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第8話-今度こそ

皆さん、こんにちは!お待たせしました、第8話の登場です!

今回はついに――橘の過去が明かされます!(今さら!?って思うかもしれませんが…笑)

少し長めの内容になりますが、できれば時間のあるときに一気に読んでもらえると、

より深く楽しめると思います。


それでは――どうぞ!

およそ十七、八年前の放課後。

ある中学校の校舎の片隅、人通りの少ない場所で、

三人の不良生徒が一人の男子生徒を取り囲んでいた。

そのそばには、怯えた様子で壁際にうずくまるもう一人の生徒。

腕や頬には擦り傷があり、カバンの中身は床に散乱している。

だが、三人を前にしたその男子だけは、不思議と怯える素振りを見せなかった。

同年代の生徒よりも少し背が高く、体つきもしっかりしている。

ジャージ姿で、片手にはコンビニのプロテインドリンク。

さっきまで運動でもしていたのだろう。

静かな睨み合いが続いたのち、ついに不良たちがしびれを切らした。

リーダー格の一人が一歩前へ出て、相手の顔のすぐ近くまで詰め寄る。

「てめぇ、誰だよ? あのクズのダチか?」

不良は、壁際で震える生徒を横目で見ながら吐き捨てた。

「いや、知らねぇけどさ。話があるなら落ち着いて話せばいいだろ? 殴る必要ねぇじゃん。」

少年は淡々と答えると、再びストローをくわえ、音を立てて一口すすった。

「はぁ? なんだその態度。さっさと消えろよ。

それと先生にチクったらただじゃおかねぇからな。」

「チクる? 何を? “お前らが俺にボコられました”って報告でもすんのか? ははっ、笑えるな。」

少年の言葉に、不良たちの顔が一瞬で真っ赤になった。

リーダーが怒りに任せて拳を振り上げた瞬間、

少年は冷静に、口に含んでいたプロテインを勢いよく相手の顔に吹きかけた。

不良は突然の液体をまともに浴び、目を開けられずに叫んだ。

その隙を逃さず、少年の拳が正面から鼻梁を打ち抜く。

さらに股間へ一撃、苦痛にうめく不良の頭を掴み、膝で顔面を叩きつけた。

鈍い音と共に、リーダーはそのまま地面に崩れ落ちる。

地面に転がったボトルから、残ったドリンクがゆっくりと流れ出ていく。

少年は小さくため息をつき、呟いた。

「おい……これ、安くねぇんだけどな……」

そう言って倒れた相手の腹をもう一度蹴り飛ばし、

怯えた二人の不良へ視線を向ける。

「さぁ……次はどっちだ?」

数分後。

無事にその場をあとにした少年は、

床に落ちていたボトルを拾ってゴミ箱へ投げ入れ、

近くのコンビニで新しい一本を買った。

そして校舎の外へ出ようとしたとき、背後から声をかけられた。

「煉司~!」

「ん? 詩織? なんでお前がここに?」

駆け寄ってきたのは、同じ制服を着た女子生徒だった。

「こっちのセリフ! またケンカしてたでしょ?」

詩織は息を整えながら、あきれ顔で言った。

「見てたよ。でもな、それを“正義の味方”って言うの?」

橘は涼しい顔で答え、再びストローをくわえる。

「はぁ……この前あんたのお母さんに頼まれたんだからね。

“危ないことはやめさせて”って。」

「別にケンカしたかったわけじゃねぇよ。

勝てるって分かってたからやっただけだ。

それにポリス様だったら、絶対──」

「はいはい、またポリス様ね。

てか、あんたそれいつも飲んでるけど……美味しいの?」

「別に。試しに飲んでみる?」

橘はボトルを詩織の前に差し出した。

彼女は一瞬ためらったものの、結局それを受け取る。

「じゃ、じゃあ……」

詩織は恐る恐るストローをくわえ、少しだけ口に含む。

「うわっ、なにこれ!? まずっ!

あんた、毎日こんなの飲んでんの?」

詩織は顔をしかめてボトルを橘に突き返した。

「味で飲んでるわけじゃねぇ。栄養とプロテインのためだよ。

ほら、せっかく飲ませてやったのに文句言うな。結構高いんだからな。」

「まずいって分かってて人に飲ませるなよ……

せめて美味しい味にしなさいよ……あっ……目が、かゆ……」

「どうした?」

橘は詩織が目をこすり始めたのに気づき、眉をひそめた。

「べ、別に……最近ずっと目がかゆくてさ。

今日なんか特にひどいんだよね……うぅ、最悪……」

「こするなって。ちょっと見せてみろ。」

二人は立ち止まり、橘は少しかがんで詩織の顔に近づいた。

「ちょ、ちょっと、近いってば……」

距離の近さに、詩織は恥ずかしそうに顔をそらす。

「近くなきゃ見えねぇだろ。じっとしてろって……

うーん、特に異常は……ん?」

橘の目が細くなる。詩織の瞳の奥に小さな赤い点が浮かび上がり、

それがみるみる膨らんでいく。まるで光が漏れ出そうな――。

「……な、なんだあれ――って、うおっ!」

突如、詩織の両目から真紅の光線が放たれる。

橘は反射的に身をよじり、間一髪で避けた。

詩織自身も予想外の出来事に悲鳴を上げる。

「目、目を閉じろ! 早く!」

橘の叫びに、詩織は慌てて瞳をぎゅっと閉じた。

すると光はぴたりと止まった。

橘はその場にしゃがみ込み、息を荒げた。

恐る恐る振り返ると、街路樹も車も建物も、

赤い光が触れたものすべてが焼け焦げ、崩れ落ちていた。

金属もレンガも、まるで紙のように脆い。

それは橘にとって、生まれて初めて目にする“超能力”だった。

そして、その力の持ち主は――

彼が最も信頼する友人、詩織。

しかもその力は、橘がこれまで最強だと信じてきた

ポリス様の力をも、遥かに凌駕していた。

=================================================


数年後の12月9日。

街にはクリスマスと新年を待ちわびる明るい空気が満ちていた。

橘もすでに高校生になっており、

憧れのヒーロー・ポリス様の背中を追うように、

今でも自主トレーニングを欠かさず続けている。

その体つきは、昔よりさらに逞しくなっていた。

その日もいつも通り、朝食を終えてトレーニングを済ませ、

学校へ向かう途中のことだった。

ふと、足元が急に暗くなり、

橘は他の通行人と同じように空を見上げた――

そして、目にした光景に息を呑む。

空には、いくつもの巨大な宇宙船が浮かんでいた。

その艦から次々と異星の兵士たちが降下し、

街中に無差別の攻撃を仕掛ける。

爆発が起こり、炎が上がり、

一瞬で街は地獄と化した。

警察や軍の部隊が出動し、

それに混じって各地のヒーローたちも姿を現した。

橘も周囲の人々と同じように恐怖に駆られたが、

すぐに気を取り直し、避難のために走り出した。

混乱の渦中で、橘は視界の先に――武器を構えた一体のエイリアンが、ひとり取り残された幼い女の子を狙っているのを見た。

理性は「逃げろ」と叫んでいる。この戦火に包まれた街から、一刻も早く離れろと。

それでも橘は、自分の両手を見つめた。

そして、幼い頃にテレビで見たポリス様のインタビュー映像を思い出す。

『……ポリス様。まだ超能力を持っていなかった頃、どうして命を懸けてまで人を助けようと思ったんですか?』

『それは――正しいことだと思ったからさ。

それに、その時心の中でこう聞こえたんだ。“This is my moment.”ってね。

だから分かったんだよ。――今、この瞬間、立ち上がるのは俺なんだって。』

「This is my moment……」

橘は拳を強く握りしめ、避難民たちとは逆方向へと一歩を踏み出した。

エイリアンが幼い女の子に向けて武器を構えた瞬間、橘の足が閃く。

そのまま全力で敵を蹴り飛ばし、振り抜いた通学鞄で武器を叩き落とす。

敵がすぐに反撃の拳を放つが、橘は身をひねって紙一重でそれを避けた。

「いける……俺なら、いける……!」

橘は勢いそのままにカウンターのフックを全力で叩き込む。拳が敵の胴を捉えた瞬間、金属がぶつかり合うような鈍い音が響いた。

しかしエイリアンは倒れず、わずかに後退しただけだった。

逆に橘の拳には鋭い痛みが走り、骨がきしむ感覚が伝わる。

想定外の硬さと痛みに、橘の頭は一瞬真っ白になった。

その瞬間――彼は、目の前の危険を忘れていた。

「お兄さん、あぶな――!」

幼い女の子の叫びが終わる前に、橘の体は強烈な一撃を受けて吹き飛ばされた。

地面に叩きつけられ、何が起きたのか理解するより早く、腕で支えた手が震える。

指先に触れたのは、自分の体から流れ出る温かい血だった。

「お、俺が……たった一発で……」

言葉を吐き出す間もなく、敵の拳が再び飛んできて、橘の口から鮮血がこぼれる。

周囲を見渡すと、それが特別強い個体ではないと分かる。

同じような敵が、まだ何十体もこの街にいる。

血の味、焼け焦げた匂い、爆発の閃光、崩れ落ちた建物、響き渡る悲鳴と泣き声――

そして冬の凍えるような冷気が、全て混ざり合って橘の感覚を支配した。

痛みと絶望的な力の差が、やがて「恐怖」と「無力」へと変わっていく。

これまでの喧嘩とは違う。

今回は――本当に、死ぬかもしれない。

敵が武器を拾いに向かったその一瞬の隙を突き、橘は全身の力を振り絞って立ち上がった。

――戦うためではない。逃げるためだ。

「お、お前も早く逃げろ……!」

橘は幼い女の子に叫んだが、彼女は恐怖で足がすくみ、地面に座り込んだまま泣きじゃくっていた。

橘もまた、恐怖と混乱のあまり余裕を失っており、助けることなど考える暇もなかった。

「……もう、知らねぇ……」

橘はそう吐き捨てて背を向け、逃げ出そうとした。

だが数秒も経たないうちに、背後からあの敵の武器を構える音が聞こえる。

狙われているのは――あの幼い女の子。

彼女はまだ地面に座り込んだまま、泣くことしかできなかった。

橘は恐怖に震えながらも、ほとんど反射的にその前へ飛び出していた。

意味があるかなんて分からない。

ただ――どうしても、放っておけなかった。

「だ、大丈夫だ……」

橘は震える手で少女を抱き寄せ、頭を撫でて敵の姿が見えないようにした。

口では必死に安心させようと呟いているが、それはまるで――死を覚悟した自分への催眠のようだった。

敵の銃口がこちらを向く。

逃げる時間は、もう残されていない。

橘は静かに目を閉じ、運命を受け入れるように息を呑んだ。

だがその瞬間――

突如として一つの人影が飛び込み、敵を拳一つで吹き飛ばした。

橘は思わず目を見開き、その姿を捉える。

見覚えのあるシルエットだった。

「し、詩織……!?」

詩織はまるで弾丸のように駆け抜け、あっという間に周囲のエイリアンたちを薙ぎ倒していく。

次の瞬間、彼女は空へと舞い上がり――双眼から放たれた紅いレーザーが、母艦を貫いた。

そのまま肉体ひとつで宇宙船を破壊し続ける姿は、もはや人間とは思えない。

さっきまで橘を絶望の淵に追い込んでいた敵たちは、彼女の前ではまるで無双ゲームの雑魚のように、次々と消えていった。

橘はその光景を、ただ呆然と見つめていた。

戦えているのは、彼女のような超人たちだけ。

警察も軍も、そして自分のようなただの人間も――何の役にも立たない。

逃げることしか、できない。

全身の力が抜け、橘はその場に崩れ落ちるように呟いた。

「……俺、今まで……何やってたんだよ……

力もねぇくせに……ヒーローになりたいなんて……笑わせんな……」

〈129事件〉が終わったあと、世界は復興の時代へと移っていった。

その混乱の中で、新たなヒーローたちが次々と現れ、人々の注目を集めていた。

詩織もそのひとりだ。

彼女はDSAや他の機関から招かれ、訓練やヒーロー活動に参加するようになった。

活動の方向性が変わっていくうちに、橘と詩織の距離も自然と離れていった。

橘はもう自主トレーニングをやめ、大学受験のために勉強へと専念するようになった。

そして――時は流れた。

数年後、かつて橘が憧れていたポリス様は引退を発表。

詩織は〈お嬢〉というヒーローネームで正式にデビューを果たした。

一方の橘は大学を卒業し、就職活動の真っ最中だった。

============================================


「橘さん、どうしてうちの会社を志望されたんですか?」

「自分の専門分野が、この業界の問題解決に向いていると思ったからです。」

「なるほど。では具体的に、どんな仕事に興味がありますか?」

「えっ……どんな、仕事……?」

「ええ。――あなたが“本当にやりたいこと”は何ですか?」

その質問が、なぜか橘の胸を鋭く突いた。

準備してきたはずの言葉が、頭の中からすべて消えていく。

面接が終わったあと、橘はため息をつきながら帰り道を歩いていた。

心の中には、言いようのない虚しさだけが残っていた。

「はぁ……また落ちたかよ……。

“興味”なんてあるわけねぇだろ。仕事が欲しいだけだっつーの……」

橘は自嘲気味に呟きながら、さっきの面接を思い返す。

努力して準備したはずなのに、結果はまた不合格。

その現実が、じわじわと心に堆積していく。

気分を紛らわせようと、橘はポケットからスマホを取り出した。

ふと、画面をスクロールしていた橘の指が止まった。

ニュースの見出しに目を疑う。――いや、正確には「ニュース」兼「募集広告」だった。

『We want you! 二代目ポリス様選抜プロジェクト開催決定!

資格不問! 誰でもヒーローになれるチャンス!

“次のポリス様は――君だ!”』

その派手なキャッチコピーを見つめながら、橘は自然とさっき面接官に言われた言葉を思い出した。

「俺が……本当にやりたいこと、か……」

橘の視線は画面の中に映るポリス様に吸い寄せられた。

彼は昔と変わらぬ笑顔で、人差し指をまっすぐこちらへ向けている。

――まるで、自分を選んでいるかのように。

橘の手が、かすかに震えながら口元を覆った。信じられない、けれど胸の奥が熱くなる。

気づけば橘は、走っていた。

帰宅すると同時にスーツと書類を放り投げ、まっすぐ家の奥――埃をかぶった古い倉庫へ向かう。

そこには、かつて使っていたトレーニング器具や道具がそのまま残っていた。

橘はそれらを見つめ、深く息を吸い込む。

そして、ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。

「――This is my moment.」

そう呟きながら、橘は再び自主トレーニングを始めた。

選抜が始まるまでの期間、橘はこれまで以上に真剣にトレーニングへ打ち込んだ。

徹底的に体を鍛え、食事も睡眠も管理し、あの頃の自分を取り戻すどころか――それ以上に強くなっていた。

そして迎えた選抜当日。

橘は朝早くに荷物をまとめ、ひとり遠く離れた山中の訓練キャンプへと向かった。

そこには同じように集まった数十名の参加者たち。

男女も年齢もさまざまだが、見たところ橘より明らかに体格のいい猛者も多い。

彼らを見渡しながら、橘の胸に静かな闘志が燃え上がった。

荷物を置いたあと、彼らは全員で大きな講堂のような場所に集められた。

どこか夏合宿の説明会のような雰囲気で、橘も少しだけ肩の力を抜く。

やがてスーツ姿と軍服姿の数名が壇上に現れ、そのうちのひとりが前に出て話し始めた。

「皆さん、ようこそお越しくださいました。

まずは――二代目ポリス様選抜試験にご参加いただき、心から感謝します。

そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。とりあえずお茶でも飲みながら、軽くお話しましょう。

そのあとで今回の試験について簡単に説明しますね。」

テーブルの上には、簡単なお茶と菓子が並べられていた。

橘も他の参加者と同じように少しつまみながら耳を傾ける。

場の空気が少し和らいだのを見計らって、司会の男は再び口を開いた。

「まず今回のプロジェクトは、DSA、国立研究院、そして軍の複数部署による共同主催です。

これから皆さんには、さまざまな訓練と試験を受けていただきます。

途中で不参加、もしくは基準を満たせなかった場合は――残念ですが、その時点で帰宅となります。

また、体調を崩したり危険を感じた場合は、必ずすぐに申し出てください。

こちらにも訓練の中止を判断する権限があります。

――以上の点を踏まえた上で、」

男は淡々と説明を続けた。

主催側の本気度が、言葉の端々から伝わってくる。

だが――説明が続くうちに、場の空気は次第にゆるんでいった。

朝早くから集合した疲労もあって、あちこちであくびや舟を漕ぐ音が聞こえる。

中には机に突っ伏して寝てしまう者までいた。

橘もまた、瞼が重くなっていくのを感じた。

「ヤバい、寝るな……」と自分の頬を軽くつねるが、視界の端で壇上の男たちが交わした一瞬の表情に、妙な違和感を覚える。

次に視線を落とした時――目の前の茶と菓子がぼやけていった。

そのまま、橘の意識は暗闇へと沈んだ。

橘が再び目を覚ましたとき――

そこは、軍用輸送機の機内だった。

周囲を見渡すと、他の参加者たちも同じようにシートベルトとヘルメットを着用している。

機体は激しく揺れ、窓の外では稲妻が閃き、豪雨が叩きつけていた。

赤い警告灯が点滅し続け、警報音が狭い機内に鳴り響く。

緊張感が一気に肌を刺すように高まっていった。

そのとき、前方に立つ軍服姿の男が怒鳴るような声を張り上げた。

「全員、注目!――これが貴様らの“最初の試験”だ!」

「マジかよ、もう始まんのか!?」

「ま、まさかいきなり戦闘訓練とか!?」

ざわつく参加者たち。橘も状況を掴めずにきょろきょろと周囲を見回す。

だが教官は構わず声を張り上げた。

「静かにしろ、クソども! いいか、これからお前らに与える“最初の試験”は――この機体から飛び降りることだ!」

「……は?」

「パラシュート訓練みたいなもんだ。簡単だろ? 質問があるなら手を挙げろ。」

簡潔すぎる説明のあと、機内には気まずい沈黙が流れた。

「……その、“簡単”ってどのへんがですか?」

「技術は関係ねぇ。テストするのはお前らの“度胸”だけだ。――簡単だろ?」

「じゃ、じゃあパラシュートはどこに!?」

「いい質問だ。……ここにある。」

教官は自分の背中を親指で指した。

「残念だが、一つしかねぇけどな。」

「ちょ、ちょっと待ってください! じゃあ俺たちはどうすれば――」

「できねぇなら無理すんな。ここに残ってもいい。

ただし――飛び降りる方が危険なのは当たり前だ。保険と免責同意書、ちゃんと読んできたよな?」

教官の号令と同時に、操縦士が機体後部のハッチを開いた。

吹き込む暴風が一瞬で機内の空気をかき乱す。

外は分厚い雲と霧に覆われ、地面の高さなどまるで見えない。

気圧差で耳が痛み、恐怖で足をすくませる者もいれば、すでに青ざめて吐きそうな者もいた。

さらに教官は手元のタイマーを取り出し、無造作にボタンを押した。

画面には「10:00」――無情なカウントダウンが始まる。

「制限時間内に試験を完了しろ。以上だ。――健闘を祈る。」

それだけ言い残すと、教官は背中の唯一のパラシュートを背負い、迷いなく機外へと飛び出した。

残されたのは参加者たちだけ。互いに顔を見合わせ、硬直した空気が漂う。

「これ、何かのトリックだろ?」「いや、本当に落とすつもりかも……」

「多分、安全高度なんじゃないか? ほら、映画の撮影みたいな演出でさ!」

誰もが勝手な憶測を口にし始めた。

だが、共通しているのは――誰一人として、最初に飛ぶ勇気がないということだった。

無情にタイマーの音だけが、秒を刻んでいく。

そのときだった。

ずっと黙って座っていた橘が、静かに立ち上がった。

彼はゆっくりとハッチの前まで歩き、吹き荒れる風の向こう――何も見えない白い雲の海を見下ろす。

数秒の沈黙のあと、橘は軽く首を回し、肩をほぐし始めた。

「お、おい……マジで行く気か!? ま、まだ時間あるだろ? ほら、何か方法を――」

隣の男が慌てて止めようとする。

だが橘はちらりと彼を見ただけで、落ち着いた声で答えた。

「好きにすればいいさ。俺は――ただ、一歩踏み出せるかどうか、それだけだ。」

そう言い残し、橘は助走もなく――迷いのない動きで、空へと身を投げた。

もちろん、橘の頭のどこかでは「安全高度かもしれない」と思っていた。

だが――飛び出した瞬間、そんな考えは吹き飛んだ。

凍えるような風が体を包み、自由落下の衝撃が全身を襲う。

雲を突き抜けた先に見えたのは、遠く霞む地面。

人影ひとつない、ただの大地だった。

「マ、マジかよッ! 本当に落ちてんじゃねぇか!!」

思わず叫び、勢いで汚い言葉まで飛び出す。

教官は「飛べ」としか言わなかった――着地の方法なんて一言も教えていない。

橘は必死に手足を動かして姿勢を整えようとするが、それが正しいのかどうかも分からない。

轟音のような風が耳を切り裂く。

気圧の圧迫と落下の加速度が重なり、橘の体はどんどん地面へと吸い寄せられていく。

下に見える景色が一瞬ごとに鮮明になり、スピードはさらに増す。

視界が回り、意識が遠のきそうになる中――

ついに、地面が目前に迫った。

「うわああああああああああ!!!」

「うわああああ――……え?」

次の瞬間、体の速度が急に落ちた。

下から吹き上げるような風――まるで巨大な掌が支えているような上昇気流が、橘の体を包み込む。

落下の勢いが消え、ふわりとした感覚と共に、彼はゆっくりと地面へと降り立った。

足が地を踏んだ瞬間、橘は信じられない思いでその感触を確かめた。

「……生きてる……?」

そう呟きながら、その場にしゃがみ込み、大きく息を吐いた。

「……はぁ、はぁ……」

「おめでとう。――第一関門、突破だ。しかもトップでな。」

教官の一人が近づき、毛布を橘の肩に掛けてやった。

橘の脚はまだ震えており、うまく立ち上がることができない。

「お、俺……どうやって助かったんだ……?」

「ん? ああ、彼女のおかげだよ。」

教官は空を指さす。

そこには、ふわりと宙に浮かぶ少女の姿。

「ルーキー。いまヒーロー研修中の実習生で、天候を操る能力者だ。今回はアルバイトで手伝ってもらってる。」

先ほどの雲も、風も、そして橘を包んだ上昇気流も――すべて彼女の仕業らしい。

「ま、とにかく合格おめでとう。試験が終わるまでは中で休んでていい。食事も用意してある。……ああ、今回は薬なんて仕込んでねぇから安心しろ。」

軽く笑いながらそう言い残すと、教官は踵を返して去っていった。

橘はしばらく深呼吸を繰り返し、ようやく立ち上がった。

少しして、空から次の参加者が降りてくる。

案の定、彼も橘と同じように絶叫しながら落ち、着地の瞬間そのまま地面にへたり込んだ。

橘はその様子をちらりと見て、少し迷った末に歩み寄った。

「おい、大丈夫か?」

「だ、だいじょうぶっす……はぁ、はぁ……」

橘は手を差し出して引き上げる。

近くで見ると、相手は自分より数歳は若そうだった。

「す、すみません……ありがとうございます……」

少年はふらつきながらも立ち上がり、荒い息を整えようとしていた。

「お前、ずいぶん若いな? なんでこんなとこ来たんだ? お前もポリス様になりたいのか?」

橘は少し興味を持って尋ねた。

「い、いや……そういうわけじゃ……。

俺、ただ――もう逃げたくなかったんです。」

その瞳はまっすぐで、真剣だった。

気迫だけなら、橘にも負けていなかった。

「……そうか。なら、頑張れよ。」

橘は短く言い残し、軽く手を挙げて建物の中へ向かった。

「え、えっと! 兄貴! お名前は……!?」

「橘。」

「俺っ、嶋田って言います! よ、よろしくお願いします!」

こうして橘と嶋田たちは、過酷な訓練と試験の日々へと突入した。

睡眠も食事もろくに与えられず、水分すら限られた状態で課せられる任務。

灼熱や極寒の自然環境でのサバイバル。

射撃・格闘・戦術・応急処置など、多岐にわたる技能訓練。

さらには、精神的圧迫や屈辱、極限まで追い詰める意志力テストまで――。

今思えば、最初の高空ジャンプなど、まだ“優しい方”だった。

ここで試されているのは、肉体でも技術でもない。

己の「心」そのものだった。

それから数年――。

地獄のような訓練を経て、生き残ったのは橘と嶋田を含むほんの数名だけだった。

彼らはもはや「精鋭」と呼ぶにふさわしい存在となっていたが、

その心は長年の重圧と疲労で蝕まれ、少しずつ壊れ始めていた。

仲間たちの間に漂うのは、焦燥と苛立ち、そして――自分への疑念。

「……こんなこと、続けて何になるんだ?」「いつ終わるんだ、これ……」

「どうして自分を痛めつけ続けなきゃいけないんだ……」

そんな疑問を、誰もが何度も自分に投げかけた。

橘も例外ではない。

「ここまで来て、今さらやめたら全部無駄になる」――

そう自分に言い聞かせながら、歯を食いしばって立ち続けていた。

ある日の訓練後、休憩時間のことだった。

橘がトイレの個室で一息ついていると、外から数人の男たちの声が聞こえてきた。

どうやら上層部の教官たちらしい。

別に盗み聞くつもりはなかったが、狭い空間では否応なく耳に入ってしまう。

「気づけばもう何年も経ったな。残ってるのも、ほんの数人だけだ。」

「そうだな。……で、誰か気になる奴はいるか?」

「うーん、橘ってやつは悪くない。ただ――何かが足りねぇ気がするんだよな。」

「分かる。俺はどっちかって言うと嶋田の方に可能性を感じる。」

「おいおい、まるで競馬の予想みてぇだな、ははは。」

「ははっ、さて、最後まで残るのはどっちだろうな……」

男たちは談笑しながらトイレを出て行った。

そのすべての会話を、橘は個室の中で一言一句逃さず聞いていた。

――まるで、告白する前にもうフラれたような気分だった。

唇が震え、拳が自然と握られる。

重い足取りで、橘はトイレを後にした。

休憩が終わり、着替えを済ませた橘たちは再び訓練場へ集合した。

教官が前に立ち、新たな指示を告げる。

「これからは実戦形式の対人訓練を行う。まずは二人一組で――」

教官の説明が続くが、橘の耳にはほとんど入っていなかった。

先ほどの会話が、頭の中で何度も反芻されていた。

「……橘、聞いてるか? 次はお前と嶋田の番だ。」

「……あ、ああ……了解。」

その名前を聞いた瞬間、橘の意識が現実に引き戻された。

視線を向けると、嶋田が軽くうなずいている。

だが、橘の胸の中では何かが静かに軋み始めていた。

試合の順番が近づくにつれ、その違和感は――怒りと焦燥へと変わっていった。

そして、二人が訓練場の中央に立つ。

橘の表情は、どこか張りつめていた。

鋭い視線が嶋田を射抜く。

「――よし、両者、構え!」

教官が開始の合図を出そうと声を張る。

(こいつが俺より“資格”がある? ふざけんな……。

いつも俺の後ろをついてきただけのガキが、ヒーローを語れるってのか?

現場の現実も知らねぇくせに……。

俺が手を貸さなきゃ、何度も脱落してたくせに。

まさか……全部計算ずくだったのか? 俺を踏み台にしてここまで……?

冗談じゃねぇ……。ここまで来て――俺は、絶対に倒れねぇ!!)

橘は奥歯を噛みしめ、首と指を鳴らす音が静寂の中に響いた。

「――はじめッ!」

号令が響いた瞬間、橘は一歩、力強く踏み込んだ。

その気迫は、今までの彼とはまるで別人だった。

「た、橘っ! おい、やめろ! もう十分だ!!」

気づいたときには、橘の両腕は嶋田の首を締め上げていた。

嶋田は必死に腕を叩き、降参の合図を送る――それでも橘の手は緩まない。

そのままでは、息の根を止めかねないほどの力だった。

周囲の教官や参加者たちが慌てて割って入る。

「やめろ橘!」「離せ!!」

だが、橘は振り払うように手を動かし、近づいた者を次々と殴り倒してしまった。

やがて、はっと我に返り、彼はようやく嶋田の首から手を離した。

嶋田は床に崩れ落ち、必死に息を吸い込む。

橘も荒い呼吸のまま、自分の手を見つめ――

その指先が、かすかに震えていた。

「橘っ! 何してる貴様! 殺す気か!!」

怒号とともに、数人の上官が駆け寄ってきた。

彼らの顔には明らかな怒りと困惑が浮かんでいる。

「ち、違う……俺は……」

橘は呆然とつぶやいた。

何かを弁解しようと口を開くが、目の前の惨状を前に、言葉が出てこない。

「もういい! 弁明は不要だ! 貴様は失格だ、帰れ!!」

怒鳴り声が訓練場に響き渡る。

「え……? ま、待ってくれ、俺は――」

「これは“テスト”だったんだよ、馬鹿野郎!

お前がトイレにいたことは分かってた。

あの会話はわざとだ――お前の反応を見るための試験だった!

そして結果が、これだ。……もう説明はいらねぇだろ。」

橘の頭の中が真っ白になる。

耳鳴りだけが響き、何をどう反応すればいいのか分からなかった。

「お、俺は……」

「残念だが――これでお前は終わりだ。荷物をまとめて帰れ。」

訓練場にいた全員の視線が橘に注がれる。

しばしの沈黙のあと、橘は何も言わず、無表情のままその場を後にした。

しばらくして、橘はひとりで荷物をまとめていた。

その顔には生気がなく、まるで何も映していないような虚ろな瞳。

全身からは「近寄るな」と言わんばかりの重い空気が漂っていた。

彼は足を引きずるようにして、訓練キャンプを後にする。

ゲートを通り過ぎようとしたそのとき――背後から声がかかった。

「やあ、橘さん。……こんな時に悪いね。

本当はもう少し後で話したかったんだけど、今しか時間がなくてさ。少しだけいいかな?」

橘が顔を上げると、そこに立っていたのは訓練期間中にも何度か見かけた管理職の男だった。

年齢は橘よりずっと上。

いかにも官僚然としたスーツ姿の中年男。

橘は無言のまま、しかめっ面で足を止め、その男を見た。

男は橘の沈黙を気にも留めず、穏やかな声で続けた。

「私はDSA所属の高瀬といいます。

君たちの訓練には、最初期から関わってきた。……正直、橘くんには期待してたんだよ。

残念だ、本当に惜しかった。

この先の予定は決めてるかい?

普通に働くとか、実家を手伝うとか……。

あるいは軍に入るって手もある。君の経歴なら、そこそこ上手くやれるだろう。」

数秒の沈黙のあと、橘はうつむいたまま力なく答えた。

「……分かりません……」

「そうか。……まあ、まだ若いんだ。いくらでもやり直せるさ。」

高瀬はポケットから名刺を取り出して差し出した。

橘が受け取って目を落とすと、そこにははっきりと――

“DSA(Department of Superhero Affairs)” のロゴが印字されていた。

橘は無言でその名刺を見つめ――次の瞬間、片手でぐしゃりと握りつぶした。

丸めた紙を無造作に地面へ投げ捨て、そのまま背を向ける。

一度も振り返らずに、歩き去っていった。

高瀨は特に何も言わなかった。

ただ静かに、去っていく橘の背中を見送ると、ゆっくりと踵を返し、再びキャンプへと戻っていった。

何年ぶりだろうか――橘は再び長距離列車に揺られていた。

かつては胸を躍らせ、希望を抱いて乗り込んだその路線。

だが今の彼の手には、夢の代わりに傷跡と疲労だけが残っていた。

列車の座席に腰を下ろしたまま、橘はただ窓の外をぼんやりと眺めていた。

何も考えられず、何も感じられない。

時間だけが淡々と流れ、意識は半分夢の中を漂っているようだった。

やがて、目的の駅に着く。

橘は重い体を引きずるようにして下車し、そのまま家路へと向かった。

ようやく自宅に辿り着いた橘は、照明すら点けずに玄関をくぐった。

荷物を床に投げ出し、服もそのまま脱ぎ捨てる。

何も言葉を発せず、ソファに沈み込むように座り込んだ。

しばらくして橘はふらりと立ち上がり、棚の奥から一本の酒瓶を取り出した。

昔、特別な日のために買っておいたものだ。

キャップを開け、コップも使わずそのまま口をつけて飲む。

喉を焼くようなアルコールが胃に落ちていく。

「……はぁ……」

重く長い吐息が、暗い部屋の中に溶けていった。

「……はぁ……橘……。

また何年もかけて、結局何も残らなかったな……。

お前はほんと、どうしようもねぇ負け犬だ。

ヒーローになりたい? 笑わせるなよ……。

まだ懲りねぇのか、はは……」

橘は自嘲気味に笑いながら、何度もボトルを傾けた。

あの夜、彼はただ黙って酒に溺れ――

“ヒーロー”という言葉を、再び思い出すことすら拒んだ。

こうしてしばらくの間、抜け殻のように日々を過ごしたあと——橘は生活のため、再び社会に戻らざるを得なかった。

しかしなぜか、どの会社も彼の経歴や能力を高く評価してくれるものの、職場ではなかなか上手くいかず、数年の間に何度も転職を繰り返すことになった。

まるで目的を見失ったまま、職場を漂い続けるような日々だった。

そんなある日、昔の人脈の紹介で彼はスタントマンの仕事を始めることになる。

かつて軍で過酷な訓練を受けていた経験もあり、体力面や技術面ではすぐに順応でき、仕事ぶりも悪くなかった。

こうして橘の生活は、少しずつではあるが安定を取り戻していった——。

……だが、数年後。彼は思いもよらない仕事を引き受けることになる。

それは「本物のヒーロー」が主演を務める、超大作のスーパーヒーロー映画だった。

主演の名前は——ミャウリン。

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「三十分以内に準備を終わらせろ! カメラ班、早くポジションについて!」

「プロデューサー! プロデューサーどこ行った!? ある俳優が“レモンパイじゃないと集中できない”とか言ってるんだ!」

「ダメだ、そのシーンは予算オーバーだ! CGはもっとチープにして!」

「アシスタント! 俺のコーヒーは!? 誰か早くコーヒー持ってきてくれ! もう限界だ!」

郊外にある撮影現場。

スタッフたちは全員てんてこ舞いで走り回り、そこら中から怒号や指示が飛び交っていた。

橘を含むスタントマンたちは、出番を待ちながら片隅で軽く食事をとっていた。

彼らは待機中のわずかな時間を使って、世間話を交わす。

「橘さん、まさかあなたがヒーロー映画の仕事を受けるなんて。業界じゃ“ヒーロー嫌いのスタントマン”で有名ですよね?」

「しょうがねぇだろ、飯を食うには仕事しなきゃな。別にヒーロー映画そのものが嫌いってわけじゃねぇよ。ただ……まさか本物のヒーローが主演とは思わなかっただけだ。」

「なるほどね。でもそのヒーロー、人気すごいらしいですよ。オタクのファンが山ほどいるとか。

 それで制作会社が映画化を決めたんですって。ちょっと台本見ましたけど、正直……クソ映画の匂いしかしませんでしたけどね。」

「チッ……最近のヒーローってのは、人助けより自己プロデュースが大事なのか? 自分で映画撮るとか、どんだけ名声が欲しいんだよ。……演技できるのかよ、そもそも。」

「聞いた話だと、まだ高校生らしいですよ。」

「はっ、どうせ“現役JKヒーロー”っていう売り文句だろ。風俗嬢が年齢ごまかすのと同じさ。」

橘の言葉はどんどん辛辣になり、口調にも棘が混じっていく。

「……やっぱり橘さん、ヒーローのこと嫌いなんじゃないですか?」

「ち、違ぇよ。俺はただ……」

急に図星を突かれた橘は、言葉を詰まらせた。

「まぁまぁ、いいじゃないですか。俺たちは仕事で来てるんだし、金のためだと思って我慢しましょう。こっちの安全にも関わるんですから。」

「……はぁ、確かにな。」

「おじさんたち〜、なに話してるの〜?」

その声が背後から突然聞こえ、橘たちは思わずびくりと肩を跳ねさせた。

振り向くと、若い少女が二人の間からひょこっと顔を出す。

好奇心に満ちた瞳はまるで小動物のようで、

ピンクのネコミミ型ヘッドホンと黒いアイマスクで上半分の顔を隠し、

艶のある黒髪が光を受けてさらりと揺れた。

「ミ、ミャウリン!? ど、どうしてここに……?」

同僚が驚いたように声を上げる。

そう、彼女こそこの映画の主演であり、現役の“本物のヒーロー”——ミャウリンだった。

橘は無言のまま、じっとその少女を見つめていた。

「ん〜、今ちょうど暇だったからさ〜。おじさんたちもヒマそうだったし、何してるのかな〜って思って!

 それとね……これ!」

「うわっ!? 俺のお菓子!」

気づけばミャウリンの手には、橘たちが食べていたお菓子がしっかり握られていた。

彼女はそれを迷いなく口いっぱいに放り込み、鋭い犬歯をのぞかせながらもぐもぐと噛みしめる。

「ごめんね〜、お腹空いちゃって。今ここしか食べ物なかったんだもん。」

「い、いや、大丈夫っす……俺、あとで取りに行きますから……」

同僚はそう言い残し、気まずそうにその場を離れた。

残されたのは橘とミャウリンの二人だけ。

橘は無言のまま少女を見つめ、ミャウリンは椅子を反対向きにまたがり、

背もたれに腕を乗せながら橘を見返していた。

沈黙が続き——先に口を開いたのは橘だった。

「……さっきの話、聞いてたのか?」

橘は腕を組み、ぶっきらぼうに問いかけた。謝る様子も、取り繕う気配もない。

「え? なにを?」

ミャウリンは首をかしげながら、ヘッドホンのネコミミをぴくりと動かした。

「で、俺に何か用でもあんのか?」

「ううん、別に〜。今はまだ撮影始まってないし、暇だから来てみただけ。おじさんもヒマそうだったし。」

「……まず、“おじさん”って呼ぶのやめろ。

 それにな、俺たちだってこれからアクション監督や監督とリハーサルがあるんだ。

 今はたまたま待機中なだけで、撮影ってのは一回一回に時間がかかるんだよ。

 ほとんどは待ち時間で潰れる。暇なら台詞でも覚えておけ。演技の練習とかしてねぇのか?」

「準備ならバッチリ!……たぶん。

 でもお腹が空いちゃってさ〜。」

ミャウリンは自分の腹をぽんぽんと叩く。

「……腹減ってんなら、猫缶でも買って食えばいいだろ。……はは、猫缶。」

自分で言った冗談に、橘は小さく吹き出した。

だがミャウリンは無言でじとっと彼を見つめる。

「……おじさん、やっぱりアンチでしょ?」

今度は橘が思いきりため息をつく番だった。

「……俺はな、そもそもお前が誰かすら知らねぇんだよ。」

「じゃあ改めて自己紹介するね! 私はミャウリン! 二年前にデビューした新人で、現役JKヒーローなの!

 ぜひインスタとXもフォローしてね〜!」

ミャウリンは自慢げに両手のメタルクローを見せつけながらポーズを取る。

橘は無表情のまま、それをじっと見つめた。

「くだらねぇ肩書きはいい。……で、能力は?」

「いい質問だね! 私は常人を超えたパワーとスピード、反射神経、あと五感もめちゃくちゃ鋭いの!

 このヘッドホンとクローは特注の装備なんだけどね。……でも可愛いでしょ? ほら、見て見て!」

ミャウリンはヘッドホンのネコミミ部分をぴこぴこと動かしてみせる。

「その能力……生まれつきか?」

「ううん、昔ね、変な野良猫に噛まれたの。そしたら、こうなっちゃった!」

「……そ、それだけ?」

橘は思わず両手を広げ、呆れたようにため息をついた。

「……まぁいい。お前が何者でも別に構わねぇけどさ。

 わざわざ映画なんか出る理由はなんだ? 昔から興味あったのか? それとも演技の経験でも?」

「うーん……ただ、一回映画に出てみたかっただけ。

 だって映画に出るなんて、なんか“すごい人”って感じじゃない?」

「俺は……いや、もういい。好きにしろ。」

橘は肩をすくめて、どうでもいいというように首を振った。

「ねぇねぇおじさん見て! 私ね、名前入りのディレクターズチェアと映画用ベスト着て、

 コーヒー持ってる写真をXに上げただけで、いいねがめっちゃ付いたんだよ!

 あ、そうそう、私がバズったのは“猫缶を食べてみた動画”なんだ〜!」

「な、なにそれ……。俺が歳取ったのか、それとも今の若い奴らがどうかしてんのか……。」

橘は眉間にしわを寄せ、深々とため息をついた。

「ねぇおじさん、せっかくだし記念にツーショット撮ろ?

 これ、高額課金ファンでもできないレア特典だよ〜。ほら、カメラ見て! はい、チーズ!」

ミャウリンがスマホを構えて近づくが、橘は顔をしかめ、乱暴に手を伸ばしてレンズを遮った。

「やめろ! 撮るな! 俺をお前のバカなファンどもと一緒にすんな、このイカれ女が!」

橘のあまりの剣幕に、ミャウリンも驚き、そして少し怒りをにじませる。

「……撮らないなら撮らないでいいじゃん。なんでそんな言い方するの?」

「……お前、一応ヒーローなんだろ? もうちょっとヒーローらしくできねぇのか?」

橘は呆れたように言い放つ。

「“ヒーローらしい”って……どんなの?」

「俺……そんなの知らねぇよ。俺はヒーローじゃねぇからな。」

素直な問いかけに、橘は言葉を詰まらせた。

一瞬だけ、彼の表情に寂しげな影が差す。

ミャウリンもその変化に気づいたようだった。

「……たいした話じゃないけど、聞いてみる? 私がヒーローになりたい理由。

 最初はね、お嬢とか他のヒーローを見て“かっこいいな”って思ったの。

 でも本当は——」

「やめろ。聞きたくない。」

橘はその言葉を遮り、無言で立ち上がった。

ミャウリンが驚いて何か言いかけたそのとき——。

「お、ミャウリン、ここにいたのか。大丈夫? もうすぐリハーサル入るぞ。」

監督とスタッフ数人が近づいてくる。

「準備ができたら声かけてくれ。橘、お前もいたか。

 ちょうどいい、今からアクションのリハやるから集合してくれ。

 予算の都合でスタッフも減らしたから、アクション部分の動きも少し変更になる。悪いけど、頼むぞ。」

「……了解。」

橘は短く答え、淡々とその場を離れた。

しばらくして、リハーサルが終わり本番の撮影が始まろうとしていた。

橘たちスタントマンは特殊なスーツを着込み、安全ワイヤーを装着する。

ミャウリンもメイクを整え、自分専用のコスチュームに着替えていた。

監督は現場の端で最終チェックを行う。

「確認するぞ! これから撮るのは階段のアクションシーンだ!

 ミャウリンが階段を駆け上がりながら、敵を全員倒していく流れだ!

 打ち合わせ通りに動くこと、そして絶対に主演をケガさせるな!

 美術班、照明班、準備はいいか! カメラ一号、二号、三号、OK!?

 よし、それじゃあ——位置について! 3、2、1……アクション!」

ミャウリンは合図と同時に階段のセットを駆け上がり、壁や手すりを利用して軽やかに飛び移る。

時には何段も一気に跳び、時には壁を蹴って方向を変えるその身のこなしは、まるで猫そのものだった。

カメラマンたちは彼女を追いかけてレンズを動かし、一瞬たりともその姿を逃さない。

美術スタッフも細心の注意を払ってセットを調整し、撮影を妨げないようにしていた。

ミャウリンが敵役のスタントマンたちと次々に交錯し、

リハーサル通りの打撃を交わすたびに「敵」が転げ落ちていく。

安全ワイヤーが体を支え、誰一人として本当にケガをすることはない。

——そのはずだった。

橘は自分の番を待ちながら、黙々と肩を回し、準備運動をしていた。

(仕事は仕事だ。余計な感情は捨てろ。)

自分にそう言い聞かせ、深呼吸をする。

やがてミャウリンが彼のポジションまで駆け上がってくる。

「……さっさと終わらせて、今日は早く帰ろう。」

橘は小声で呟き、気持ちを切り替えて構えを取った。

短い戦闘シーン。

動作は完璧で、二人の呼吸も合っていた。

橘は数発打たれて倒れ込み、

予定通りミャウリンに掴まれて後方の階段へと投げ飛ばされる。

ふわり、と重力が抜ける感覚。

空気が一瞬止まり、橘は思わず安堵の息を漏らした。

「……これで、今日も終わりだ。」

——その瞬間。

体を支えるはずの安全ワイヤーが、不自然な音を立てて切れた。

「なっ……!」

声を上げる間もなく、橘の体は宙を落ちていく。

スタッフの悲鳴。ミャウリンの叫び。

視界がぐるりと反転し、暗転。

橘の意識は、そこで途切れた。

次に目を開けたとき、橘が見たのは真っ白な天井だった。

その直後、全身を貫くような激痛が走る。

「お、俺は……?」

かすれた声を絞り出すと、すぐに誰かの声が返ってきた。

「目を覚ました! 医者を呼べ! 急げ!」

「橘さん、無理に動かないでください! 大丈夫ですか!?」

ぼんやりとした視界の中に、同僚やスタッフの顔が見える。

そしてその後ろには——泣きそうな表情のミャウリンがいた。

白衣の医師たちが駆け込み、橘はようやく自分が病院にいることを理解した。

「橘さん、気分はいかがですか?」

「お、俺は……? い、痛ぇ……なんで体が……動かねぇ……」

橘は全身に包帯が巻かれていることに気づき、

わずかに動かすだけで、激しい痛みが走った。

「橘さん、落下の際に安全ワイヤーが切れてしまい、

 背中と腰を中心に重傷を負いました。

 ですが、下半身の麻痺などの心配はありません。

 ただし、しばらくの入院と、その後の長期リハビリが必要です。

 ……残念ながら、今後スタントのような激しい活動は

 おそらく難しいでしょう。」

医師の言葉を聞いた瞬間、橘の思考が止まった。

まるで世界の音がすべて遠ざかっていくようだった。

「ま、待て……なんだって? ワイヤーが切れた?

 おかしいだろ、何度もテストしたはずだ! なんで……!」

橘は混乱しながら周囲を見回した。

だがスタッフたちは誰もが目を伏せ、言葉を濁していた。

そのとき——。

「お、おじさん……ご、ごめんなさい……全部、私のせい……」

震える声でミャウリンが口を開く。

申し訳なさそうに俯きながら、唇を噛みしめていた。

「……お前、まさか……どういうことだ?」

「その……あの時、クローがちょっと……ワイヤーに当たっちゃって……」

「……なに、だと……?」

橘の瞳が見開かれ、呼吸が一瞬止まった。

「お前……! てめぇこのクソアマァッ!!」

橘の怒鳴り声が病室に響き渡った。

「何やってくれたんだよッ!! 俺の体を、俺の仕事を、全部メチャクチャにしやがって!!

 どう償うつもりだ!? まだこのツラで俺の前に立てんのか!! 来いよッ! ぶっ殺してやる!!」

ベッドの上で体を起こそうとする橘に、スタッフたちが慌てて駆け寄る。

「橘さん、落ち着いてください! 動いちゃダメだ!」

それでも橘は暴れようとし、点滴のチューブが引きちぎれそうになる。

ミャウリンは顔をくしゃくしゃにして泣きながら、その場に膝をついた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……! 本当にごめんなさい……!」

涙で頬を濡らしながら、必死に頭を下げる彼女を見ても、橘の怒りは止まらなかった。

「謝って済むかぁッ!! お前のせいで俺は終わったんだぞッ!!」

彼が再び立ち上がろうとした瞬間、

医療スタッフが後ろから彼を押さえつけ、腕に注射針を刺した。

「……やめろッ、離せ……! 俺は……俺はあの女を……!」

言葉が途中で途切れ、橘の体から力が抜けていく。

目の焦点がゆっくりとぼやけ、やがて瞼が閉じた。

病室に残ったのは、彼の荒い呼吸とミャウリンの嗚咽だけだった。

やがて医師が静かに告げる。

「……鎮静剤が効いた。 もう大丈夫だ。」

騒ぎが収まり、重たい沈黙が病室を包んだ。

再び目を覚ましたとき、病室の灯りは落とされ、

そこには橘ひとりだけが取り残されていた。

静まり返った空間。

機械の微かな電子音だけが、遠くで一定のリズムを刻んでいる。

枕元のテーブルには、いくつかの差し入れと小さなメモが置かれていた。

──「橘さん、またお見舞いに来ますね。

 お仕事のことは気にせず、しっかり休んでください。」

丁寧に書かれたその言葉を、橘はしばらく黙って見つめていた。

だが、胸の奥に湧き上がるのは感謝ではなく、

どうしようもない虚しさだった。

「……そうかよ。俺をここに置き去りにして、

 あいつらは何事もなかったように撮影を続けるわけだ。

 あのガキの映画のほうが大事なんだな……。

 全部、俺なんかより“ヒーロー様”が優先ってわけか。」

橘は紙を握りつぶし、顔を歪めた。

その吐息には、怒りと絶望が入り混じっていた。

「……そういえば、撮影のときも妙に強く殴ってきやがったな。

 やっぱり俺を狙ってたんだ。

 ファンでもない俺が気に入らなかったんだろ……あのクソガキが……。

 見てろよ、てめぇの本性、俺が暴いてやる……。」

橘はスマホを手に取り、震える指でSNSを開いた。

怒りのままにミャウリンの投稿へ悪意のコメントを書き込み、

匿名掲示板やまとめサイトにも、彼女を貶める言葉を次々と投げつけた。

だが、結果は目に見えていた。

彼の書き込みは瞬く間に拡散され、

ミャウリンのファンたちによって容赦なく叩き潰された。

「……クソが。

 やっぱりな、ろくでもねぇ奴の周りには、同じ腐った連中しか集まらねぇ……。

 一人残らず、偽善者ばっかだ……!」

橘の胸に広がるのは、

悔しさでも悲しさでもなく、

もはや純粹な憎悪だった。

孤独な病室の中で、

怒りと絶望だけが膨らみ続ける。

見舞いに来ようとする者も、

謝ろうとするミャウリン本人すら——

橘はすべて拒絶した。

静かな病室に、

彼のかすかな嗤い声だけが響いていた。

ある日、見知らぬスーツ姿の男が橘の病室に現れた。

「橘さん、お時間よろしいでしょうか?」

「あなたはどなたですか?」

「はじめまして、久世と申します。当社はヒーローに起因する事故後の対応、特に医療紛争の処理を専門に扱っております。橘さんのお仲間から今回の件を聞き、たいへん心を痛めております。そこで、弊社が開発した新しい薬剤をご案内したく参りました…」

「結構です、勧誘なら帰ってください。」橘の冷たい返答に久世は一瞬間を置いたが、すぐに本題に入った。

「失礼しました。では率直にお伺いします。橘さんは、ヒーローに報復したいと思いませんか?」

「……何だって?」

唐突な問いに橘は困惑したが、同時に奇妙な興味をそそられた。

「実は私も、かつてヒーローとトラブルになったことがあります。しかし様々な事情でうやむやにされ、ヒーローたちは何事もなかったかのように光の中で称賛され続けました。私だけではありません。多くの人が似た経験を持っています。これは不公平ではありませんか?我々凡人には声を上げる手段もなく、ただ耐えるしかないのです。」

「……で、どうするつもりだ?」

久世はブリーフケースから、やや濁ったピンク色の薬剤が入った小さな容器を取り出した。

「橘さん、我々凡人にもようやくチャンスが巡ってきました。力を知る機会を、あなたに。」

久世はその薬剤を橘に手渡す。橘はそれを手に取り、病床に横たわる自分の身体と、いつ退院できるのか定かでない未来を思い描いた。すべての元凶はあの人物だ——。橘の表情は次第に険しくなり、握った薬剤が強く震えた手の中で固く握りこまれる。

そしてある深夜——。

ミャウリンは慌てた足取りで病院の隔離病棟へ駆け込んだ。深夜にもかかわらず、そのフロアは不自然なほど静かだった。ミャウリンは扉を押し開け、声をあげる。

「おじさん! 用があるって言ってたよね、どうしたの!? 大丈夫?」

だが、彼女の声に応えるべき橘は、ベッドの上にはいなかった。

薄暗闇の中で橘は立っており、杖も使わず、包帯も外して床に放り投げられていた。暗がりの中で橘はミャウリンをじっと見つめ、ゆっくりと身体を伸ばした。

「大丈夫だよ、大丈夫。俺、結構調子いいぜ……」

==========================================


ミャウリンの体が、轟音と共に病室の外へ弾き飛ばされた。

壁に叩きつけられ、床に転がる彼女の体にはすでに無数の傷が走っている。

橘は破壊された病室の中からゆっくりと歩み出てきた。

全身から立ち上る殺気。

包帯も服も血と埃にまみれ、かつての彼とは別人のようだった。

「……どこへ行くつもりだ?」

低く唸るような声で言い、橘はミャウリンの長い髪を掴み、

乱暴に引き寄せると、その顔面へ拳を叩き込んだ。

「ぐっ……!」

鈍い音と共に、ミャウリンの身体が壁に叩きつけられる。

橘はそのまま彼女の肩を掴み、もう一度力任せに壁へと打ちつけ、

続けざまに床へ投げ飛ばした。

床には蜘蛛の巣のような亀裂が広がる。

ミャウリンは苦痛に顔を歪めながらも、必死に声を絞り出した。

「おじさん……やめて……。

 私が悪かった……でも、あなたは……そんな人じゃないでしょ……?」

「黙れッ!!」

橘の叫びが夜の廊下に響き渡る。

「お前に俺の何が分かるッ!

 お前が俺の全部を壊したんだ! 今度はお前が代償を払う番だ!!」

怒号と共に、橘の足が唸りを上げ、

ミャウリンの腹部を強く蹴り飛ばした。

少女の体が宙を舞い、廊下の奥へと叩きつけられる。

橘はミャウリンの体を床に押さえつけ、狂ったように拳を振り下ろした。

拳が頬を打つたびに、鈍い衝撃音が響き、血飛沫が壁にも彼自身の顔にも散った。

「お前なんかヒーローじゃねぇ! ただの能力持ちのピエロだッ!!」

怒号と共に拳は重くなり、怒りに満ちた呼吸が荒く鳴る。

それでもミャウリンは、朦朧としながら橘の腕を掴み、震える声で叫んだ。

「おじさん……お願い……もうやめて……」

だが橘の瞳はすでに狂気で濁っていた。

「なんでだよッ! なんでお前みたいな奴が、猫に噛まれただけで力を手に入れて、

 俺は何も得られなかったんだよッ!!」

拳が再び落ちる——その瞬間、橘の体がビクリと震えた。

体の奥で、何かが暴れ出す。

血が沸騰するように熱く、心臓が不規則に跳ね、視界がぐらりと揺れた。

(……なんだ……体が……!)

頭の中に、不気味な声が混ざり合って響く。

「殺せ……早く殺せ……」

「うるせぇ……やめろ……!」

橘は頭を抱え、苦悶の声をあげた。

拳が止まり、呼吸が乱れる。

そして——。

「……おじさん……ごめんね……全部、私が悪いの……」

ミャウリンのか細い声が、橘の耳の奥で微かに揺れた。

その瞬間、橘の瞳が大きく震え、腕から力が抜けていく。

「……俺は……何をしてるんだ……」

呆然と呟きながら、橘は拳を下ろし、その場に崩れ落ちた。

ミャウリンはほっとしたように微笑み、静かに目を閉じた。

「なぜ、彼女を殺さなかったんですか?」

暗闇の中から、ひとりの男がゆっくりと姿を現した。久世――彼はどこか失望したように、そして冷たく橘を見つめながらそう言った。

「お前……いったい何者だ? 俺に、いったい何を打ちやがった……?」

橘は息を荒げながら久世を睨みつけた。だが、久世は何も答えない。ただ静かにスーツの内側から、サプレッサー付きの小型拳銃を取り出した。

「はぁ……せっかく薬の効果をここまで引き出せた人間だったのに、惜しいですね。ですが――もう使い道がないなら仕方ありません。」

久世は銃口をゆっくりと橘へ向ける。橘は反射的に立ち上がろうとしたが、全身から力が抜け、内側から激しい痛みが襲ってくる。彼は膝をつき、苦しげに息を吐きながら、それでも必死に抵抗しようとした。

久世は落ち着いた手つきで安全装置を外し、銃口を橘に向ける。

橘は――あの129事件以来、久しく忘れていた“死”の気配を肌で感じていた。

迫りくる終わりを前に、彼の心を満たしたのは恐怖と、そしてどうしようもない無力感だけだった。

そして、久世は引き金を引いた。

「なっ……!!!」

思いもよらぬ光景に、二人とも目を見開いた。

さっきまで地面に倒れ動かなかったミャウリンが、まるで猫のように跳ね起き、橘の方へ飛びかかったのだ。

次の瞬間――彼女の身体が橘の前に立ちふさがり、放たれた弾丸のすべてを受け止めた。

そのまま彼女は再び崩れ落ち、流れ出る血が止まることはなかった。今度こそ、完全に動かなくなった。

久世が新しい弾倉を装填しようとしたその時、

遠くから懐中電灯の光と足音が近づいてくる。病院の警備員と数名の職員がこちらへ駆け寄っていた。

「チッ……くそっ……」

久世は舌打ちし、仕方なく銃を収めるとその場を後にした。

橘は一連の出来事に呆然としながら、ようやく目の前の光景を認識する。

床にはミャウリンが倒れていた。彼女の身体からは大量の血が流れ出し、心臓の鼓動も、脈の気配も、もう感じられなかった。

「……おい! ミャウリン! しっかりしろ! なぁ、頼む、頼むから……!」

橘は震える手で彼女の頬を叩き、何度も呼びかけた。

だが、彼女の瞳は閉じたまま、返事はない。

橘はその手を必死に握りしめ、医療スタッフに向かって叫ぶ。

「誰かっ! 誰か来てくれぇぇぇ!!」

彼の全身は震え続け、息が詰まる。

わずかな時間が永遠にも思えた。まるで死神が、今この瞬間、彼の心臓を鷲掴みにしているようだった。

「撃たれたんだっ……! 早く……どうにか、できないのか……!?」

橘の声は掠れ、涙と嗚咽が混じっていた。

だが医療スタッフは静かに目を閉じ、ゆっくりと首を振った。

「ま、待ってくれ……! まだ助かるかもしれないだろ! お願いだ、頼むから助けてくれ! あの子は……まだ子どもなんだよ!!」

橘は涙で視界を滲ませながら叫ぶ。

「臓器でも何でもやるっ! 俺の身体、全部持っていけよ……だから、だからあの子を――!」

彼の声は嗚咽にかき消され、呼吸さえ乱れていく。

「……そういう問題ではありません、」

医療スタッフの一人が、重く口を開く。

「我々の判断では――弾が当たる前に、すでに彼女の生命反応は途絶えていました。」

「……えっ……?」

医療スタッフの言葉が、雷のように橘の胸を打ち抜いた。

――つまり、ミャウリンを殺したのは久世じゃない。

「……俺だ……全部、俺のせいだ……」

橘はまるで魂が抜けたように呟いた。

震える手でミャウリンの頬に触れ、その冷たさに怯えながら、ただ祈るように呼びかけ続ける。

「なぁ……ミャウリン……起きろよ……お願いだ……奇跡でいい、もう一度だけ……」

「……なぁ、ミャウリン……頼むよ……もう冗談はやめてくれ……」

橘の声は掠れ、言葉のたびに喉が震えた。

「おじさんが悪かった……ほんとに……全部おじさんのせいだ……」

「だから、頼む……目を開けてくれ……おじさんと話してくれよ……」

「一緒に笑って、文句言って……またあの時みたいにさ……」

彼は彼女の冷たい身体を抱きしめ、涙を落としながら続ける。

「ごめん……あんな酷いこと言って……お前に全部ぶつけて……最低だった……」

「いいから……殴ってくれよ……怒ってくれよ……頼むから、起きてくれ……」

「お前は……本当のヒーローだ……」

「最後の最後まで……おじさんなんかを庇って……」

「お願いだよ……おじさん、まだお前に言えてないことがあるんだ……」

「……ありがとう……お前は……おじさんの……ヒーローだ……」

橘はその冷たい身体を強く抱きしめ、嗚咽を押し殺しながら叫んだ。

彼の声は、夜の静けさを引き裂くように響き続けた。

ミャウリンの死亡は、すぐにニュースで報じられた。

公式の発表では「正体不明の犯人による襲撃」とされたが――

橘は、そんな言葉を信じることができなかった。

だから、自ら警察に出頭した。

だが、事情を聞いた警官たちは皆、首をかしげるばかりで、結局彼を拘留することにした。

拘留室の中。

橘はひとり、何もせず、何も感じず、ただ座っていた。

泣きすぎて腫れた目はもう涙を流すこともできず、

その姿はまるで、魂を抜かれた抜け殻のようだった。

そんな日々がいくつか過ぎた頃――

鈍い金属音とともに、拘留室の扉が開いた。

「橘さん、保釈の手続きがされました。外へどうぞ。」

低い声が響く。だが橘の反応は遅い。

「……なに……?」

橘はゆっくりと顔を上げた。その頬はこけ、唇は乾ききっていた。

ここ数日、彼はほとんど食べることも飲むこともせず、

ただ時間に削られていた。

信じられないというように呟きながらも、彼はふらつく足取りで部屋を出た。

拘留所の外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。

そして、その向こうに――

見覚えのある金髪の女性が立っていた。

「し……詩織……? 本当に……お前なのか……?」

「煉司……久しぶりね……えっと……」

詩織が言葉を探す間もなく、橘はふらつきながら彼女のもとへ歩み寄り、そのまま力なく抱きしめた。

こみ上げてきた涙が、また止まらなくなる。

「詩織……全部、俺のせいだ……俺が……あの子を……」

「こんな俺が自由になんて、ありえない……本当なら、刑務所に閉じ込められてるべきなんだ……」

橘の声は掠れ、抱きしめる腕が震えていた。

「ねぇ……落ち着いて。深呼吸して、煉司。」

詩織はそっと橘の背に手を添え、静かに言葉を紡いだ。

「今回の“公式発表”はね……あの子のためでもあるの。」

「もう……彼女の本当の気持ちは誰にも分からない。

 でも、少なくとも――あの子は、煉司にずっと苦しんでほしいなんて思ってない。」

「刑務所で一生を終えることを、きっと望んでないと思うの。」

「じゃあ……俺は、どうすればいい……?」

「罰も、償いも……もう残ってない。

 何をしても……もう、あの子は戻ってこない……」

橘の声は、乾いた砂を踏むように弱々しく響いた。

それは涙すら枯れた男の声だった。

「その子の名前……“凛”って言うの。」

詩織の一言に、橘の瞳がわずかに動いた。

「……凛……?」

「うん。DSAでも、他の現場でも何度か会ったことがあるの。

 見た目こそあんな感じだったけど、実はすごく真面目で、優しい子だったよ。」

「あなたが事故で入院したときも、本気で落ち込んでた。

 “もうヒーローなんてやめたほうがいいのかも”って……そう言ってたくらい。」

「……ほんとうに……?」

橘はかすれた声で尋ねた。目には、消えかけの光がかすかに戻る。

「もちろん。だから私は言ったの。

 “あの人――おじさんは、きっとそんなこと望まないよ”って。」

「“あのおじさんも……本当はヒーローになりたかった人なんだから”ってね。」

「詩織……俺はもう……」

橘は言いかけて、声を失った。

「ねぇ、煉司。あの子が――どうしてヒーローになりたかったのか、知ってる?」

橘が何かを言い返そうとしたが、詩織はそれを遮るように静かに続けた。

「……知らない……」

「129事件のとき、あの子はまだ幼い女の子だった。

 もちろん、その頃はまだ力なんてなかった。

 でも――絶望の中で敵に追い詰められたとき、

 一人の知らない“お兄さん”が飛び出してきて助けてくれたんだって。」

「その姿に憧れて……“あたしも、あの人みたいになりたい”って。

 それが、彼女がヒーローを目指した理由だった。」

橘は黙って聞いていた。

何かを噛みしめるように。

「煉司……いま言っても、心には届かないかもしれないけどね。」

詩織は優しく、それでもまっすぐに彼を見つめた。

「もし――まだ“何か”をしたいって思えるなら、

 あの子を救った“あのお兄さん”のように生きてみて。

 あの子が信じていた、“最高のヒーロー”のように。」

「でも……こんな俺でも……まだ、やり直せるのか……?」

橘の声は弱く震えた。まるで、初めて光を見る子どものように。

「分からないよ。けど……少なくとも、少しは心が軽くなるかもしれない。」

「煉司……友達として、もうこれ以上あなたが壊れていくのは見たくないの。」

詩織はそう言いながら、そっと一枚の写真を差し出した。

そこには――制服姿で、穏やかに笑うひとりの少女が写っていた。

「……これ、は……?」

「うん、凛よ。前に何枚かもらっててね……この一枚を、あなたに。」

「……あぁ……ありがとう……」

橘は震える指で写真を受け取り、そっと見つめた。

「……あんな最後まで……俺なんかを助けてくれるなんて……」

「凛……あの子は、間違いなく……ヒーローだった……」

橘は写真を胸に抱きしめ、こらえきれずにまた涙を流した。

「そうね。あの子が、あのときあなたを傷つけたことを悔やんでたなら――

 きっと今のあなたの姿も、見たくないはずよ。」

「……ありがとう、詩織……」

「やってみるよ……でも、俺は……何をすればいい……?」

「そうねぇ……まずは、また立ち上がることから始めようか。」

「もしよければ……あなたに合いそうな仕事、探してみるよ。」

=============================================


重傷を負い、血まみれになりながらも――

橘は瓦礫の中から、ゆっくりと這い上がった。

足元はふらつき、視界は滲んでいる。

それでも、彼は立ち上がり、西山の前へと歩み出る。

そして、震える手を伸ばし、かすれた声で言った。

「西山……」

「俺の人生なんて、ただの笑い話だ。何をやっても上手くいかねぇ……失敗ばかりだ。」

「けどな……お前には、俺みたいにはなってほしくないんだ。」

「憎しみに呑まれて、自分でも戻れないところまで行っちまう前に……やめろよ。」

「頼む……西山……」

西山はその言葉を黙って聞いていた。

そして、ゆっくりと手を伸ばした――が、その手は握らず、

勢いよく橘の頬を叩き飛ばした。

倒れ込む橘に向かって、西山は怒りを露わに歩み寄る。

「何度言わせるんだよ!」

「ガキでもねぇんだぞ、俺たちは! 誰かに命令されたわけでもねぇ!」

「人を殺したのは、自分の意思だ! それを分かってんのか!」

「たとえ自分を許せたとしても――社会も、責任も、そんな簡単に消えるわけねぇだろ!」

西山は片手で橘の胸ぐらをつかみ、無理やり持ち上げた。

「橘、お前はほんとにうるさいんだよ……」

「どうせもう戻れねぇ。だったら――ついでにお前も、ここで終わらせてやる。」

西山は拳を握りしめ、全力で橘へ叩き込もうとする。

「なっ……!?」

西山の拳が振り下ろされた瞬間、橘はその拳を片手で受け止めた。

指先から伝わる力は、さっきまでの彼とは別人のようだった。

橘はそのまま西山の腕を押し返し、ゆっくりと立ち上がる。

その身体――裂けていた傷口が、目に見える速度で塞がっていく。

「おいおい……後輩に優しく話しかけてんのに、すぐ手が出るのかよ……」

橘は低く笑い、そして顔を引き締めた。

「な、なんだと……!? お前、何をした……!」

西山が叫ぶと、橘の足元に何かが転がり落ちた。

それは――注射器のような形をした小さな器具。

地面にぶつかり、乾いた音を響かせた。

「……俺は、今からやりたくねぇことをやる。」

橘はまっすぐ西山を見据えた。

「お前を……ぶん殴る。」

言い終わるや否や、橘は額を叩きつけるように西山の顔面へ突き出した。

鈍い音とともに、西山は大きくのけぞる。

「いいだろ……やりたいんなら、最後まで付き合ってやる。」

「お前のために……そして、俺のために。

 凛のために……そして、俺を見捨てなかったすべての人のために……」

橘は深く息を吸い込み、ゆっくりと身体を伸ばした。

「おじさんは……今度こそ、やり遂げてみせる。」

そう言って、ジャケットを脱ぎ捨てる。

鍛え上げられた肉体が、闘志と決意を映し出していた。

「――かかってこいよ、西山!」


ご覧いただき、ありがとうございます!いかがでしたでしょうか?

自分で言うのもなんですが……今回の第8話は、これまでで一番うまく書けた気がします。

少しでも皆さんの心に何か届いていたら嬉しいです。


さて、物語に戻りましょう。

橘は再び血清を打ち、西山との最後の戦いへ――。

おじさんは、今度こそ違う結末を掴むことができるのか?


次回(もしかすると最終回になるかも?)、

橘と西山、二人の最終決戦。最後に立っているのはどちらだ!?

どうぞお楽しみに!


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(ほんとに励みになるんです……!大好きです、みんな!)

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