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懐妊

 新緑から雨が続く季節になり、綾は自分の体調の変化に気づいていた。

 非常に眠くなり、胸が張って痛い。そして来るはずの月のものが(生理)が大幅に遅れていた。もしやと思う。

 だが、皆が言うほど気分が悪くなるということはない。ただ、匂いに敏感になったくらいである。

 女中たちの白粉、鬢のにおい、極めつけは龍之介のおしめの臭いだ。菊がやってくれるが、こんなにきつい臭いだったかと改めて思った。


 加藤家で、仕えていた理子の体調の変化に気づいたのも綾だった。あの温厚だった理子が、他愛のないことで女中を叱ったり、食事がのどを通らなくなった。水でさえも戻してしまうこともあった。双子を身ごもった時だった。

 その変化に、藩医にそれとなく告げた。懐妊だった。




 孝子はいち早く気づいていた。

 綾が龍之介を抱き上げるとき、段差のある廊下を行くときなど心配そうにして手助けをしてくれた。まだ、綾が懐妊したと誰も知らない初期のころからだ。

 孝子がわかっていると知って、綾が笑いかけると、孝子も笑顔を返してくれた。


 理子がよく言っていた。


《笑うから幸せがくると》


 つらいときでも笑ってみると、他の人も笑顔になる。その笑顔に助けられるのだと。

 笑顔が笑顔を呼び、沈んでいた心もいつの間にか晴れやかになるのだ。笑顔の花が咲くように。それを実感していた。


 龍之介の医者に診てもらうと、懐妊していると言われた。天にも昇るような気持ちだった。

 その足で、中奥へ行き、正重に告げた。

 正重の顔は、今までに見たこともないような笑顔になった。まるで太陽のような光り輝くような笑顔。

 子供好きな正重だ。自分の子供はどのように可愛がるのだろう。

 正重に喜んでもらえると、綾もやっとその喜びを実感していた。正重の子を身ごもったという恐れ多い思いもある。しかし、今はその幸せをかみしめていた。


 綾の懐妊はすぐに桐野の上屋敷にも報告され、皆がその吉報に喜んだ。そして、それからはもう正室をもらえと言わなくなった。綾が男の子を産めば、もうそれでよしと考えたようだった。


 しかし、綾は口には出さないが、この子はおなごだと思うようにしていた。いずれは正重は正室をもらうはずだ。いや、そうしなければならないと思う。

 側室が先に男の子を産んでいたら、後から来るだろう正室が気苦労する。それだけで正重の仲はうまくいかなくなるかもしれないのだ。姫ならば、いつかは他家へ嫁いでいく。他の大名家との縁をつなぐことになるので邪険にされないと思う。


 綾の懐妊がわかっても正重はよく綾をご寝所へ呼んだ。大事な時期なので、みんながはらはらしていたが、ただ二人は一緒に寄り添って寝るだけだ。

 正重の腕の中で包み込まれるようにしていると心が安定する。今が幸せの絶頂だと感じる綾だった。



 日に日に大きくなるお腹を抱えて、龍之介の細々とした世話もする。しかし、他の侍女に任せられるところは任せていた。

 龍之介はもう一人で座り、人見知りをする。這い這いもした。


 人の上に立つ存在になるので、早い時期から人馴れをさせた方がいいと思い、中奥へ連れていってみたり、外へなるべく出すようにしていた。奥向きばかりに閉じこもっていては、女ばかりでちやほやされてひ弱な男児になりそうだし、変わり映えのない生活になってしまうからだ。

 そして綾は龍之介にわかってもわからなくても、時々説教のようなことも言う。

 もう、理子の子という意識はなかった。自分の子のように厳しくしつけ、愛情を持って育てるつもりでいた。腹の子からくる母性本能がそうさせているのかもしれなかった。


 この子は龍之介と一才と違わない。もしも男だったら龍之介を兄のように慕ってくれるだろう。おなごでも同じことだった。仲のよい兄妹になってくれるだろう。


 しかし、正重はこういった。

「おなごならば龍之介の嫁にする」と。

 気の早い話だと笑ったが、それが一番いいかもしれないと、綾も思い始めていた。



 そんな時、ふいに理子に書状を書こうと思い立った。

 まだ、桐野に来て間もないころ、綾が龍之介の世話で疲れ切っていて、ここの生活にも馴染めていなかったとき、理子から書状をもらっていた。その時はおざなりの簡単な挨拶と龍之介のことを書いただけだった。

 理子は綾を心配していた。咄嗟に他家へ行くことになった綾を不憫に思っていた。

 でも、もう龍之介も綾のことも心配しないようにと伝えたかった。




 季節も変わり、新年も迎えて寒い冬になる。


 正重は御寝所で大きな綾のお腹に手をあてて、赤子の蹴る感触を楽しんでいた。夜着だけの綾のお腹は、赤子が蹴ると手か足なのか、わかるときもある。今もポンポン蹴られて腹全体が揺れていた。


 もう綾は上を向いて寝ることが苦しくなっていた。立っても足元が見えないほどになっていた。医者からはもういつ生まれてもいいと言われたばかりだった。しかし、まだ下に降りてきていないので、生まれるのはもう少し先のことだと告げられていた。


 あまり中から蹴られると痛くて少し腹が張る。その部分をそっと撫でると、赤子もそれを悟るのか少しはおとなしくなった。

 正重もそうやって撫でてくれる。


「蹴破って出てくるのではないか」

というほどに。

「本当に元気な赤子のようです」


「この寒い時期に生まれてくる子だ。そうだな。おなごなら・・・・・雪江と名付けようか」

 正重がふいに思い付いたように言った。

「ゆきえでございますか?」

「うむ、白い雪に入江の江じゃ。穢れのない心を持った雪のように美しい娘に育ってほしい」


 外は昨日まで降っていた雪で覆われていた。

 何もかも白く覆い尽くし、邪念も浄化させるような真っ白で美しい雪。

 綾も気に入り、うなづいた。正重は何も言わないが、きっと男の子の名も考えているのだろう。


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