台風の夜に
七月、台風二日目の午後八時過ぎ頃のことだった。俺はその時はちょうど一通りの作業を終えて、自販機さんのもとへ一服へ向かった所である。
「こいつは台風の最後っ屁だな。きっと明日はいい朝日が拝めそうだと思わないか」ハードな刺激が俺の喉を通りすぎ、満たしてゆく。コーラでの一服は相変わらず至福である。
『天気情報も、どうやらそのようです。北上しているところで。台風一過、話題が尽きぬことでしょうね』そう言いながら、自販機さんは肩にかかる髪を袖で振り払う。これはどうやら癖らしい。そうすると、もみあげが長いデザインなのがわかる。そして普段隠れている耳が見えると、なかなかグッとくるものだ。
「そういやこの頃は田辺のやつを見ないな。あいつもあれで忙しかったりするんだろうか」
『田辺様――すいませんが、それはどなたでしょうか』
「いや、なんでもない」こいつの中に田辺情報は全くない。不憫なやつ。改めて思うと、こいつを利用している他の客って言ったら、さっぱり、いやどうなんだろうな。田辺は使っていないのだろう、という予想を前に立ててみたがそれで正解だろう。だから忘れられるのだ。恐らく。
プライバシーとか言うことも考えはする所だが、世間話程度にほかの客の話題を出してみるか。いつも、ブラックのコーヒーを消費しているというお客様だ。俺だって仕事を追い込む時には、ベッドブルを飲む時があるが、眠い時にはたまにはブラックでも良いかと思って買おうとすると、売り切れているという事がある。そいつは俺のように違うものを買ったりせず、完全にブラックコーヒーオンリーという可能性がある。でなきゃ消費量がおかしいような気がするのだ。おそらく一人しか買っていないはずなのに。
「ところでだな」
『はい』
「ほかの客は――」
ふっ――と、俺が思い切って質問をぶつけようとした瞬間の刹那、見計らったようなタイミングでそれは起こった。
「って、停電かこいつは――おいおい、マジかマギカ」しーんと静まりかえったラウンジに、俺の一言が空しく反響する。空しく。
こうして俺の視界は一瞬にして暗黒の中へと落された。当然、自販機さんも消えている。すごくショッキングな出来事だった。これは予想外の事態。いきなりどん底だ。もしもこれがパソコンでイラストの作業中とかだったりしたらもう。もう眼もあてられないというか、それは絶望以外の形容はなし、絶望以外の何物でもないのだが――それは俺の身には降り懸からなかったからいいとして、自販機さんは無事なのだろうか。とても心配である。
「そもそも、このマンションは台風ごときで停電になるほどやわじゃない、はずなんだが」
となると――
台風で空は真っ黒、しかし暗闇とはいえ展望スペースからはちゃんと明かりが漏れてきているので、それを頼りにガラス張りから外を見てみると、辺り一帯がほとんど真っ暗闇の中だった。ここは都会だが星は見える。地上のまばらな光が、星空を水面に映したように広がっている様はある種幻想的ではあるが、そんな風景に浸っている場合ではない。つまりこれは、地域全体の被害らしい。それを目の当たりした俺はため息をついた。と、背後でいきなり妙な音がしたので驚いて振りかえって見ると、自販機さんが再起動を始めていた。どういう事だ、電気は通っていないはずだが。俺は自販機さんの前へ戻ってそれを眺めていた。ひとしきり唸った後、いつもの表示に切り替わった。あからさまに機嫌の悪そうな自販機さんがむすっとした態度で顔を見せた。――とりあえずは安心だが。
「一応聞くけど、だいじょうぶか」
『バックアップは完璧ですので心配は無用です。予備電源で再起動いたしました。ちなみに本マンションも、屋上のソーラーパネルによる充電を行った予備電源が作動するはずです、間もなく』それは俺だって知っている。本来なら、そのはずなんだが、これがちっとも動かないから心配なのだ。停電、すぐ復旧するのだろうか。しないだろうな、きっと。
「お前さんが無事でよかったよ。ちなみに今、状況は拾えるのか」
『アンテナ一本程度ですが、かろうじて回線が届いております。どうやら変電所に雷が落ちて、火災発生とのことです』
「被害状況、とかはまあ大丈夫だろうな、ボヤでも停電はするし。しかしこんな時間にとは、めんどくさい事になっちまったもんだ」自販機さんの画面表示にある時計は午後八時十六分をお知らせしている所だ。台風でこれだけ雨が降ってるんだから、火災自体は大したことないだろうが、まったく、こんな夜に地域一帯停電とは、迷惑な話だ。外をもう一度確認すると、ちらほら明かりの点ったところもあるようだ。うちの予備電源はまだ動かないのか。早く仕事してくれ。
『秋聞さま、今解ったのですが、このマンションは先日ソーラー発電で余った電気を、電力会社に売却しておりました。予備電源が起動する余力は現在残されていません』
「あ、そう言う事」




