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世界の中心

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/19

一 


 私は人の名前を覚えるのが遅かった。

必要がなかったからだ。


 小学四年の春、隣の席の子の名前を、私は三日間覚えなかった。


 彼女は毎日話しかけてきたのに、私は心の中で「隣の子」と呼んでいた。


 その子の名前は、桐島七海だった。


 私はおそらく二十歳頃まで、この世界に存在するすべての人間を、道具だと思っていた。「私」を中心に世界が回っていた。


 他人は背景だった。書き割りの街並みのように、動いてはいるが、内側はないと思っていた。


 人間が動くのは、私の物語の都合によってだと思っていた。

 人間が笑うのは、私を喜ばせるためだと思っていた。

 人間が泣くのは、私に何かを伝えるためだと思っていた。


 この世界の主語は「私」だけだった。残りの全員は、「私」という主語を成立させるための述語だった。


 これを書いている今、私は二十六歳だ。あの頃の自分を思い出すたびに、体が縮む。だが縮むだけで済ませてはいけないと思う。縮んで、顔を覆って、なかったことにして眠る。それを何年も繰り返してきた。もうやめなければならない。


 だから書く。正確に、書く。


─────



 母のことから始めなければならない。


 母は私を過剰なほど愛していたのだと思う。私が何かを欲しがる前に用意した。私が困る前に解決した。私が言葉にする前に察した。


 その結果、私は「言葉にしなくても伝わる」という誤った法則を、世界の真理として学んだ。


 私が黙っていれば、誰かが気づく。

 私が困っていれば、誰かが助ける。


 母はそれを愛情でやっていたのだと、今は分かる。だが幼い私には区別がつかなかった。母の愛情は、私にとって「他人とはそういうもの」という最初の定義になった。


 他人は、私のために動く。

 他人は、私の感情を先回りして整える。

 他人は、私が手を伸ばす前に、すでにそこにある。


 学校で使う教科書などは前日に母がすべて用意してくれていた。

 使う自転車を毎朝、家の前に出してくれた。


 私はその法則を手に、小学校へ上がった。


 当然、法則は通用しなかった。


 クラスメイトは私の気持ちを察しなかった。教師は私の内側を読まなかった。休み時間、私は誰とも話せずに窓の外を見ていた。誰かが話しかけてくれるはずだった。誰かが「一緒に遊ぼう」と言ってくれるはずだった。


 誰も来なかった。


 私はその理由を、自分の側に探さなかった。「このクラスはおかしい」と思った。「この人たちは私のことを分かっていない」と思った。


 私の物語の主語は揺るがなかった。悪いのは、背景のほうだった。


─────



 秋の夕暮れに、私はひとり歩いていた。小学二年生の秋だったと思う。ランドセルが背中で軽く跳ねるたびに、金具がかちゃかちゃと鳴った。その音さえも心地よくて、私は上機嫌だった。


 理由は単純だ。クラスで流行っている替え歌を覚えたから。


 休み時間に男子たちが歌っていたのを、私は一生懸命に耳で拾った。歌詞の意味なんて欠片も考えなかった。みんなが楽しそうに笑いながら歌っていたから、私も笑いながら覚えた。ただそれだけだ。言葉は記号として私の頭に刻まれ、意味は完全に置き去りにされた。


 夕焼けに染まった住宅街を、私は大声で歌いながら歩いた。電線にとまったカラスが迷惑そうに飛び立った。犬を散歩させていたおじいさんが、眉をひそめて振り返った。私は気づかなかった。世界は「私」だけのものだったから。


 玄関を開けると、エプロン姿の母が廊下に立っていた。夕食の支度をしていたのだろう、手に菜箸を持っていた。私が歌いながら靴を脱いでいると、母の顔がみるみる険しくなった。


「そんな下品な歌を歌うんじゃない!」


 私は靴を脱ぐ手を止めた。


 下品? どこが?


 頭の中で歌詞を反芻したが、意味はやはりよく分からなかった。母が何を怒っているのか、私には理解できなかった。ただ、母が怒っているという事実だけが空気を通して伝わってきて、私はとりあえず「うん」と言って自分の部屋へ上がった。


 思えば、あれが最初の予兆だったのかもしれない。


─────



 小学四年生の春、私のクラスには三十一人の生徒がいた。


 その三十一人の中で、私がまともに言葉を交わせた人間は、たった一人だった。


 桐島七海。


 席が隣だったことから始まった関係だったと思う。彼女は背が高く、髪をいつも二つに結んでいて、笑うと目が細くなった。私と違って七海はクラスの誰とでも普通に話せたが、なぜか私のことを特別に気にかけてくれた。今思えば、七海が私に歩み寄ってくれていただけで、私は何もしていなかった。


 今振り返れば、七海は私にとって友人ではなかった。孤独を隠すための小道具だった。


 七海が笑うのが、私は好きだった。だがそれは七海のためではなかった。七海の笑顔が、私の隣にあることで、私が「ひとりではない」と証明されるから好きだった。


 七海が何を考えているか、七海が何を感じているか。

 私は一度も、本気で考えなかった。


 七海だけではない。


 担任の先生も、給食を一緒に食べたクラスメイトも、登下校を同じにした近所の子も、全員そうだった。私の物語の中で、彼らはそれぞれ役割を持っていた。先生は指示を出すもの、クラスメイトは私の孤独を証明しないために存在するもの、近所の子は徒歩の時間を埋めるもの。


 私の世界に生きる人間は、全員、何かのための人間だった。


─────



 四月の終わりに、七海のお祖母さんが亡くなった。


 七海が学校を三日休んだ。私は「風邪かな」と思い、特に気にしなかった。七海が戻ってきたとき、目の下に薄い隈があったが、私はそれも気に留めなかった。


 七海が学校を休んでいた三日間、私はひとりで給食を食べた。それが少し嫌だった。七海が早く戻ってこないかな、と思った。七海のことが心配だとか、七海は今どんな気持ちだろうとか、そういうことは一切考えなかった。私は七海がいないと「不便」だった。それだけだった。七海がいないと暇だった。給食がつまらなかった。退屈だった。


 五月のある昼休み、男子が七海の机の上にぐしゃぐしゃのランチョンマットを置いて、「お墓〜!」と叫んだ。


 クラスが笑った。私も笑った。


 「お墓」の意味が分からなかった、とずっと言い訳にしてきた。本当のことを言う。意味が分からなかったのは事実だ。だが分からなかった本当の理由は、七海のことを考えたことがなかったからだ。七海が三日間学校を休んでいたこと、戻ってきたとき目の下に隈があったこと、表情がどこか遠かったこと。私は全部を見ていた。見ていたが、七海の内側への想像力を、一切使わなかった。


 七海が泣き出した。先生が飛んできた。男子たちが叱られた。七海は保健室へ連れていかれた。


 静まり返った教室で、私が考えていたのは、明日の休み時間をどう過ごすか、ということだった。


 七海のお祖母さんが亡くなっていたのだと、私はそのとき初めて知った。


 放課後、七海に「ごめん」と言った。七海は疲れた目で私を見て、「おばあちゃんが死んだんだよ」と言った。私は「そうか」と思い、もう一度「ごめん」と言った。謝るのが正しい場面だと判断したから謝った。七海をなだめれば、また明日から隣にいてくれるから謝った。


 七海への謝罪さえ、私は道具として使った。


─────



 放課後、七海は保健室から戻ってきた。目が赤く腫れていた。


 私は七海に近づいた。何か言わなければと思った。だが何を言えばいいのか分からなかった。


「……大丈夫?」


 七海は私を見た。その目の中に、悲しみとは少し違うものがあった。


 「大丈夫じゃない」と七海は言った。「一緒に笑ったよね」


 「うん」と私は答えた。「でも、何がおかしいのか分からなくて」。


 七海は少しの間、黙っていた。それから静かに言った。


「おばあちゃんが死んだんだよ。先週」


 私は「あ」と思った。そういうことか、と。ランチョンマットはお葬式に持っていったのかもしれない、とぼんやり思った。


「だからお墓って、悪口なの」


 七海の声は平坦だったが、その平坦さの奥に何か重いものが沈んでいた。私にはそれが読み取れなかった。


 「ごめん」と私は言った。


 謝ったのは正しかったと思う。だが私の「ごめん」はひどく軽かった。心から申し訳ないと思っていたわけではなかった。ただ、これは謝る場面だと判断して、謝った。


 七海はそれ以上何も言わなかった。鞄を持って帰っていった。


 私は七海の背中を見送りながら、どこかで「羨ましい」と感じていた。


 私も泣いてみたかった。誰かに心配されてみたかった。誰かの中心になりたかった。


 こんなことを書くと、自分でも本当に嫌になる。だがそれが当時の私の本心だった。


 七海には、声をかけてくる人間がいた。からかってでも、悪意があったとしても、誰かが七海の存在に気づいて、働きかけてきた。私には、七海以外に話しかけてくる人間が誰もいなかった。私の存在は、クラスの大半にとって空気だった。


 他人から「死」を願われることの痛みを、私は理解していなかった。


 七海が泣いた理由は分かった。だが七海がなぜ私にも怒ったのかは、長い間分からなかった。


─────



 私はその間も、人間を背景として使い続けた。


 中学の部活では、後輩を「自分が先輩らしく見えるための存在」として扱った。後輩の名前を覚えるのが遅かった。覚える必要を感じなかったからだ。後輩は後輩という機能を持った何かであって、固有の名前を持つ誰かではなかった。


 中学三年の秋、修学旅行の一日目に、私は生理になった。


 準備していなかった。カバンの中にナプキンを入れるのを忘れていた。旅館のトイレの前で立ち往生していたとき、七海が通りかかった。


 七海は私の顔を見た。それだけで察した。


「持ってる」と七海は言って、鞄から小さなポーチを取り出した。「これ使って」。


 私は「ありがとう」と言ってトイレに駆け込んだ。


 そのとき私が感じたのは感謝だったが、同時にそれを「当然」だとも思っていた。困っていれば、誰かが気づいてくれる。言わなくても、伝わる。それが私の世界の法則だった。


 あの「お墓」事件のあと、七海は翌朝も普通に「おはよう」と言った。

 何事もなかったように席に座った。


 当時の私には、七海が特別なのではなく、そういうものなのだと思っていた。


─────



 二十歳の成人式だった。七海から「一緒に成人式に行こう」と連絡があった。


 でも私は断った。

 合わせる顔がないと思った。


 私は成人式に行く資格がない。

 その日はバイトを無理矢理入れてやり過ごした。


 七海とはそれから連絡を取っていない。


─────



 これを書いている今、私は二十六歳だ。


 あの頃の自分を思い出すたびに、恥ずかしさで体が縮む。逃げ出したくなる。なかったことにしてしまいたくなる。


 だが、なかったことにはできない。


 私は確かに、あの教室にいた。一緒に笑った。七海を泣かせた。そして長い間、自分が何をしたのかすら、きちんと理解していなかった。


 私の罪は少なくとも二つある。


 一つは、他人のことを思いやれなかった罪。


 七海にとって「お墓」がどれだけ残酷な言葉だったか。その痛みに、私は想像力を向けなかった。他人の痛みは、私の世界には存在しなかった。存在していても、風景の一部でしかなかった。


 もう一つは、自分の気持ちを言葉にしなかった罪。


 言わなくても伝わる、と思っていた。察してもらえる、と思っていた。それは甘えだった。傲慢だった。言葉にしなければ、人の心には届かない。私たちはエスパーじゃないから。


 世界の中心は「私」じゃなかった。

 私は「相手」を「人間」として見ていなかった。


 あの教室に三十一人いたとき、それぞれの世界の中心はそれぞれに存在していた。三十一の宇宙が、狭い教室の中でぶつかり合っていた。私はそのことに気づかなかった。自分の宇宙だけが本物で、他の三十の宇宙は背景画だと思っていた。


 いつから変われたのか、はっきりとは分からない。


 恐らく、きっかけは高校の修学旅行の時だ。旅行の準備をいつものように母がやってくれなかったことに対して、私は子どものように泣き喚いた。


 いつもなら先回りしてやってくれる母が今回ばかりはやってくれなかった。私は何をどうしていいのか分からなくて、途方に暮れた。


 母に泣きついた。「自分のことでしょう!」そう言われた時、そうだ、これは自分のことで、自分ですべきことだったのか、と気づいたのだった。


 母を恨んだ。「なんで急に?」と思った。それと同時に自分が情けなく感じた。

 自分のことすら自分でできない自分に愕然とし、失望した。

 泣きながら旅行の準備をした。


 気づいたら、言葉を選ぶようになっていた。


 気づいたら、「この人は今どんな気持ちだろう」と考えるようになっていた。


 遅すぎた、と思う。本当に、遅すぎた。


 でも、気づけたことを、せめてよかったと思いたい。


─────



 七海とはもう疎遠になってしまった。


 「成人式一緒に行かない?」「ごめんバイトが入ってて」それが最後のメッセージになった。


 私は画面を見つめて、泣いた。


 もう一度、七海に会えたら謝りたいと思っていた。その機会さえもうない。連絡先ももう知らない。


 世界の中心はもう「私」ではない。


 でもそれは、喪失ではなかった。


 私の世界は、ようやく、広くなったのだと思いたい。



──完──

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