くりはな、おちる
昼休みが終わる前に、教室から出て寮へ戻ることにした。
そう言えば、雨が降っているんだったな。傘は持ち歩いているが、購買部にも足を運んでみたほうがよさそうだ。そろそろでかい台風の一つや二つ来てもおかしくはないだろう。風が強ければ、傘は意味をなさない。無駄に壊してしまうより、備えあれば憂いなしというやつだ。台風、近頃は凶悪なものはなりを潜めてはいるが、今ひとたび現れれば即、列島混乱というやつである。自然の猛威。
俺の知り合いの実家に、漁師をやっているのがいるが、その家が昔台風につぶされてしまったのだという話を聞いたことがある。一家全員無事だったと言うが、その時の記憶はそいつの両親の子供の時分だったもんで、聞いた話でしかわからないのだという。海辺の家だったそうだ。浜からさらに上がったところで、波の被害はなかったが、大雨と突風でダメになってしまった。その前の浜辺と言うのが、ドラマなどの撮影でよく人だかりができる有名なところだと言うから、時の移り変わりを感じるところであろう。
とにかくこの時期の台風というのは、ハイテクな時代の今となっても恐ろしさに変わりはない。
今日の雨はしばらく続くだろう。
しかし俺の傘、どうやら撥水加工がだいぶ弱まってきているようだ。雨粒が表面に張り付かず固まって、傘の内側まで滴り落ちてくる。なぜか頭が濡れた。見た所、穴なんて見当たらないのだが、どこかに隙間でもあいているのか。こいつは買った時は、軽く振れば表面の雨粒なんてすぐ払えたものだが、今こうして寮のポーチで水を払おうとすれば、いつまでも水たまりを広げる。何より使い慣れた傘で親しみもあるし、台風の時に使って壊してしまうのが心配なほどなのだが、となると撥水スプレーとか、そういったものが売っていたはずではなかったか。
靴などにも使えるので、一本買っておいたところで、用途には困らない。現在の生活では特に日用品に困ったことがないので、しばらくそういう店にも行ってない。もしかするとここの購買部にも、置いてあるんじゃないだろうか。部屋へ戻るついでに談話室を覗く。雨が降っているため、ここで寛いでいる生徒が何人かいるようだ。学生ラウンジでなく、夕食会で仮にここを使うとすれば、俺は何をおごってやればいいんだろうか。十人分の飲食、となると。
そのまま談話室の入口にもたれかかって考えていたら、何かお飲みになりますか、と背後から生徒に話しかけられた。邪魔になってしまった、いけない。
「すまない、少し考え事をしていたものでね。えっと、君は確か――」
「つゆり、と申します」
「そうだ、つゆりさん。それは名前だったっけ」
「いえ。栗の花が落ちる、と書いて栗花落と読みます。栗の花が落ちる頃に梅雨に入る、という意味だそうです。だから今は、私の季節なんですよ」
栗の花が、落ちると梅雨に入る。その説明を反芻し、手帳を開いてメモに取る。こいつは一度聞いて、すんなり頭に入るような知識ではない。私の季節、そう言われれば確かにそうだ、思わず感心してしまった。
「なるほど、ね。これは洒落たご先祖様がいたものだね。下の名前も聞かせてもらおうかな」
「ええ。栗花落仁香です。あ、きみかは仁義の仁に香りです。よろしくお願いします」
「ありがとう、よろしく。うむ、――名前で呼ばせてもらっても構わないかな」
「はい、お好きなように呼んでくださいな」
彼女はよく一人でここにいる、堅城クラスの生徒だ。歴史ある家柄のために難解な名字を持った生徒は多いが、ああいう由来の名前は実に、日本的情趣に富んでいて素晴らしいものがある。
同様に、すっかりおなじみになった感のある小鳥遊びのたかなしも、何度聞いてもきれいな表現だと思う。確かこの学校にも、いたはずだ。
自宅に帰ったついで、いつも通りラウンジで自販機さんに話しかける。
「そういや、聞いたような、聞いてなかったような。お前さんに名前とかってあるんだっけ」出し抜けに、思った事を聞いた。
『そのような話は特にありません』と、自販機さんは無表情で答えた。
「そうさなぁ。でも自販機さんは自販機さんなんだよな、俺の中に限った話ではあるけど」
『左様で』
今さらという気もする。自販機さんは自販機さん。それでいいじゃないか。




