一 雨を待つ
不思議な日々だと思った。
それまで、逃げたいばかりだった現世が不思議と新鮮で、あれほどまでに虚無感で覆われていた筈が、今はただ心が踊る様。明かり取りの小窓ばかりを気にして、光明の加減を、外の音を、空模様を、僅かな温度を、匂いの変化を気にして――そう、槐はずっと雨を待っている。
今は雨季。しかし何故だか、雨が降らない。だからと言って、田圃が乾く事はなく、井戸も枯れてはいない。川の水位も、然程変化はないそうだ。ただ、雨が降らないだけ。
雨が、恋しい。何かを待ち焦がれる想いは、幼い頃に何度と槐が経験したものだ。けれども、幼い頃よりもずっと、胸が苦しい。ぎゅうぎゅうと何かに心の臓を締め付けられるような。痛みはないのに、苦しい。けれども、それが嫌ではない。
雨を待つ槐に不安は無かった。不用意に、誰も槐を傷つけなくなったのもあるだろうか。だが、それ以上に槐の手には、冷んやりとした黒い鱗が握られて、微かだが雨の匂いが槐の心を安らげてもいた。
ああ、きっともう直ぐだ。日に日に恋慕の情は増して、焦がれる想いに胸が灼けてしまいそう。早く迎えにきてくれないと、心臓が燃え尽きてしまうのではないのだろうか。槐は小窓を眺めがら、「ほう」と一つ息を吐く。焦がれた想いが染み込んだ息は、甘い香りが立ち込めながらも、熱く、熱く。
そうして何日と、恋焦がれる日々が過ぎていく。そして――――
待ちに待った、雨が来た。
ぽつり。ぽつりと。
雨粒が屋根瓦に弾かれる音に、槐は目を覚ました。
雨だ。心待ちにしていた雨。
ああ、彼が来た。




