ラフ・スケッチ
「あ~あ、このまま外に出たら、きっと暑いんだろうなぁ」と、広津は爪先でサンダルをぷらぷらさせながら言ったが、隣でこんな格好していると案外に、目が行ってしまうものである。ちゃんと靴まで見ろとは女性は良く言うものだし、失礼にはあたらんだろう。
「もう一番暑苦しい時間帯は過ぎてるんだから、のんびり歩こうじゃないか」
「って、お兄ちゃんどこ見てるのさー」
「サンダル見てる。ただ、見てると外は日傘して歩いている人もいるし、来たときと変わらず暑いってのは確かだな」
「では、もう少しゆっくりしていきましょうか、秋聞さんはたらふく行きましたし」
「んん、そうだな、ちょっと休む事にするよ」
「じゃあ、未知の味を求め探究しようよ」
「超遠慮する」
こんな感じで、食後ではあったが俺たちはドリンクバーを頼んであるため、そのまま居座ることにした。
広津はミックスジュース作って遊びだしたし、腹が減ったやつは順次ピザでも寿司でも頼めばいいのだ、ここには一通りなんでも揃っているし。俺自身はもう満腹であるから、食べ物は結構だ。
――ああ、食べ終わったらまた、眠くなってきた。
俺はテーブルに突っ伏して、微睡みに身を任せることにしよう。これだと腹が押さえられる形だが、思ったほど苦しくはない。香芝も広津も、随分簡単に人のものをつまんで行ったが、それで助かったようなものだ。
そんな二人は、仕事の話でそれなりに盛り上がっているようなので、俺は話の輪には加わらず、そのままうとうとしている。
加わっても、美術講師の俺には話すべき事もないと言う具合だ。カードは順番が大事、ひとまずは広津と香芝が打ち解けてくれて安心って所か。こいつらお互いにとって、この出逢いは良い刺激になるに違いないからな。
眠いは眠いんだが、寝入るまでは何かしら考え事でもしないとな。
携帯電話の契約、はまだ保留にするとして。そういえば、夏期講習のバイトを他の学校でしても良いかと学院に聞いたところ、許可が出たので、試しに應仙に申し込んでおいたんだった。
試しでやるような事ではないのだが、ダメもとである。まだ7月とはいえ、書類選考くらい済ませて面接の知らせくらいはそろそろ来ても良い頃合いである。また郵便だと思うが。
しかしまあ、さすが夏休み、目を閉じていると店内の喧騒が一層濃く感じられる。合宿やら夏期講習がめんどくさいだの言ってる学生たちの声はよく耳に入ってくる。
昼間のファミレスは良く漫画家がお世話になっていたりすると聞くが、エロ漫画家も担当と打ち合わせで使っていたりするものなのだろうか。この時期じゃ集中は出来そうにない。打ち合わせと言えば聞こえは良いが、話の内容など捉えようによっては通報されかねないものだろうに。今でなければ、確かに昼間は学生もおらず居心地も良いかも解らんが、俺はそんなのは好きではない。
ネーム――漫画のコマ割りだとか吹き出しの位置を考えたりする、要は下書きだが、これは一般教養レベルの常識なんだろうか、漫画は文化だ、ととかくちやほやされては来たが、お偉いさんの評価は今日でも相変わらずだったり。確かに政治家は若いのが増えたと言われるが、話に聞く限りじゃあ親の世代が青春を謳歌してた頃と、実情そうは変わらない。偉そうに説明するなと言われたら、いや、俺は先生ですからね、一応、と答えるしかない。
いや、俺が話すのは政治の話ではなく、ネームの話である。何にせよ、俺は本当に漫画は描いたことがないので、ネームだのコマ割りだのなんて異次元レベルの作業だ。そもそも、俺は下書き――ラフ(ネームとは区別しておきたい所だな)を見せるのが好きではない。それは仕事でも同様だ。先ほどの段ボールの中身は、俺が原画をやったゲームのビジュアルファンブックだったが、アレでも立派な公刊書籍だ。それに、自分のラフが載せられている。考えただけで、背筋が凍る。
ファミレスでネーム作業。もしもやれと言われても俺は絶対にできない。一体全体どういう神経してたらそんな事ができるんだろう、とても太そうな神経だって気はする。
――香芝は家から殆ど出ない作家なので、ネームをどこで描くかは聞くまでもないか。
広津はと言うと、中学生の頃から同人誌を発刊していたらしくその経験は筋金入りだ。うちの会社の求人に飛び付き、就職決定と同時期に雑誌編集者のスカウトを受けてたまに漫画も載せてもらっている。活動は実にエネルギッシュだ、新進気鋭とはこいつにこそ相応しいレッテルだ。俺にとっては今では公私共に身近な存在ではあるが、未だに俺の画力を誉める理由がよく解らない。絶対に広津のが可愛らしい絵柄だしデフォルメの減り張り、さじ加減で色んな娘を描けるし、生えてるツいてるも御手の物、女性向け作品だって自然と描ける。若いのに大した画力だと思う。だのに、俺を師匠だのマスターだの呼ぶんだから、困ったもんである。
画力――他に相応しい呼び方が解らないのでこう言うが、俺のそれは美術を教える立場として標準という程度のものであり、これに教えられる立場からすればそれくらいやれて当然だろうという評価しか得られてこない状況下で過ごしてきた。言うなれば画力なんてのはただの技術であり、教員になるには(当時はイラストレーターになるとは考えていなかった)自然なもので、特別でもなんでもない。そこに、個人は反映されない。
淡白。
因みに、下書きだのラフだのと言いながら、実は俺は人物を描くのに下書きをする必要がない。感覚的に身に付いた事である。
理由のひとつには、下書きをしなければ見られることはない、というのも有ったが。
もしかしたら門外漢からすれば、絵を描くのに下書きなんているのか、下書きなんて作文の宿題くらいでしか書いたこと無いぞって感じかもしれない。
ちゃんと描きたいなら、下書きはした方が良い。
少し矛盾してやしないかと思うかもしれない。実際に俺は下書きを描かずに人物を描けるが、相変わらずラフを見られるのが嫌だの言っている。ならなぜ今は下書き、ラフを描いているのか。
それも説明してみようかと思う。
当時、教育実習帰りでうちひしがれていた俺は、ひょんなことから誘われたそれまでとは全く環境の違うアダルトゲーム制作会社と言う職場で、初めて《萌え系》のイラストを描くようになった。
それを広津が初めて誉めてくれたのである。と言うか、誉め称えてきた。むしろ崇拝に近い勢いだった。
「ああああのっ、これから師匠と呼ばせてくださいっ」いきなりそんなあんばいでは誰でも面喰らうと言うものだ。
だが俺にとっては面喰らう以前に、絵が誉められた事が何がなんだかまるで解らんかったのである。
基礎は技術として身に付いていた。それだけ。
絵で食おうなんて、微塵も考えていなかった。
だから、絵を誉められてもよく解らない。実感がないのである。これは今も同じ、何も変わらない。自分の絵は、何がいいのかさっぱり解らない。確かに、よく見えるように萌え絵を研究したのは良いが、いや、俺は昔から絵だけではなく、特に何にしても人から誉められなれていないのだ。
――素直に喜んだり、嬉しがったりすりゃ可愛いげもあるってもんだが、俺は子供の頃からそうじゃなかったのである。いつもなにか一計あるに違いないと穿った見方をしていた。
姉もあの調子だからなあ。
さて、最初はふとした思いつきでいたずらに試した落書きだったのだが、萌え系のイラストをそれまで描いてきたわけではないので、それなりに俺は考えて描いていたのである。
見ての通り、萌え系美少女は顔が一番大事。
時代と共にさまざまな絵柄が生まれた。美少女イラストと言えば大きな瞳、とも一概には言えなかったりする、まあそんな事を考えるにあたって、当然それまでの俺の絵は《絵画的》と言うか、さて言葉でどう説明すれば良いのか、美術教師が情けない事だが、写実的とかリアルとか言っとけば伝わるかな。まあ、少なくとも特殊な趣味でもなければ《萌えはしない絵》だった。
だから、研究ないし練習をせねばならなかったのである。
美術っぽく言えば習作、スケッチ、とりとめもない落書き、萌え系美少女の自分なりの絵柄探し。
ここでは纏めてラフと言っておくが、だからこそ、初めて描いた萌え絵を広津が誉めてくれた、という事実にはそれなりの経緯がある。
俺はラフを見られるのは好きではなかったし、絵を誉められてもさっぱり。
何より、美少女を描いてる事がまだ俺は恥ずかしかったし、そんなモヤモヤした感情やらで、俺は広津につっけんどんな態度をとってしまったわけである。
今となってはこんな関係だが、俺は広津とは、初めから仲が良かった訳ではないのだ。
改まって、下書きを描くようになったのは、萌え絵を描くのに今までにない楽しさを見出だしてしまったからだ。
そして絵で仕事をする以上、半端な事をしては諸賢に申し訳が立たないので、必死になった。
さてそれが、どういうわけか、ヒットに恵まれてしまったので、訳もわからんまま俺は人気絵師の仲間入りをしてしまったらしい。まあ、後になって解ったことには、会社が大手で元から有名、とりあえず出せば買ってくれる熱心な固定ファンがたくさんいたのだ。単純にゲーム本編シナリオへの評価比重もでかい。正直を言えば、俺は絵を描いただけである。確かに苦心はしたが、ゲームはかなり大勢のスタッフが作ってるし、オープニングやエンディングの作詞や作曲は外部委託、さらにその曲に合わせてムービーをつくってくれるクリエイターも必要。そう言う人達に囲まれて今の俺が出来上がったわけであり、しかし、ポッと出の俺はかなり戦々恐々だった。マスターアップの時の打ち上げで仲良くなった声優さん、歌手さんだって何人かいたりする。イベントに足を運ぶのは苦手だが、とりあえず誘われてライブを見に行ったら、凄かった。知らない世界ばっかり見てきて、多少は疲れたと言えるかもしれない。
はてさて。
つっても、とにかく俺は自分の萌え絵が評価される基準が解らんのである。仕事のためと研究して一念発起したのが良かったと思えばそれでいいし、次のゲームは俺と一緒に原画だと教えられ喜ぶ広津を見てたら、色々とどうでもよくなった。
やっぱり、自分のデザインしたキャラクターに声が付いたりするのは感慨深いし、思い入れや愛着みたいな物が湧いたりするようになった。ライトノベルの挿し絵の仕事依頼が来た時は、ライトノベルを殆ど読んだことがなかったので、こっちも色々勉強した。
当時の話に戻ると、広津は普段から職場でバリバリ参加していた訳じゃなく、いわゆる外注スタッフ扱いだったので、それほど仕事は多くなかった。
最初に俺が初物の萌え絵を見られてから、俺は一ヶ月ほど広津と会っても全く話さなかったりと気まずい状態だった。
社長が取り持ってくれたので和解したり、広津があんまり騒ぐものだからと社長に仕方なくノートを見せたら、使われることになってしまったり、何だか仕組まれたような流れを感じたりするんだが、気にしないでおく。
ゲーム発売時はまだ俺は大学在学中であったのに、変に仕事に追われたりしたせいで、まともな就職活動を一切行うことなく、そのまま卒業してフリーランスなイラストレーターになってしまった。
この頃は姉とは疎遠気味だったが、一応は心配してくれていたらしい。
「お前はなにをやらかすかわからんから、首輪でもハメて繋いでおきたい」等とぬかすようなヤツだ。傍にはいない方が良いらしいのはなるほど伝わる一言ではないだろうか。それでいて自分の事を優しいお姉ちゃんだとか、勘違いも甚だしい。
さて広津に落書きノートを見られた経緯だが、俺が仕事場に忘れておいてきてしまったものを以下略。ベッタベタな展開だった。多分俺は顔を真っ赤にして冷や汗をかいていたに違いない。
いつも描いていた裸婦ならともかく、色々考えながらその試行錯誤をぶつけた美少女たちの恥態が狂喜乱舞なラフであり、職場が職場とは言えそんなものが一杯なノートを広津のような女の子に見られるのはかなりキツかった、頭が沸騰するかと思った。
しかし広津の反応がアレだったので、俺はよくわからないまま逆ギレ気味にノートを引ったくって帰ったのである。悪いことをしたと今でも思ってる。謝って以来、なぜか師匠呼ばわりだが。 あの時は何でノートを置いてきたのか。やっぱり何かしらの謀略が有ったのかもしれない。
――唐突に、店内の喧騒が頭に響いた。なにやら俺の脚に絡み付いているようだ、せっかく夢見心地だったのに。
薄目を開けて見ると、広津が自分の脚を絡めてきていた。何をやっているんだこいつは。
「おい、起きてるんだが」
「あ、そうだったのね、残念」
「そういう意図の不明ないたずらはするんじゃない」
「お二人ともどうかしましたか」
「お兄ちゃんにいたずらしてたんですけど、失敗しました」
きっと良からぬ事を考えていたのだろうが、足を踏まれて痛かっただけなので、本当のいたずらと言うのを見せてやるとするか。
飲み物に氷が入ってるのは広津のグラスだけか。また不味そうなもんが入ってる。俺はサッと自分のグラスのストローをそっちに放り込み、
「これ味見するぞ」
「え、うん――」
コイツを飲むと見せかけて、――と言うか飲みたくはないので、気付かれないようにうまく氷だけ吸い、ストローの先端に留めておく。
「――不味いよね」
ふっ。
「あひゃあぁっ」
「ど、どうしました」
「クックックッ――」
「つ、冷たいよぉ……」
「ハァーッハハハ、波紋入りの氷のつぶては冷たかろう」氷を吹いて、広津の太ももに放り込んでやった。
「お兄ちゃん、これはないってば」
「俺がよく姉にやられてたやつだ」
「あ、あぁ、お姉ちゃんね、はいはい」
全く、律儀なヤツだ。




