ダンボール珍記
今からダンボールを開けようっていうのは、それ自体は別にいい。
広津が悪びれもせず、むしろ嬉々として勝手に人の小包を開封しようとしているのは客観的に見て問題ではあるが――心情的には今は気にする所ではない。俺にも何が入っているか解らないではあるし、どっちみち開けなければならないべきのモノだ。やましいものが入ってる可能性は一切ない。さっきは、俺自身の迂闊具合から、もしかしたらという気もしたが、実際そんな――俺には全く必要がない――モノを買った覚えはないし、酒を滅多な事では飲まない俺が酔った勢いで買い物カゴに変なものを放り込んだまま注文を確定した、等と言ったような失態を演じる事は無いと言い切って差し支えないからだ。
心配はしていない。ただ、余計な話そんな事をするとしたら、むしろ目の前にいる広津であり、はっきり言ってろくでもない。見た目はとてもかわいらしいというのに、似合わず酒癖は悪いために、どうも色恋沙汰だのそういう浮いた話に縁が無いのは、そこのところが関係しているように思えてならない。つまり、――ううむ、何がつまりなのか判らないが段ボールを開けるのには賛成であると言うことだ。じゃあ何が問題なのか。
「じゃあ開けよう、開けちゃおうお兄ちゃん」そう言いながら、広津が段ボール端のテープに今指をかける瞬間、
「いいか広――優奏、それを勝手に開けるってのなら別に構わない。だが、なんでわざわざマンションの廊下で店開きしなきゃならんのだという話をしているんだ、俺は」と、今この場で開けるのは相応しくないという旨を伝えたのだが、自分が言い出した設定を忘れかけた俺は律儀に呼び直し、静止を促したお陰で、不意に名前を呼ばれた事で当人はなんだかびっくりしている。それでもちゃんと動作は止めてくれているから依然、問題はない。
私の名前知ってたんですか。とでも言わんばかりにぽかんとしている。人のことを何だと思っていやがるんだろうか、いつも失礼なやつである。
「――ね、聞きましたか、お兄ちゃんが名前呼んでくれたよ、嬉しいなあ、ねえ香芝さん」
「そうなんですか」
「そうなんですよ、実家だとね、《おい》だの《お前》だの、そんな風にしか呼ばないんですよ、まるで倦怠期の夫婦間の会話ですよね、ひどいと思いませんか」
「ははは、それはきっと、名前を呼ぶのは恥ずかしいんじゃないですかね。彼ってそういうところあると思いますよ、たぶん」
「うるさいよ、俺のほうを見ながら喋るんじゃあないぜ」
香芝の奴め、何を知った風に言ってくれるようだが、まずどこの世界に妹の名前を呼ぶのに羞恥を覚える兄がいる、と言う突っ込みをしそうになって――ボロが出るに決まっているから辞めた。
いや、今の香芝の発言は広津が俺の妹などではないと言うことが、バレている事を示唆する内容だったと言うことだ。具体的に態度には示さないが、バレているはずだ、すでに、もしくは初めから。妹を名前で呼ぶのを恥ずかしがる兄などいないからだ。そんな事を言う必要はない。――そもそも、どうして下の名前を呼ばれるとそんなに嬉しいんだか、よくわからん。そう言えば俺は、思い返して見るに広津を普段は名前で呼ぶような機会は今まで無かったようだ。
「お兄ちゃん、でもさ、このダンボール、なんで差出人のとこをはがしちゃってるんだろう」すっかり話題が飛んだが、段ボール自体に戻ってきたので良しとする。広津はバレていると思ってはいないのか、兄妹ごっこを継続するつもりだ。せっかくなので俺ももう少し楽しむとしよう。
「ああ、それは箱をいつでも捨てやすいように、荷物受け取った時点ですぐにはがして捨ててるんだよ俺。それってまず剥がしてもらうためにシールになってるんだぜ、プライバシー保護の観点て言うやつだな」
「もう、それだから中身がわからないんじゃないかー。こういうとことかさ、几帳面なんだか適当なんだかさっぱりだよ」こういうとことか、と言うからには他にも心当たりしている箇所があるのだろうか。今は聞かないでおく。
「あと通販段ボールなのに箱にロゴが付いてないね、それも変な感じする」開けずに眺め軽く揺すったりしてる。その動きから、意外と重いように見える。
「いや、なんもおかしくないぞ。それはマーケットプレイスか何かで他所から買ったからじゃないか、例えば、香芝のその服とかも仕入れルートはこういう所なんだし」
「へえ、そっちは使ったことないや」
「ははは、さすがに判りますか」
「そりゃな。優奏、そんなことはいいからさっさと開けたらどうだ。――で、お前さんはいつまでそこに」
「や、こうして成り行きを見守ろうかなと。駄目ですかね」
「それは好きにしてくれていいよ。ただ、漫画家ってのは、そんなことして暢気こいてられる程度には暇なのかな」
「そう言われると、ははは、実は厳しいんですが、こういう楽しそうな事を見てみるのもいいかなと思いまして。気分転換とか。つまりは、ね」
香芝の仕事のペースまでは知るところではないが、どんな配分でこなしているのだろう、〆切毎に修羅場を演じているならばと考えると彼の顔に浮かぶ疲労の色も納得であるが。
「で、ダンボールは開いたか。何が入ってた」香芝とのやり取りの間に開けられてしまったので、やっぱり人の話聞いてなかったな、と言う事を今更考えても遅いのだが、それでもちょっと思ってしまう。悲しいな、と。
「――マスター、ちょっと」しかし開いたはずの段ボールを閉じ、なにやら神妙な面持ちで、ひそひそと耳打ちで話しかけてきた。どうやらいつもの広津に戻っているらしい。どういうことだろうか。
「何だ」――俺たちは香芝から見えないように、ダンボールを囲んで背を向けた。こんな事をすれば絶対に、確実怪しまれているのだろうが、まさか、不測の事態が発生してしまったという事も考えられる。背に腹は代えられない。
しかし、そんな馬鹿な。でもなければ悪質な嫌がらせと言う可能性――今は失われた文化、スケベ電話のようなイタズラの類いの事を考えているのである。寿司の出前やらピザの配達の爆撃テロ。失われたと言ったのはこのご時世だからである故に、まさかとは思うが。しかし、広津の口から出た回答は俺の考えとは大きく異なっていた。
「あのですね、これ、校正がまだ入ってないサンプルの献本じゃないですか。なんでだか三冊も入ってましたけど」
「……けんぽんって何だ」
「えっと――」
「あ、違う、そうじゃない、何が入ってたかって事だ、ラノベか、それとも」
「ほら、つい先日ボクらで会社で作業したじゃないですか、ビジュアルファンブックですよ」
「ん、俺らがしたのは校正じゃあなかったのか」
「やってないでしょう」
「……あの、秋聞さんたち、どうかしましたか」振り替えると香芝は少し離れた位置に立っている。どうやら気をきかせてくれているらしい、その優しさが身に染みてくる――傷口に酒をかけるように。
別にやましいものが入ってた訳ではない。いや、改めて考えれば十八禁の本なので十中八九やましいモノに該当するのであるが、これが自分たちの仕事でもあるし、――と言う事を隠しているのが香芝に対しての俺の現在の態度であるわけで、このビジュアルファンブックが段ボールから出てきたところで堂々としてれば良い。関係ないと言えばそうなる。だがそれは、これが《市販されているものであれば》の話である。発売前のこんなものを見せるわけには当然、いかない。
そして広津だって俺の言動を疑問視し始めるかもしれない。だが、こいつには、俺が自分のイラストレーターとしての仕事を今まで身内にすら話したことがない、と言う事を、一度か二度話したことが有ったと思うんだが。だから――想像ではあるがおおむね間違いないとして――姉が教員の仕事を回りくどく俺に仲介して寄越したのだ。姉だけには俺の仕事は話してあったが、ご近所の同業者にもそれを話していない理由だって、察しはつくと思っている。
学園の偉いさんも俺の仕事は知っているが、俺自身の何かがそれを許さないのだ。自分の仕事に誇りを持つ反面、それを吹聴するのは良しとしない。同業者に顔向けできない点はそこにもある。全ては自分自身で為した線引きによる裁量である。面倒は承知である。生きるためには仕方の無い嘘である。積み重ね、積み重ねて背負ってきたものだ。
「これ部屋に戻してこようか、お兄ちゃん」
「そうしてくれ、――これが鍵だから」
「わかった」
この広津との一連のやりとりで、香芝には段ボールの中身に関しては変な誤解を持たれてしまったのだろうが、致し方ない。――広津も同業者である事が知れたら当然、辿らずとも自然俺にも繋がる事になるため、咄嗟に妹などと出任せを言ってしまったが、やっぱり恋人などを誤魔化すようにしか見えなかっただろう。香芝にはそう思わせておけば良い、全ては俺の仕事を隠すためである。その点に関しては俺は必死だ。
「ところで、お前さんコーヒーは買わないのか」
「もちろん買いに行くところでしたよ」
「そうか」
「そうです」
「……」
「…………」
「……勘違いするなよ、あの段ボールの中身な、決してやましいものではなかったからな」俺は意志薄弱である。念押しする必要などないと解っていても言ってしまうのである、余計な事を。
「大丈夫です、判ってますよ」そう言う香芝の眼は、やはり剣呑な猛禽類を思わせる鋭い三白眼ではあったが、そこはかとなく慈愛に満ちた眼差しであった。
自己防衛のためとはいえ、こういうやつを欺かなければならない自分の立場が何とも恥ずかしいような気になるのを免れないが、これが俺の定めた生き方なのだ。
「オートロックって便利だねお兄ちゃん」
「そうでもない」
「あっもしかして鍵忘れたことあるの」
「それはまだない」
「僕はありますよ、閉め出された事」何だって。
「どうやって帰ったんですか」
「そりゃどこも同じだぞ、管理人に言ってやればいい。このマンションはパークハウスとかいうやつだから、管理人は住み込んでいるんだ。マンションの所有者ってわけじゃなくて、代理人ではあるがな」
「そう言う事です」
「なるほど。うちは管理人に電話かけなきゃ開けてもらえないなあ、きっと」
「そんな面倒に遭いたくなけりゃ気をつけることだな」
「お兄ちゃんみたく不注意じゃないですもん」
「酒飲んだら別だろ」
「うるさいなー」
「ははは、仲が良くていいですね」
「お兄ちゃんなんて、少し早く生まれたからってえばってるんですよ」どこまでなりきるつもりなんだろうかこいつは。よもや立場を利用して悪口言い放題みたいな邪な考えではなかろうな。
「俺は兄さんって優しく呼んでくれるもっと大人しいしっかりものの妹が欲しかったよ」これは本心から出た言葉、本音である。しかし、こんなこと言ってもいいものか。
『兄さん、飲み物はいかがですか』案の定、余計な事を聞きつけやがった。
「わ、わ、何、何ですかこれ、すごい」不意打ちだったもので広津がテンパっている。
「やっぱり秋聞さんの事なんでしょうね、兄さんというのは」
「……こいつの場合は、あやしいポン引きみたいで、なんか嫌だ」
『わがままですね』




