自動販売機で、愛は買えますかscene5
「秋聞せんせー、先週借りた本お返ししますね。とても面白かったです」と、廊下を歩いていると、快活な声に呼び止められた。
振り返ると、差し出すその手には一冊の文庫本が握られていた。しかし、その表紙にはまるで憶えが無い。先週と言ったな、そのままちらと彼女の襟を見る。校章は薄くレッドに輝いている――つまり二年生だ。俺の受け持ちは火曜の四限。と、もう一コマあるんだけどな。
「あぁ、ありがとう。ごめん、まだ慣れなくてね」そう言って軽く笑ってはみたものの、選択授業の少数の生徒の顔くらい覚えられないのか、俺は。差し出された文庫本を受け取ったところで、彼女は前屈みになってため息をついた。
「もー、しっかりしてください。二年F組のイズミチエです、以後、おみしりおきを」ごもっともだ。
「あ、出る水の、ね。そうだった、出水さんか。悪かったよごめん」出る水のいずみはあんまり見ないからな、言われればちゃんと思い出せた。それじゃ駄目なんだが。
「あと、ちえは、千の枝です」
「なるほど。千の枝。——良く伸びそうな名前だ」と言いながら内心では、爪楊枝みたいだな、と思ってしまった。うっかりと口に出してしまおう物なら全国の千枝さんを敵に回してしまう事になりかねない。
「せんせ今、爪楊枝みたい、って思いませんでしたか」
「いや、立派な枝振りを想像していたところだよ」
「何か俗っぽいひとって、そういう意地悪言ってくるんですよねー」俗っぽくてすいませんね。お互い真偽は定かではなかろう、これは一種のかまかけというヤツだ。多少狡猾な所のある女の子は、この手の誘導尋問はお手の物だ。経験則だが。
「それじゃせんせ、呼び止めて失礼いたしました。それ、よければ使って下さいねー」
「あぁ、それじゃあな」一体何を使えと、……改めて受け取った文庫本を見てみると、ブックカバーがかけられていた。これでは表紙に見覚えが無いはずだ。というか触った時に気付かなかったのか。おかしいな。
谷崎潤一郎の卍。出水さんの活発なイメージとそぐわない、妙に渋いタイトルだが、授業開始前に読んでいた所に声をかけられて、貸す事になったんだっけ。
現状出席取るときしか名前呼んだりしないから、仕方ない、と言い訳しておこう。
『ご機嫌ですね、何か良い事でもあったのでしょうか』帰宅して、自販機を利用する。
「ご機嫌、」俺がか、って、周りを見ても今日は田辺章太郎の姿は見えなかった。俺で間違いないようだ。
「そうだな、少しよい出来事が有った感じだ」百五十円をねじ込みながら、返答を返す。
『それでは、ルーレットチャンスを開始します』
「ほお、そういうのもあるのか」
『当たりが出たら、もう一本差し上げます。特にペナルティは設けられておりません。それと、当選の場合は速やかに飲み物を選択して下さい。三十秒以内です、それ以上は認められておりません、ご承知下さいませ』
「珍しくちゃんと仕事するじゃないか」
『これは説明の義務があります』
「値段教えるのは義務じゃないのか」
『その質問には答えかねます』彼女が抱えるルーレットの針が回転を始めた。マスは八つ、上下にアタリが配置されている。
「よし、ストップだ」
『ルーレットは十秒ほど回転し自動で止まります』
がーんだな、出鼻をくじかれた。
やがて、回転する針が低速になるにつれて、メイド服姿の自販機受付嬢の表情が無気力な物に変わって行った。
「ハズレか」
『まだわかりません』やがて、でろりーん、と濁った残念なBGMがラウンジの一角に鳴り響いた。
『残念でした』
「そうだね」コーラを開栓しつつその表情を見遣る。別段残念そうでも無い。ちょっとくらい残念そうな表情で言えばいいものを。少し良い事が有ったからと言って、ここぞとばかり当たるわけでもあるまい。俺の表情に出てたのは別として、勤め先でささやかな貰い物をした事など、こいつは知る由もないのだ。
『言い訳を申しますと、私の権限で当たりにする事は出来ません』
「権限って良く言うよなぁ」
『当たってくれたら良いな、程度のものでしたが、残念です』
何を言っているんだ、こいつは。
『何か変な事を言いましたか。驚かれているようですが』
「あぁ、いや……少し混乱したんだ。その、っ――」と、コーラを飲んだら確実に出るモノが、俺の言葉を濁した。少し盛大にやってしまった。これこそ人に聞かれたくないものだ。
「そうだな、ちょっと良い事が有ると、その一日気分良くすごせるものだが、自販機のルーレットが外れるくらいは当然の成り行きだろう、気にする事じゃない」——言ってて妙な心持ちがした。気にするなとは。誰がだ。
『そうですか。それではまたご利用くださいませ、《秋聞》様』
アップデート、なかなかどうして、たいした物じゃないか。そんな事を考えながら、俺は高楊枝で床についた。




