冤罪で捨てられた令嬢ですが、戻る気はありません
本作は、全八章で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
━━━━━━━━━
第一章 捨てられた令嬢
━━━━━━━━━
今日は木曜日だ。
体が、少し重い。夕べ、いつもの様に騎士団の詰め所に寄ったことは覚えている。でも、その後のことが、どうにも靄がかかったように思い出せない。
いつものことだ、と自分に言い聞かせながら、私は夜会の支度をした。
◆
婚約指輪を外されたのは、五百人が見ている大舞台だった。
王都で最も格式の高い夜会、クラウゼ侯爵家主催の舞踏会。そこで私は、三年間婚約者だったルードヴィヒ・クラウゼに、はっきりと言われた。
「エリーゼ・ヴァルトール。君との婚約を、ここに破棄する」
ざわり、と会場の空気が波打った。
音楽が止まった。足を止めたドレスの裾たちが、一斉にこちらを向く。
――どうして。
喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。違う。今、パニックになってはいけない。まず、話を聞かなければ。
「なぜですか……理由を、お聞かせてください」
「理由だと?」
ルードヴィヒは鼻で笑った。
背が高く、端整な顔立ちで、誰もが「完璧な侯爵嫡男」と評する人だ。三年前、婚約が決まった時から、私はずっと彼を支えようとしてきた。彼の仕事の書類を整理した。彼が風邪を引けば回復薬を届けた。彼が悩む時は夜中まで話を聞いた。
それが、この目で返ってくる。
「君が王太子殿下の財宝を盗もうとした証拠が出た。侯爵家の名を汚すような女を、私の妻にはできない」
「……え?」
(なんのことなの?)
横から甘い声がした。
「本当に驚きましたわ」
セラフィーナ・ロシュフォール。半年前から社交界に現れた伯爵令嬢で、いつの間にかルードヴィヒの隣に収まっていた女だ。
「エリーゼ様が、そのような方だとは思いませんでしたわ。でも……証拠があるなら、仕方ありませんものね」
にこり、と笑う。その目は全く笑っていなかった。
「証拠を見せてください」
私は声を平らに保ちながら言った。
ルードヴィヒが顎をしゃくると、従者が封書を持ってきた。開かれた中身を見て、私は息を呑んだ。
(なにこれ……こんなの偽物よ……)
私の筆跡に酷似した手紙。王宮の財宝庫に関する情報を売ると書かれていた。
「……これは、私が書いたものではありません」
「そう言うと思っていた」
ルードヴィヒの声は冷たかった。
「だが筆跡は一致して、渡し先の商人も証言している。君を信じる理由が、今の私にはない」
信じる理由が、ない。
三年間、毎日顔を合わせてきたのに。
「…………」
何か言わなければ。反論しなければ。でも、その手紙に関して、私には決定的なアリバイがなかった。問題の夜、私はどこにいたか。
思い出せない。
それが私の、最大の弱点だった。
月に一度か二度、私は記憶が曖昧になる。
翌朝目覚めると、前夜の数時間がすっぽりと抜け落ちている。三年前から続いていることで、それは私が回復魔法を使った後に必ず起きた。
「完全回復」という、極めて稀な魔法がある。
死の淵にある者でも救える、聖女級の力だ。私はそれを持っていた。そして、使うたびに記憶の一部を失っていた。
それを誰にも言えなかった。言ったところで、証明できなかった。何より、「自分には価値がある」と声に出して言える人間に、私はなれなかった。
「…………あの夜のことは、覚えていません」
言った瞬間、会場がざわめいた。
「覚えていない、ですって?」
セラフィーナが目を丸くする。そして、すぐに哀れみの表情に変えた。
「まあ、記憶がないとおっしゃるのね。それはつまり……否定もできないということかしら」
じわり、と笑みが広がる。
ルードヴィヒが私を見た。
「……エリーゼ」
名前を呼ばれた。三年間、何度聞いた声だろう。
「君には、何もない。才能も、後ろ盾も、証明できる何かも。私が支えてやらなければ、今頃どこにいたかもわからない女だ」
――君には、何もない。
その言葉が、五百人の前で、空気に溶けて広がっていった。
私は何も言えなかった。
反論の言葉が、喉の奥で固まって出てこなかった。自分でも気づいていたから。自分には、表立って誇れるものが何もないと、ずっと思っていたから。
「……わかりました」
それだけ言って、私はその場を離れた。
誰も止めなかった。
━━━━━━━━━
第二章 親友という名の刃
━━━━━━━━━
夜会を抜け出した私は、廊下の隅で壁に背を預けた。
足が震えていた。涙は出なかった。出せなかった。泣いたら、崩れる気がした。
「エリーゼ!」
走ってくる足音。振り向くと、幼馴染のカミラが息を切らしてこちらに来るのが見えた。
ほっとした。カミラなら、話を聞いてくれる。
「カミラ……」
「大変だったわね」
彼女は私の両手を握った。温かかった。
「ねえ、エリーゼ。悩みがあれば、私に話してくれていれば良かったのに」
「……何を?」
「財宝のこと」
握られた手から、体温が消えた気がした。
「カミラ、あれは私がやったことじゃない」
「そ、そうね。そうだと私も思いたいけど……」
彼女は目を伏せた。
「でも、ルードヴィヒ様は賢い方だもの。証拠が出たなら……仕方なかったんじゃないかしら」
「……私の言葉を、信じてくれないの?」
「信じたい気持ちはあるわ。でも、あの手紙の筆跡……あなたのものとしか思えなくて」
静かに、でもはっきりと、彼女は言った。
「証拠があるなら、私にはどうにもできないもの。それに……ルードヴィヒ様との婚約は、あなたにとっても重荷だったんじゃないかって、正直思ってたのよ?」
重荷。
重荷、だった。
三年間、誰よりも傍にいた幼馴染が、そう思っていたのか。
「そう……かもね」
私は一度だけカミラの手を握り直して、離した。
「でも……これが現実だから。ね、エリーゼ。もう少し、自分のことを考えてみたら? あなたって、いつも誰かのことばかりだったじゃない」
そう言って、彼女は廊下を引き返していった。
私は一人になった。
何もない廊下で、壁を背に、立ち尽くした。
カミラは悪い人ではなかった。私を傷つけようとしたわけでもない。でも、それが余計に辛かった。
悪意じゃなかった。ただ、信じてもらえなかった。それだけだった。
――君には、何もない。
ルードヴィヒの声が蘇る。
(違う。違うはずだ。私にだって……)
でも、何があるというのだろう。回復魔法? 記憶を失いながら使い続けた力? 誰も知らない。証明もできない。
(私は、何のために生きてきたんだろう)
廊下の窓の外、夜風が木々を揺らしていた。
━━━━━━━━━
第三章 辺境から来た男
━━━━━━━━━
それから三日間、私はほぼ部屋に籠もった。
ヴァルトール家は侯爵家だが、父はすでに他界しており、母は体が弱い。実権は遠縁の叔父が握っており、私の婚約破棄を知った叔父は、翌日には私を呼び出した。
「侯爵家の恥だ。しばらく王都を離れろ。辺境の別邸に送る」
怒りはなかった。
ただ、多くの後処理で疲れ果てていた。
荷物をまとめながら、私は鏡の前に立った。
青みがかった銀髪と、薄い灰色の目。地味だと、昔から言われてきた。婚約が決まった時も、「侯爵家にしては地味な令嬢だ」と囁かれた。
(私が悪かったの?)
自問する。
(もっと、はっきり言えば良かった? 力のことを、誰かに打ち明けていれば?)
……でも、誰に言えばよかった。言っても、信じてもらえたかどうかも分からない。それよりも、誰かが苦しんでいたら、そちらが先だった。いつも、自分のことは後回しにしてきた。
それが欠点だと、気づいていた。でも、止められなかった。
辺境の別邸に向かう馬車の中で、私はずっと膝の上で手を組んでいた。
別邸は王都から三日かけて着く、山のふもとの小さな屋敷だった。管理人の老夫婦が迎えてくれたが、それ以外に人はいなかった。
翌朝、庭に出ると、見知らぬ男が柵の外に立っていた。
「……どなた、でしょうか」
「アシュレイ・テンペスト。この辺境を担当する王領の文官です」
三十に届かないくらいの年齢で、整った顔立ちだが、飾り気がなかった。質素な制服に、少し傷んだ革靴。でも目だけが、静かに鋭かった。
「ヴァルトール家の別邸に人が来られたと聞いて、ご挨拶に参りました」
「……ありがとうございます」
「少し、よろしいですか」
彼は柵越しにこちらを見た。
「あなたの目が、少し欠けているように見えます」
「……え?」
「目、という比喩ですが。記憶が、少し欠けていませんか」
心臓が跳ねた。
「何故、そんなことを」
「この辺境には、七年前に疫病が流行りました」
アシュレイは静かに話した。
「その時、夜ごとに村を回り、死にかけた者たちを次々と癒した人物がいたと言われています。翌朝には姿を消し、名前も残さなかった。救われた者たちは皆、その人物の顔を覚えていない。ただ、銀色の髪だったと言います」
私の指先が、冷えた。
「……その話と、私に何の関係が」
「あなたの目を見ていると、思い出すんです。その頃、一度だけ、夜道で出会った女性……聖女様を」
彼は、まっすぐに私を見た。
「あなたではないかもしれない。でも、もし心当たりがあるなら……話を聞かせてもらえますか」
七年前、私は十三歳だった。
叔父に遠方視察に連れられ、辺境を通った夜。疫病で倒れていた子どもを見た覚えはある。ただ、それしか記憶がない。
(もしかしたら、私が治癒をした……)
喉の奥で、何かが揺れた。
━━━━━━━━━
第四章 記憶と証言
━━━━━━━━━
アシュレイと話したのは、それから何度も続いた。
彼は私を急かさなかった。ただ、こちらが話した分だけ、静かに受け取った。
「回復魔法を使うたびに、記憶が飛ぶ?」
「……はい。何時間か、ごっそりなくなります」
「それを、ずっと一人で抱えてきたんですか」
「誰かに言っても、証明できないので」
「でも、証明している人たちが、います。その時の聖女様は、あなただと確信しています」
彼はそう言った。
「あなたが癒した人たちは、生きています。この辺境に。王都に。あちこちに。名前も言わずに助けた人たちが、あなたが去った後も、ずっとそこに生きている」
◆
私は、私のことを信じてくれるアシュレイといろいろな話をした。
「あなたは、婚約者のためにも力を使ってきたはずでは」
「……彼の妹が、三年前に瀕死の病に罹りました。医師たちに見放された時に……私が」
「ルードヴィヒ・フォン・クラウゼの妹、レーナ嬢のことですか」
「知っているんですか」
「彼女は今、王都で社交界に出ています。どこも悪くない、健康な体で」
アシュレイは私を見た。
「彼女は、あなたのことを知っていますか」
「……記憶が飛んでいたので、私は翌朝に何をしたか分からなかった。でも、彼女の部屋から出てくる自分を、誰かが見ていたかもしれない」
「なるほど……」
静かな声だった。
「レーナ嬢やその侍女なら、証言できるかもしれませんね」
血の気が引くような、それでいて、じわじわと何かが戻ってくるような感覚だった。
「なぜ……あなたが、そこまで」
「冤罪事件の疑惑が、私の耳に入っているんです。王領の文官として、事実確認の義務があります」
でも、それだけじゃない気がした。
「……あなたは、どうして私を信じるんですか」
「最初に会った時から、あなたの目を見ていました」
アシュレイは、少し間を置いた。
「誰かのためにしか生きてこなかった人の目は、特徴があります。疲れていて、でも、諦めていない。あなたの目が、そうでした」
私は下を向いた。
泣くまいと思ったのに、目の奥が熱くなった。
「……私は、自分のために、何もしてこなかった」
「そうですね」
否定しないのか、と思ったら、続きがあった。
「でも、今からできます。それで十分じゃないですか」
「そうですね……」
「七年前の恩返しをさせてください。反論する証拠を集めてみましょう」
「はい……お願いします」
その後、アシュレイによって、冤罪の証拠が次々に出てきた。
━━━━━━━━━
第五章 断罪の舞台
━━━━━━━━━
王都に戻ったのは、それから二週間後だった。
冤罪の再審問が、王宮の小広間で開かれた。王族の証人も立ち会う正式な場だ。
アシュレイが働きかけてくれた結果だった。彼が王族の庶子だと知ったのは、前日の夜だった。
「それを、なぜ今まで言わなかったんですか」
「必要になるまで、言うことでもないので」
「……相変わらず、要領を得ない人ね」
思わずそう言ったら、彼は少し笑った。私も、少しだけ笑えた気がした。
審問の会場には、ルードヴィヒとセラフィーナも来ていた。
「再審問だと? 証拠は既に提出済みだ」
「証拠が偽造であるという証拠を、提出します」
会場がざわめいた。セラフィーナは表情を変えなかった。でも、指先が一瞬だけ震えたのを、私は見ていた。
証人たちが次々と立った。
財宝庫の担当者が証言した。問題の夜、私に相当する人物は庫内に立ち入っていないと。
商人が再喚問され、青ざめながら言った。
「……私が見た人物は銀髪ではなかった。脅されて、そう証言するよう言われた」
「脅した人物は?」
「……セラフィーナ・ロシュフォール様の、使用人だと名乗りました」
鑑定士が続いた。手紙のインクはヴァルトール家では使わない種類で、ロシュフォール家の書記官が使うものと一致すると。
セラフィーナの顔が歪んだ。しかし、すぐに持ち直した。
「……でも、エリーゼ様は当時の記憶がないと証言しています。それはどう反論するのかしら?」
「では、その点について」
アシュレイが進み出た。
「エリーゼ嬢が持つ『回復』の魔法には、代償があります。この力を使うたびに、数時間の記憶を失う。意志でも訓練でも防げない、能力そのものに組み込まれた欠損です」
会場がざわめいた。
「エリーゼ嬢はこの三年間、毎週水曜日の夜に騎士団の詰め所を訪れています。消耗した騎士たちを、名も告げずに癒していた。そして翌朝、木曜日には必ず——水曜の記憶が曖昧になっています」
「……」
「問題の夜は、水曜日でした」
静寂が、広間を包んだ。
王太子殿下が、ゆっくりとセラフィーナに視線を向けた。
「ほう……」
セラフィーナの顔から、余裕が消えた。
アシュレイは続けた。
「事件の三週間前、クラウゼ家の夕餐会の席で、ルードヴィヒ卿がエリーゼ嬢の記憶の欠損について言及している。家令の記録に残っています。その席に、あなたはいた」
ルードヴィヒが息を飲んだ。
「エリーゼ嬢が木曜には記憶がないことを知った上で——あなたは水曜日の夜を選んだ」
ルードヴィヒの妹のレーナが立った。
「私も証言します。三年前、瀕死だった私をエリーゼ様が癒してくださいました。侍女も見ています。ですが、その時にエリーゼ様から『内密に』と固く口止めされていたのです。でも——エリーゼ様が冤罪で捨てられたと聞いた時、もう黙っていられなかった……」
ルードヴィヒの顔から、血の気が引いていった。
━━━━━━━━━
第六章 崩壊
━━━━━━━━━
セラフィーナが、真っ白になった。
否定しようとした。口が動いた。でも、言葉が出なかった。
「……違う」
「違わない、ということは証明されています」
アシュレイは一歩も引かなかった。
「あなたは、エリーゼ嬢が毎週水曜日の夜に騎士たちを癒し、翌朝には記憶がないことを知っていた。その情報を、クラウゼ卿から得た。そして水曜日の夜に偽の手紙を用意し、商人に渡したとされる証言を偽造した」
「……私は、ただ……」
「ただ、何ですか」
「ルードヴィヒ様が……あの方が、エリーゼ様に依存していたから! このまま婚約が続けば、私には何も残らないから……!」
声が裏返った。
「私がしたことは……愛のためよ。あの人のために!」
「愛のため」
アシュレイが繰り返した。
静かだった。怒ってもいなかった。それが、かえって冷たかった。
「その言葉で、国家への背信行為と、無実の令嬢への計画的な冤罪工作が正当化されると?」
「だって……ルードヴィヒ様は……! あの方が、エリーゼを排除したいと言ったんです! あの夜の会食で……そんな婚約者はもう要らないって!」
「黙れ」
ルードヴィヒが叫んだ。
「黙りません!」
セラフィーナが叫び返した。
「あなたが言ったんです! 私が勝手にやったんじゃない! あなたが、あなたが……!」
静寂。
ルードヴィヒの顔が、真っ白になった。
(ああ)
私は思った。
(この人は今、崩れている)
「正しい選択をする人間」という、三年間積み上げてきた自己像が、音を立てて崩れていく音が、聞こえる気がした。
証拠があったから仕方なかった。自分は正しかった。
そう言い続けることで保っていた何かが、セラフィーナの叫びによって、この広間の全員の前で、粉々になった。
王太子殿下が立ち上がった。
「クラウゼ卿」
低い、静かな声だった。
「会食でロシュフォール令嬢に対し、婚約者に関して何らかの発言をしたか。この場で答えよ」
ルードヴィヒは、俯いたまま動かなかった。
答えられなかった。
「クラウゼ卿」
もう一度。
「……」
答えは、出なかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
私は、初めて彼の目を正面から見た。
「聞いていいですか、ルードヴィヒ」
私は言った。
「あなたが捨てたのは、私ではありません」
会場が静かになった。
「あなた自身の、三年間です」
ルードヴィヒの口が動いた。
「……エリーゼ」
「あなたに恨み言を言うつもりはない。ただ、一つだけ」
私は続けた。
「あなたは毎週木曜日に、私の様子がおかしいと気づいていた。三年間、毎週。それを、心配するでもなく、問いただすでもなく、ただ食卓で人に漏らした。そしてその言葉が、私を陥れるために使われた」
声は、震えていなかった。
「私が黙っていたのは、怖かったから。でも、あなたが気づいていたのに何も聞かなかったのは……私への関心が、その程度だったから」
「……それは」
「違いますか」
ルードヴィヒは、黙った。
「……違わない」
搾り出すような声だった。
「君のことを、見ていなかった。俺は……ずっと、見ていなかった」
「そうですね」
私は、それだけ言った。
怒ってもいなかった。悲しくも、もうなかった。
ただ、静かだった。
「言い訳は、もうけっこうです」
私は視線を外した。
セラフィーナはすでに近衛の衛士に囲まれていた。もう逃げ場がないとわかった顔で、ただ蒼白に立ち尽くしていた。
あれだけ計算していた目が、今は空洞だった。
(奪えると思っていたのだろう)
私の記憶の欠損を、完璧な武器だと思っていたのだろう。
でも。
誰かのために使い続けた力は、消えていなかった。
名前も残さず助けた人たちは、生きていた。
記憶がなくても、事実は残っていた。
それが、ここで全部、返ってきた。
王太子殿下が静かに言った。
「ロシュフォール令嬢を連行せよ。クラウゼ卿については、別室で喚問を行う」
広間が、動き出した。
私は、その場に立ったまま、ただ静かに、それを見ていた。
━━━━━━━━━
第七章 戻りません
━━━━━━━━━
審問が終わったのは、夕方近くだった。
セラフィーナは王宮の取調べに連行された。ルードヴィヒは、王太子殿下に別室で喚問された。後で聞いた話では、二人の関係について詳細な証言が取られ、クラウゼ家への処分が検討されているとのことだった。
私は広間の外の廊下で、壁に寄りかかっていた。
「お疲れでしょう」
アシュレイが隣に来た。
「……少し」
「よくやりました」
「そんな、私は大したことは」
「大したことですよ」
彼はそこで止まった。
「あなたが、あの場で自分の口から言った。それが、一番大事なことです」
私は天井を見上げた。
「……私、ずっと怖かったんです。力があることを言えなくて。記憶が飛ぶことを言えなくて。何かを言えば、嫌われると思っていた。変だと思われると思っていた」
「怖かったのは当然です」
「でも、隠し続けたのは私の選択だった。その結果、自分を守る言葉が、あの場でひとつもなかった」
「そうですね」
「……あなたは、慰めてくれないんですね」
「慰めても、あなたの役に立たないと思って」
私は少し笑った。
沈黙があった。
廊下の窓から、夕陽が差し込んでいた。
「アシュレイさん」
「なんでしょう?」
「辺境に、帰りたいです」
「……いいんですか。王都に居場所を取り戻すこともできますが」
「戻る気はありません」
きっぱりと、私は言った。
「ルードヴィヒのもとには、戻りません。あの社交界にも。誰かのために生きることしか知らなかった私の場所には、戻りません。戻る必要がない」
アシュレイが私を見た。
「あなたの力を必要としている場所も、たくさんある……」
「でも、今度は」
私は彼を見た。
「自分で決めて、行きます。誰かに言われたからじゃなくて。私が、そこに行きたいから」
アシュレイは少し間を置いてから、うなずいた。
「それでは、一緒に行きましょう」
それだけだった。
長い言葉はなかった。
でも、それで十分だった。
━━━━━━━━━
終章 春の辺境で
━━━━━━━━━
王都を去る前の夜、ルードヴィヒが一人で会いに来た。
廊下で待っていた彼は、初めて見るほど憔悴していた。
「……エリーゼ」
「何ですか」
「俺は……」
言葉が続かなかった。
「謝りたかったが、何を言えばいいか」
「謝らなくていいです」
「え?」
「謝られても、何も変わらないので。あなたのことは、もう気にしていません。ただ」
私は彼をまっすぐに見た。
「次に誰かを選ぶ時は、証拠の前に、その人の目を見てください。三年間、毎日顔を合わせていたなら、それくらいはできるはずです」
ルードヴィヒは何も言えなかった。
私はそのまま部屋に戻った。
背後で、彼が壁に手をつく音がした。
振り返らなかった。
◆
辺境の春は、王都より少し遅い。
でも、その分だけ、花の色が濃かった。
私は毎朝、村を歩くようになった。力を使っても、使わなくても。誰かが倒れていたら助けるし、そうでなければ、ただ歩いて、風を受けた。
記憶が飛ぶ夜は、まだある。
でも、翌朝目覚めると、アシュレイが必ず傍にいた。
「昨夜もどこかに行っていたようですが」
「……どこかに行った記憶が、ないんです」
「東の村で、熱を出していた老人が今朝から元気になっています」
「……そうですか」
「あなたがやったんでしょう」
「……たぶん」
アシュレイは、ただそれを記録した。誰が助けられたか。どこで。いつ。
「なんで、記録するんですか」
「いつか、全部あなたに返せるように」
「……返す?」
「あなたが失った記憶の分。あなたが助けた人たちの話。あなたが忘れてしまった、あなた自身のことを」
私はしばらく黙っていた。
「……それは、ずいぶん長い仕事ですね」
「構いません。私は辺境に根を張るつもりですから」
「じゃあ、私も」
気がついたら、そう言っていた。
「一緒に、根を張ります。ここに」
アシュレイは、小さく笑った。
私も、笑った。
王都のことは、もう思い出さなかった。
そこに置いてきたものは、確かにあった。三年間の時間も。幼馴染の友情も。信じていた人の言葉も。
でも、持ってきたものもある。
記憶が飛ぶたびに使い続けた力と。誰かのために動くことを止められない性分と。
そして初めて、自分のために選んだという事実が。
それで、十分だと思った。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「冤罪で捨てられた令嬢ですが、戻る気はありません」、いかがでしたか?
スカッとした!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!
また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




