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鷹丸の傷ついた過去

 翌朝、綾は鷹丸よりも早く起きて、その目覚めを待った。

 鷹丸の朝も早い。まだ、暗いうちから鷹丸も目覚め、綾は無言で鷹丸の着付けを整え、平伏して鷹丸を見送った。


 奥向きへ帰り、以前と同じように髪を結ってもらった。昼過ぎまで龍之介を囲み、皆とくつろいでいた。今日は皆の視線が気恥ずかしい。今日こそは本当の桐野に仕える者になれた気がした。


 そんな綾は、再び老女の白波に呼ばれた。もちろん、昨夜のことだろう。


「昨夜は大義であった。今朝、正重さまからの言付で、綾を側室として迎えるとのおおせじゃ」

「あ、はい」

 鷹丸が綾を側室として迎えてくれる・・・・。

 うれしかった。


「綾には今までどおりに龍之介様のお世話をしてもらうが、正重様に呼ばれた時には他の者に任せるようにな」

「はい」

 それだけが心配だった。ほっとした。

「綾、よかったのう」

「はい、ありがとう存じます」


 綾は白波に平伏した。白波の声には温かみがあった。



 その日の午後、綾は龍之介を乳母車に入れて、孝子と一緒に庭を散歩していた。

 孝子に学問所と道場の子供たちに会わせようと思っていた。

 それに正重にも会えるかもしれないという気持ちもある。顔を見られればそれでよかった。


 学問所では女の子たちが真剣な顔で、お師匠の言うことを聞いていた。

 道場の方を見る。正重がいた。一人一人に丁寧に稽古をつけていた。

 口では厳しい物言いをしているが、その子供を見る目は愛情にあふれていた。どの子もかわいいと思う心が現れていた。


 そっとその姿を見て、稽古の邪魔をしないようにと、綾は躑躅の木の方へ足を向けた。

 見るものすべてに興味を持つ龍之介はじっとしていることがつまらないのだろう。龍之介に躑躅の木に触れさせたり、空を飛ぶ鳥を指さしたりして関心を向けさせる。


 その綾の姿をいち早く見つけ、道場から出てきたのは久四郎だった。

「綾様」

と声をかけられた。

 孝子は学問所の中にはいり、甲斐大泉の様子を語っていた。ここの子供たちは甲斐大泉を知らない。師匠がそのことを教えてくれるように孝子に頼んでいた。


 今までシンとは何度も話をしたが、久四郎とは初めてだった。いつもわずかに目をそらし、ぷいっといなくなってしまう。嫌われているのかもしれないと思っていたから意外だった。

 久四郎は少しはにかんだ表情でいる。しかし、真っ直ぐに綾を見ていた。不動の山の如く、静かにでんと構えているような瞳だと思った。

 綾は会釈をした。


「タカ様が、綾様をご側室とのことでございます」

「はい」

 そうだ、久四郎は正重の側近だった。シンと久四郎は昨夜のあの場所で、あの時の会話を聞いていたのだ。そう思ったらかぁ~と赤くなる。


「お恥ずかしい次第でございます」

 そういうと久四郎はすぐに夜伽のことと思い当たり、笑った。


 少しの間をおいて、久四郎が語り始めた。独り言のようにも聞こえる語りだ。

「それまでタカ様のお相手は、年上のそれなりに経験のある女人ばかりでございました。武士、特にタカ様は桐野家の跡取りとして、藩主になられるお方です。おなごを抱くのも修行のうちだったのです」


 ああ、それはわかる。綾も加藤家に仕えて、そう聞かされていた。跡取りを産み、育てることはそのお家の存続を現わす。大勢の家臣とその家族たちを路頭に迷わせるわけにはいかなかった。正室に子がなければ、側室を設け、そちらに子を産ませることも務めとされていた。


「そんなタカ様が惹かれたのは、まだ年の若い侍女でございました。タカ様が初めてご自分で選んだ、夜伽の相手でございました。しかし、経験のないおなごを抱くことのむずかしさ、その侍女も十五、十六の頃、あまりそういった知識も持たないおなごは、その衝撃に思わず寝所で泣き伏してしまいました。それからです。タカ様が女人を近づけることをしなくなったのは」


 その時の鷹丸の心を思うと綾の心までが痛む。


「周りは慌てました。今からご正室を娶らなけばならないというのに、おなごに興味を示さないとあれば、ご世継ぎが危ぶまれるからでございます。しかし、タカ様は我らに、心を通わせるおなごでなければ抱かぬとおっしゃっておられました。特に最近では、お父上である殿から直々に、ご正室をもらえと矢のような催促でございます。それでも頑として首を縦に振らないのです」


 家督を継ぐ者としてはつらいところだろう。


「それどころか、タカ様はもうずっと身近にいるおなごにも手を出そうとしない。殿も家老衆も頭を抱えておりました。そんな時、タカ様が綾様に興味を示しました。それよりも綾様と出会った頃からタカ様が、実に嬉しそうなのでございます」


 そう言えば正重がそんな事を言っていた。家臣たちが大喜びしたと。

 この時代、世継ぎがなければお家断絶になりかねなかった。跡取りがいるかどうかは深刻な問題だったのだ。


「綾様には本当に感謝しております」


 久四郎はそれが言いたいがために来たらしかった。すぐに目をそらし、ぺこりと頭を下げて道場へ戻っていった。


 綾は、龍之介を乳母車に乗せ、一人で考えながら歩いていた。

 正重が綾を抱いたことによって、殿や家臣たちの期待が高まったようだ。

 綾が側室になったのは嬉しいことだが、近い将来には正重もご正室をむかえなければならないだろう。それには複雑な思いがあった。

 そんなことをぼ~として考えていると、後ろから抱きすくめられた。振り向くと正重が笑っていた。


「久四郎と何を話していた?」

「あ・・・・・・」

 見ていたのだ。正直に言ってもいいのだろうか。

 話すべきか迷っていると、正重は別段気にした様子もなく言った。


「久四郎はな、普通のおなごとは口を利かぬのだ」

「は・・・・はあ。普通のおなごとは、ですか」

 正重が笑う。


「そう、あやつはおなごが苦手でな。おなごが寄ってくるとさっとどこかへ行ってしまう。どうしても話さなければならない用向きがあると代役を立てるか、ふみを書く。話すとすれば、老女か子供かだ」

 思わず、綾は吹きだした。

 何となく、想像できる。ぶすっとした顔で絶対に目を合わせず、さっと文を渡す久四郎。その文は口で言えばすむようなことで、きょとんとした侍女の顔。

 その久四郎が、綾に話しかけていたということが、正重には面白くてたまらないらしい。


「あやつこそが、衆道よ。シンとな」

「ええっ」

 つい大きな声を上げてしまった。

 あの久四郎とシンが・・・・そういう関係だったとは。


「シンはおなごも抱けるが、久四郎はだめだからな。二人とも家の存続のこともあり、いずれは嫁をもらわねばならぬが、その心は複雑だろうに」

 正重が二人の側近のことを心配していた。二人は正重のことを心配していたのに。


 正重は、乳母車に乗って笑っている龍之介を抱き上げた。正重を見てにこにこしていた。高く抱き上げるとキャッキャと声を上げて喜んでいた。本当にこのお方は子供が好きなのだと実感する。


「このたびは側室にと、お礼が遅くなりました。わたくしのような者を、恐れ入ります。うれしゅうございました」

 今更ながら、深々と頭を下げる。


「綾がいいのだ。普通のおなごでない綾がな」

 久四郎のことにかけて、そう言う。

 本来ならば、怒るところなのだろうが、久四郎も綾が正重の側室になって、気を許してくれたのだろう。普通ではないと言われてももう気にしなかった。


 

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