延長線上の点在、或はカテゴリー錯誤
思えば、――自分でも少し考えてみる所がある。自分たちが何をしているかと言う事を。
勿論絵描きなのであるが、そう考えると、俺たちには絵描きと言う括りの中で更に決定的な違いがあるのだ。ついでに言えば俺は絵描きの事を絵師とは決して呼称しない。個人的に思う所があってそういう立場を取っていると言う事に関しては、いつも口幅ったく言っているのだが、とにかくそれは人それぞれだ。絶対に、自分はそう呼ばれたくないという気持ちもかなりある。
さて、決定的な違いについてだ。
――贋作を作れとは言わない。
と言うのは、多分良く言われる事だろうと思うが、まず俺について言えばそう言う環境で研鑽をした絵描きであると言う事だ。
贋作を作れ等と言うのは悪徳画商だけで、しかし絵画の模写というのは歴史が深いものである。それはそれは、大昔から行われていた事であるし、それは現代の漫画家の作業スタイルにも受け継がれているともよく言われている。スタジオとかアトリエとか言う具合の物だ。法人化とかな。
だが、模写をしろと言っても贋作を作れと言う訳ではないのだ。弟子の絵を自分の絵だと言って高く売ってお金を作る様なケースもまあ、あるが、それも漫画の現場で言えば似たような所があるかもしれない。引き続いて現代のケースである。俺はもともとがそう言う絵画畑で育った絵描きであるという点、それはもとから萌え系の作画を目的としていた訳ではないという事である。逆に言えば、広津と香芝に比べれば特異な点であり個性でもある。
しかし職場は俺と広津で師弟関係のような状況にあるわけで、ここでは共通点が発生する。
そも、俺の絵に関してはもともとが無個性であり、他人の絵の模写がその基盤である。トレースだとか、そう言った類のものだ。
現代の感覚で言えば、絵で仕事をする立場になった人間がなにかしらをトレースした場合にはそれは大きな反響を得る事になる。つまり、決して良いイメージであるとは言えない。しかしだ。立ち返って子供の頃には好きな絵や漫画を模写したりトレースしたりという経験が、絵を趣味としない人たちの中でもあるのではないかと思う。
さて、俺の絵が無個性であったと言うのは、悪く言って他人の絵の焼き増しでしかなかった、何の気なしの落書きに過ぎなかった点を指すのだが、今は自分の絵柄で仕事をするに至っている。その経緯には単純に、続けていたら自分の絵柄と言うものが何となくだが形になって言った、経験から導き出されていったと言うのが妥当だろうか。
――確かに、評判から引くと俺の絵柄は個性的で唯一無二などと言われていたりするのだが、――結局は模写ないしはトレースという経験から生まれて来た良いトコどりである、と結論付けてしまってもいいんじゃあないだろうかと思っている。なるようにしかならない。結果的にはそう言う事である。
余談になるが絵の上達、という単純な方法論においてはまず間違いなく断言していいのは模写とトレースは悪い経験にはならない、と言う事だ。上達につながる、などと教則本めいたことを言うつもりはないが、――と言うか俺は美術教師なのだが萌え絵についてどうこう言いたくないというのはある――とにかく結果的に悪い経験にはならない。断言する。
贋作を作れとは言わない。それが見て描いて得られるものがあるという確信なのである。
例えば、俺のケースでは該当しないが、すでに自分の絵柄を持っている人間が他人の絵をトレースして見た所で、絵柄が変わると言う話ではないが、上達と言う点で言えばこれを続ければ何かが起こるだろうと言うのは察しがつくだろうと思う。
そういうのは吸収だ。他人のセンスを自分の絵柄に落とし込む、という吸収。悪く言えば盗む。――模写したりトレースしたりした絵を、私が描いた絵です、と言うのは、間違いではない。描くと言う作業の結果生まれたものである以上、しかし当然普通だったら、それのなにが間違っているかと言うのは頭では分かっている事である。それ以上は言わない。そういう問題を抜きにしても、模写もトレースも自己の研鑽のための手段としては、とても有効だと信じたいと言う話である。
広津の場合が、すでに自分の絵柄を持っているという絵描きさんである。が、職業として考えた場合は他人の絵柄であれやこれを描く原画マンであると言う事になる。これはたまたま俺が原画を務めるアダルトPCゲーム、エロゲーの作画スタッフである事に起因するものだが、他人の絵柄で指示されたものを描くという事である。これも、贋作を作れと言う話ではないが、模写の技術の延長、仕事として成り立つレベルに達したと言う訳である。そう言っても差支えないと思う。
――そう。
これの最上級がアニメーターだ。プロ中のプロ集団。
同じ人物を何回も描かなきゃいけないのが嫌だったりで漫画を描く事が出来ない俺からすれば狂気の沙汰――いや、尋常ではないという事を伝えたいがための表現であって、アニメーターがクレイジーだと言いたい訳ではない。まあ、誉め言葉として言ったらばクレイジーはクレイジーであるが。
俺にとっては、ゲームのメイングラフィックである立ち絵の差分ですら、とんでもないシロモノであった。よくあんな仕事ができたと今さらながら自分に驚いてしまう。一つの絵に長い時間をかけるというのが絵描きとしての醍醐味であると思う――が同じものをたくさん作ると言う意味で時間をかけるのは性分じゃない――ので、同じ絵描きの仕事でもアニメーターという仕事の楽しさは俺には解らないのである。こういう考え方の違いもある。絵を仕事にしたいと俺の前で言う生徒がいたら今後もこうした話は聞かせてあげるべきだと言う気がしてきた。確かに、美術選択組ではなくて音楽選択組の生徒の中にそういう事を考えているやつがいるかもしれないし。
だから、広津は言うなればオールマイティなのだ。自分の同人誌の原稿、漫画を描く事もあれば、俺について原画の作業を行ったり、イラストレーターとしてライトノベルの挿絵を手掛けたり、そして今は香芝に付いて漫画家のアシスタントという業務に勤しんでいる。
どういうわけだか、広津が凄い奴に思えて来た。実はとんでもない奴なんじゃあないだろうか。どう考えても俺が弟子になるべきではないだろうか。だがまあ、漫画を描くとかに関しては俺の先生に当たるのは広津と香芝ということになるのだろう。漫画なんて描きたくは無いが、経験して悪い事には決してならない。
で、その香芝こと鬼夜鋸先生の場合は、確か投稿漫画で賞貰って漫画家になって、片手間にライトノベルの挿絵なんか頼まれたりなんかして、というのだったろうか。そうそう、こいつは漫画ありきで絵描きになった訳である。考えてみればそれも凄い事だ。――俺のような、美術の教師になるまでの間の繋ぎのように仕事をしていたというのは、決して誉められる立場ではないのだ。後ろめたさなども感じる。だから俺は表舞台にはなるべく立たない。サインも描かない。何も喋らない。結果的にそれも、イラストレーターとしての個性、味になっている点はなんとも皮肉な話である。俺にも事情と言うものはある。絵画というものを描いてきた経験から、描きかけの絵は恥ずかしくて見られたくないというのが染み付いている。そこはこうしたほうがいいんじゃあないの、とか何とか言われるのは、嫌ではないむしろ有り難いことだが、どうしても、ありのままが出る作業風景は他人に見られたくない気持ちが強い。いつもの、ラフを見られるのが嫌であるという事の理由の一つはそこである。
その点、鬼夜鋸先生も広津もお構いなしである。やっぱり、人となりというのは何かにつけ出てくるもので、この二人に比べたらやはり俺は人間的には誉められたものではないという気が拭えない訳である。ファンがいると言う事についても俺はあまり実感も湧かない、と言うか現実味がないというのか、さっぱりなのであるが、この二人は素直に喜ぶし、ファンサービスも心得ている。矢張り俺は二人には敵わないのである。まあそれが俺なので今さら変わろうとは思わない。とか考えてしまう所が駄目なのだろう、或いは。
……などという事を、手始めに所々かいつまんで広津と香芝に話してみたのであるが、二人は俺とは感覚が違う。
ので、全員ライトノベルの挿絵を抱えてるんだからイラストレーターって括りでいいんじゃあないか、と結論付けてしまった。
長々説明したのはなんだったんだろう。




