っていた。そこから狂気が生じていた。

 そして、姉はもう一言、付け加えた。これが高次の心を狂わす決定的なものとなった。


「綾のつれた子は龍之介と名付けられ、健やかに育っているとのことじゃ」




 加藤家の嫡男が、ひと月に一度は高熱をだすのに、他家へ行った子がすくすくと育っていた。

 そしてそれをうれしそうに語る理子にも、側室となった綾にも腹がたった。

 自分がこんなにも心を痛めているのに、なぜ他の者は笑っていられるのだろうか。それさえも妬ましかった。


「なぜ、綾と一緒にいった元気な子をこの加藤家に残さなかったのですかっ」

 言って後悔した。


 理子はぽろりと大粒の涙をこぼした。理子は大泣きをした。その心の乱れから、今まで知らなかった事実を口走っていた。

 あの出産の日、あの座敷内で起こったことを。決して他言してはならないとその場の藩医と侍女たちでさえ、口をつぐんでいたことを高次に告げていた。驚くことに、その事実は殿でさえ、知らないという。


「わらわを許してくだされ。先に生まれた方をこの手に抱いてしまったら、その子を手放すことができなくなっていたのじゃ。その半時ほど後に生まれた子を、養子にしたわらわが間違っていただろうか。いや、体の弱い方を育てるのが母の役目。龍之介はわらわなしでも生きていかれるから。それに綾がついている」

 そう言ってさめざめと泣いた。高次は冷ややかな目で姉を見ていた。


 戯言もいい加減にしてほしかった。なんとこのうつけ者の姉は、後から生まれた嫡男となるはずの子を養子にしていたのだ。しかもそちらは丈夫に育っているとのこと。


 こんなことは間違っている、本当にそう思った。体の丈夫な方がこちらに残るべきなのだ。

 桐野には跡取りがいる。龍之介は次男として育てられている。それならば、体の弱い千代丸の方でも差支えないと考えた。しかし、今更、それは間違いだった、交換してくれとは言えない。


 しかし、どうせ双子である。もしも誰にも気づかれないうちに交換したらどうだろう・・・・・。


 それはただの浅はかな考えだったが、猛烈に腹をたてている高次には、光り輝くような名案に思われた。闇の中の高次にはその考えしか見えなくなっていた。


 早速、高次の指示で動く奥女中を送り込んだ。その女中には何の計画も知らせず、ただ養子に行った赤子のことが心配だから逐一報告をしてくれとだけしか告げてはいない。

 時々会って、何気ない話から奥向きの構図を頭に描いていた。そして綾やその他の女中の動きも把握できていた。


 もう龍之介は一人で寝ている。

 その部屋は中庭に面した部屋の奥にいる。

 控えの間には、いつも侍女がいるが、最近、龍之介はよく寝てくれるので、この侍女も朝まで寝るということだ。それならば、こっそりと忍び込んで寝ている龍之介をさらい、無事に連れて帰ったら、竹千代を桐野においてくるということもできそうだった。


 たった一度だけ、綾のことを訊ねた。どうしているか、ふと気になっただけだ。

「大きなお腹で、よく若様のところにお泊りになられます。本当に仲のよろしいお二人でございます」

 高次は無表情で聞いていた。もう何の感情も残ってはいなかった。痛みですら、感じないほど麻痺していた。



 月のない暗い夜に決行した。

 高次の息のかかった奥女中には、中庭の雨戸を一か所だけ外れやすく細工をしておけと頼んでおいた。

 迷わずに入り込めた。誰にも気づかれなかった。

 寝ている龍之介を連れて帰ったら、すぐに千代丸を連れて桐野に戻すつもりだった。


 しかし、中へ入った時、そこに綾がいたらしい。いつもならいない綾が大きな腹で。しかも懐剣まで持って、そこにいた。


 他の二人は、忍びの心得のある侍だった。

 気づかれたことで、綾を斬ろうとしていたから、つい手を出すなと叫んでしまった。

 しかし、遅かった。我が忍びは、容赦なく斬ってしまった。


 高次も動揺していた。今回のことで、人を殺めるつもりはなかった。あのわずかな瞬間で綾が斬られ、駆けつけてきた侍も倒れ、高次も傷を負った。

 桐野家では日頃からたとえ曲者でも致命傷を負わせず、捕えよと言われてきたのだろう。高次の負った傷は大したことはなかった。しかし、右手に傷を負ったため、刀が持てない状態になった。


 その手加減をしてくれた侍でさえも、我が忍びの侍は無情に切り捨てた。しかし、すぐに奥女中や中奥からも侍たちが駆けつけてきて、高次たちはもう逃げられず、すぐに捕えられた。


 加藤家はもちろん、桐野家にとってもこの血が流れた争いがご公儀に知られたらお家断絶にもなりかねなかった。 今の幕府は、何かと理由をつけて大名家の取りつぶしをして、赤字財政を立て直していた。


 高次が加藤家の側近であったこともあって、女中も含めての四人は密かに加藤家へ引き渡された。

 その罪は重い。それは重々承知の上だった。しかし、姉の泣く顔と、茫然とした明隆に申し訳なく思った。それだけだった。

 忍びの二人はこの後、切腹となり、女中は遠い海近くの実家へ戻された。高次は、正室理子の弟でもあり、殿の側近という立場だった。無期限の蟄居を申しわたされた。しかし、その罪の意識は日に日に強くなっていた。正気に戻ったというのだろうか。


 自らの腹を切るその最期の瞬間、高次は桐野の若様を思い出していた。


 捕まってすぐ、蒼白な表情でいる正重を見た。

 懸命に、池に落ちたはずの綾を探していた。だが、見つからなかった。


 高次たちを目の前にし、ブルブル震え、こみ上げてくる怒りを抑えて言った。

「そちたちを加藤家に引き渡す。そして、そちらで今宵の罪を受けてくれ」と。


 正重は、さぞかし高次たちを斬りたかっただろう。だが、必死にその感情を抑えていた。

 お家のために、家臣たちのために、自分の中の怒りと戦っていた。


 このお方は上に立つ人だ、負けたと思った。さすがだと思った。



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