July from June scene5
冥利に尽きる。これは、神仏に見放される、という意味でもあるらしい。尽きるの意味の解釈による違いでもあろうか。自習だと言って放っておいても、ちゃんと勉強をしてくれる辺り、なかなか感動ものじゃあないだろうか。普段は美術の時間には美術しかしてこなかったため――当たり前である――彼女たちがテスト勉強をしている姿は、実に新鮮である。それも俺の監督下で、とも加えておくか。塾で教えていた時もこれほどの感動は得られなかった。
教師冥利に尽きる。この一言だ。
物理を教えろなどとのたまった出水はテスト範囲の勉強ではあるが、今は数学の宿題をでっち上げている所らしい。本人がでっち上げと言っても、途中式までびっちりノートに書いている。俺は数学は得意ではないので、これだけところせましと数字やら記号が並んでいるのを見ているとどうにも頭が痛くなってくる質ではあるが、出水の丸っこい字は愛嬌があってかわいらしい。ちんまり、びっしりとノートを埋めて行く。字には性格が映るとは言うが、数字も同じようなものらしい。
授業時間が三十分ほど過ぎた頃。
さりげなく、気になっていることを訊いてみようかと思い、そう言えば――などと言って切り出してみたものの、全くさりげなくないのだから、どうも。いきなり問われた石動も、一体なんと答えていいものやら思案顔になっている。ああほら、眉間にシワなんか寄せてたらせっかくの美人が。なんて言えやしない。無理だろうな、その手のからかいには過剰に反応するから。ついうっかり口がすべろうものなら、しばらく目尻がつり上がったままになるはず。
なにより隣にいる出水に聞こえるに決まってるので、また面倒が始まるはず。
「ええっと、私の、得意な教科を、お聞きになったんですのよね、先生は」
「そうだな」そんなに言い淀むことではないと思って聞いたのだが、失敗だったのだろうか。わからん。
「せんせ、すいちゃんは何でも出きるよ」
「はいはい、いいからお前は宿題やってろ」
「それが終わったとこで。見てみほら」ノートをこれ見よがしにつきだしてきても、困る。
「うん、見なくてもわかったから、会話に入ってこないでよろしい」
「先生、――悔しいです、私」また突然、何が何やらわからない発言が。
「……石動、何が悔しいんだ」訊いてみるしかない。さっぱりだ。
「数学で、出水さんに勝てない事がです」へえ、それは意外だ。しかしこのクラス、といって全人口の半分ではあるが見たところ成績が良さそうなのは、この石動や御厨である。予想は外れてはいないようだが。出水の方が数学は得意か――そいつが俺に物理を教えろとは、また何かなめられたかな、俺は。
「そりゃ、誰でも得手不得手はあるだろうしなぁ。悔しさをバネに、目指せ高みを。俺にはそんな応援しか言えないが」
「そうだよ、悔しいったって、すいちゃんは全部成績良かったじゃない去年」
「それでも、数学だけでも貴女に劣ってしまったのは、腹に据えかねるものがあります」
すげえ言われようだ。そこまで気にすることじゃねえって、と思っても、口にしてはいけない。冷静に話を聞いていることだ。
「だからすいちゃん、私が嫌いなのかな」こいつもなかなか、ずるい。というか、さっきの俺とのやりとりを石動ともやろうという所が、狡いなあと思う。
「なっ、そんな、嫌いとかそういう話ではないでしょう、ただ数学には自信があって、でも――」出水があまりにもいじらしい態度をとるものだから、また石動はあたふたを始めた。出水のこういう所は、危険視に値するだろう。俺は黙って、読みかけの小説のページを捲っていた。
――しおりを挿し忘れていた。こういう自分しかわからない地味なドジを踏むと途端に萎えてしまう。一時的だが。あれ、どこまで進んだんだっけ、見つからないぞ。
「私、すいちゃんと一緒に勉強したいなぁ。だめかなぁ」
「だ、だめだなんて、そんな。でも、誰かと勉強するとか、あまり慣れていなくて、私……」
「うん、次のテストあたりでもいいからさ、一緒に勉強しよ」
「……はい」
よし、見つけた見つけた。しかし、なんだかとても良いシーンを見逃してた気がする。




