第二話(2025/7/31更新)
今日も仕事。
今日も雑務。
……でも、そんな日々にも、ちょっとだけあたたかい時間がある。
ヒーローたちを支える裏方たちの、ささやかな日常と、眠れぬ夜のお話。
今回も、よければ少しだけ、お付き合いください。
「そういえば、西山って、スーパーヒーローについてどれくらい知ってる?」
「僕ですか?うーん……まあ、普通の人と同じくらいだと思いますけど。」
「なら問題ないな。俺だって、公式に正体が明かされてるポリス様みたいなのを除けば、誰が誰だかなんて知らないし。」
「じゃあ……その、これからスーパーヒーローに会うってことは、何か大事な話でもあるんですか?それとも、危険な任務とか……」
「いやいや、全然。ちょっとした顔合わせだよ。コーヒーでも飲みながら世間話する程度。最近の活動状況や記録を確認して、困ってることがあれば手伝うってだけさ。」
「そうなんですね……でも橘さん、なんで生のトマホークステーキなんか持ってるんですか?さっき昼飯食べたばっかりじゃないですか?」
「これな、まあ後で分かるって。だからさっきスーパーヒーローの知識を聞いたんだよ。ま、別に詳しくなくても大丈夫だけどな。ついでに、これから会うメンバーをちょっと紹介しとく――って言っても、知らなくても困らない情報だけどな。」
「まずはレジャイナ。彼女は、偶然異世界からこっちの世界に転移してきたエルフ族の女王さ。あっちの世界の文明レベルは中世くらいでさ、銃は使えなくて、クロスボウで戦う感じ。科学よりも魔法が主流みたいで、ちょっとした魔法も使えるらしい。」
「えっ、それってキャラ設定とかじゃなくて、本当に異世界ってあるんですか?」
「今の時代、どんなイカれたことだって起きるからな。――ま、とにかく行くぞ。」
橘と西山は車でDSA本部に戻り、エレベーターに乗ってある階の半分オープンな休憩スペースへと向かった。そこにはソファなどのくつろげる家具が並び、ドリンクバーや軽食も用意されている。
ふたりが中に入ると、すでにひとりの女性が静かにお茶を飲んでいた。銀色に近い長い髪に、知性を感じさせる緑の瞳、そして尖った耳――まさにエルフの特徴そのものだった。
彼女は、茶色と白を基調にした布製のシンプルな服に、緑色のマントを羽織っていて、まるでRPGの世界から飛び出してきた冒険者のような格好をしていた。
その隣では、人間よりも大きな体格の狼犬がカーペットの上で寝そべっている。淡いグレーのふわふわした毛並みが、ゆっくりとした呼吸に合わせて微かに揺れていた。
「……あの人ですよね?僕たちより若く見えるんですけど。」
西山が小声で橘に訊ねた。
「見た目に騙されんなよ。あの人、何百年も生きてんだから。」
「……あ、じゃあ何も言いません。」
ふたりがさらに近づこうとしたそのとき、狼犬がふいに反応した。突然跳ね起き、青みがかった鋭い瞳でふたりを睨みつけ、唸り声を上げながら戦闘態勢を取った。
「お、おい、落ち着けってば……今日はいいモン持ってきてやったんだぞ?」
橘はすっと西山の前に出て、敵意がないことを示すように手を差し出しつつ、ビニール袋に入った生ステーキを軽く揺らしてみせた。
「カニス!落ち着きなさい、座って!」
レジャイナがすかさず声を上げると、カニスは少し唸りながらも徐々に落ち着きを取り戻し、ゆっくりとその場に座り込んだ。
橘はビニール袋からステーキを取り出し、大きなお皿に載せてカニスの前に差し出す。さっきまで牙を剥いていたカニスは、一転して大人しくなり、その場で牛肉を夢中でかじり始めた。
「本当に……申し訳ないです。おふたり、大丈夫でしたか?」
レジャイナがすぐに頭を下げてきた。
「大丈夫だよ。まあ、久しぶりに吠えられたからちょっとびっくりしたけどな。ったく……だから言ったろ、この辺じゃ生きたニワトリなんて手に入んねーって。西山、おまえは大丈夫か?ん?やけに落ち着いてんじゃん?」
橘が西山の方を見ると、彼は特に驚いた様子もなく、いつも通りの表情で立っていた。
「え?ああ……なんとなく、吠えられるかもって思ってたので、心の準備は少ししてました。」
「その勘、案外鋭いな。レジャイナ、紹介しとくよ。こっちは西山、最近DSAに入った新人だ。」
「はじめまして、西山と申します。よろしくお願いします。」
「こんにちは、レジャイナです。初対面なのに、こんなハプニングがあってごめんなさいね。こちらこそ、よろしくお願いします。」
そう言って、橘と西山はそれぞれドリンクを手に取り、三人はソファに腰を下ろした。軽い挨拶を交わしたあと、橘はさっそくレジャイナとの会談を始め、西山はその横で静かに観察しながら、内容を記録していった。
「それで、レジャイナ。最近は元気にやってるか?」
「ええ、おかげさまで。橘さんは?」
「まあ、いつも通りって感じかな、はは。……さて、君の最近の活動記録をざっと見させてもらったけど、かなり順調みたいだな。いくつかの事件をうまく未然に防いでるし、間接的な被害もかなり抑えられてて、助かってるよ。俺の仕事量も減ったしな、感謝感謝。」
「ふふっ、いえ、それが私の役目ですから。」
ふたりのやり取りは、今のところとても和やかで、どこか親しい雰囲気さえ漂っていた。
「たださ……ちょっと確認したいことがあってな。最近、カニスと一緒に外で狩りをしてるって話を何件か聞いたんだけど……?」
「ええ、そうなんです。私たちの元の世界では、時々狩りに出るのは普通のことだったんですよ。カニスもどんどん大きくなってきて、家の中だけだと運動不足になりがちで……。食事の量も増えてきたので、ちょうどいい運動になるかなって。それに、食材も手に入りますし。」
「なるほどね、事情はわかった。……でも、残念だけど、こっちの世界ではそう簡単にはいかないんだ。どこでも自由に狩りできるわけじゃないし、どんな動物でも捕っていいわけじゃない。ちゃんと許可された狩猟区でやらなきゃダメなんだ。」
「――ああ、そうだったんですね……それは本当に申し訳ありません。ご迷惑をおかけしていないといいのですが……」
(もう十分迷惑かけてるけどな……)
橘はそう心の中で毒づきながらも、口には出さずに飲み込んだ。
「いや、大丈夫。……まあ、動物保護団体とか、公園の管理事務所とか……あと、君のアンチっぽい人たちからも何件かクレームは来てるけどさ、どれも小さい話でね。いまのところは特に他に問題が出てるわけじゃ――」
「では……どこなら合法的に狩りをしてもいいのか、どうやって調べれば?」
「え?……いや、ネットで調べればいいんだよ。ほら、ググるってやつ。」
「ネットって、あの“インターネットに繋ぐ”ってことですよね?それはもう覚えました。でも……ググるって、何ですか?」
その瞬間、西山はそっと橘の顔を盗み見た。すると、案の定――今朝、大勢の相手を前にしたときと同じ、「うわ、めんどくせぇ……」という表情が浮かんでいた。
「えっと……前に渡したスマホ、覚えてるか?今、持ってる?」
「あっ、それなら……ここにありますけど、なぜか数日前から動かなくなってて……」
レジャイナはポケットからスマートフォンを取り出して橘に見せた。
画面には、バッテリー切れを示すアイコンがはっきりと表示されている。
「このマークな、バッテリーが切れてるって意味。だから、ちゃんと充電して使わないと――」
「バッテリーって、なんですか?」
「…………」
「そういえば、うちにある“超でっかいスマホ”も、なんかよく分かんないボタン押したら映らなくなっちゃって……」
「……“超でっかいスマホ”? ……まさか、それって……テレビのこと?」
「あっ、そうそう、それ!テレビ! あなたたちのハイテク機器は、まだ私にはちょっと難しくて、えへへ……」
「…………」
「……あれ?もしかして、怒ってますか?」
「い、いや? 怒ってなんかないよ? ただ最近、ちょっと顔面神経がアレでね。」
「顔面……?」
「――どうでもいいってば。」
「……もういいや。じゃあこうしよう。今後、狩りに行きたくなったら、まずうちに来て。こっちで誰か案内役をつけるから。あと、スマホとかテレビとか、そのへんの不調も、後でスタッフを一緒に家まで送って確認してもらうよ。」
「えっ、本当ですか?ありがとうございますっ!」
レジャイナは心から嬉しそうに笑った。――その笑顔を前に、橘の“営業スマイル”の口元が、わずかに震え始めた。
会談もひと段落し、レジャイナはクロスボウと矢筒を手に取り、カニスを呼んで帰る準備を始めた。
そのとき、カニスが尻尾を振りながら橘の方へと歩み寄ってきた。
「ん?なんだよお前……俺に何かくれるのか? へえ、やるじゃん。」
橘は少しかがみ、カニスの大きな口元に手を差し出した。
次の瞬間、カニスはその巨大な口を開き――
ガリガリに噛み砕かれたトマホークステーキの骨を、べっちょべちょの唾液まみれのまま、橘の手のひらに落としてきた。
隣で見ていた西山も、さすがにその光景には目を見開いた。
そして橘は――口元の営業スマイルが完全に崩壊寸前だった。
「橘さん、西山さん、本日はありがとうございました。またお会いしましょうね。」
レジャイナは丁寧に一礼し、カニスも「わん」と小さく鳴いてふたりに別れを告げた。
「バイバイ。」
橘と西山はふたり並んで手を振りながら、彼女たちがエレベーターに乗り込むのを見送った。
そして――エレベーターの扉が完全に閉まった、その瞬間。
橘は手に持った、唾液まみれの骨をぎゅっと両手で握り――
バキッと音を立てて真っ二つに折った。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!このクッソ犬がぁぁぁぁ!!お前のヨダレくっっっっっっさ!!」
橘はそのまま骨をゴミ箱に叩き込むと、無言で洗面台へ直行。
石鹼をこれでもかというほど泡立てて、手を鬼のように洗い始めた。
「橘さん……大丈夫ですか?」
「はぁ……今日って、ある意味ラッキーだったかもな。あの人、珍しく“二百年前の家出エピソード”を語り出さなかったし。……前回なんて、一時間以上延々と語られたからな……」
橘は鬼のように手を洗ったあと、電話を取り、内線を押した。
「……あ、俺だけど。悪い、あの“おばあちゃん”とその犬、ちゃんと面倒見てくれる人手配してくれ。いや、一人じゃ足りないな、二人……いや、いっそシフト制で何人か回してくれ、頼むから。俺、もう限界。」
そう言って電話を切ると、橘は無言でコップに飲み物を注ぎ、一気に飲み干した。
「ふう……。よし、そろそろデリバリーも届いてる頃だな。次の現場に向かうぞ。」
ふたりは軽く片付けを済ませてから、次の面談場所へと移動を始めた。
「今回の差し入れは……ピザですか?しかも三種類って、ちょっと多くないですか?」
西山は、橘が手に持っていた三種類のミニピザを見て、やや困惑した様子で尋ねた。
「これな……お前、“パリピ”って知ってるか?」
「パリピ……えっと、確か三つの超能力を持ってるとか……?」
「正解。ま、どんな“真実”かは、このあと実際に会ってみりゃわかるさ。」
橘と西山が次の面談場所である半オープンタイプの休憩スペースに近づくと、中からスナック菓子の袋をガサガサと開ける音や、ポリポリと何かをかじる音、そして数人のにぎやかな話し声が聞こえてきた。
「……なあ今日さ、なんか隣のクラスの生徒会長のパンツ、チラッと見えた気がするんだよね~。いや~、ごちそうさまでした!」
「お前、マジで変態だな。で?どこで見たんだよ?」
「ほんとそれ、通報されても文句言えないだろ。で、何色だったの?」
「ちょうど階段登ってる時にね……ちゃんとは見えなかったけど、たぶん黒。」
「え〜、あの子って清楚系かと思ってたのに、意外と攻めてんなあ。」
「俺はピンクの可愛い系が好きなんだけどな〜。」
「てかさ、その場で突っ込んでいけばよかったって今になって後悔してる。だって俺、スーパーヒーローだぜ?……いや、待てよ。俺みたいに強くてイケてるヒーローがなんで彼女いないんだよ!?おかしいだろ!?ああああああああ!スカートに顔うずめてええええええ!!!」
会話のテンションがどんどんヒートアップし、声もどんどん大きくなっていく。
その内容は、近づいてきた橘と西山の耳にも、否応なしに届いてしまった。
西山はちらりと橘の方を見る。
橘は、なんとも言えない――呆れとも照れともつかないような、複雑な顔をしていた。
「……橘さん。詳しい事情は分かりませんが、あの人たち……本当にスーパーヒーローなんですか?」
「若い奴ってのはな……まあ、いろいろあるんだよ……」
橘は少し苦笑いを浮かべ、肩をすくめながら、そのまま西山と一緒に休憩スペースへと向かっていった。
「おーい、この中にピザ頼んだ人、いるかー?」
「おっ、橘さんじゃん!」
橘と西山が休憩スペースへと歩み寄ると、ひとりの声が元気よく反応した。
橘もいつもの軽いノリで手を振りながら、ラフに挨拶を返す。
――だが、その人物を見た西山は、思わず目を丸くした。
「……えっ?ひとりだけ?」
休憩スペースのソファには、ひとりの男がリラックスした様子で寝転んでいた。
目の前には紙コップがいくつも並び、ポテトチップスやチョコ、スナック菓子などの袋も散らかっている。
彼は、橘と西山の姿を見るなり、勢いよく飛び起きた。
男の顔は、流行風のゴーグルで覆われており、素顔ははっきりと見えない。
全身は、サイバーパンク風の素材で構成された、やたらと派手な機能系ファッション。
黒を基調に、個性的なデザインや小物が随所に散りばめられた一体型ジャケットとベルト、それにスポーティなパンツとハイカットスニーカー――
まさに、「中高生の男子が“これ着てみたい!”と思うような“中二的カッコよさ”を詰め込んだコーディネート」だった。
特に目を引くのは、胸元中央にある「円に近い三角形」のようなシンボルマークだ。
「パリピ、軽く紹介しとくな。こっちは西山、最近DSAに入った新人だ。」
「はじめまして、西山と申します。よろしくお願いします。」
見た目は完全にチャラいタイプの若者だったが、パリピは意外にもきちんと立ち上がり、自然な口調で挨拶を返した。
「こんにちは、西山さん。よろしくお願いします。」
西山もやや戸惑いながらも、落ち着いた態度で頭を下げる。
「――どうも、はじめまして。」
今度は、さっきよりも少し表情が硬くなり、声も低く落ち着いた調子に変わる。
同じ人物のはずなのに、どこか雰囲気が違う。
「……え、あ、はい。よろしくお願いします……?」
西山がわずかに目を見開きながらもう一度返すと、
次の瞬間、相手の顔がパッと明るくなった。
「よろしくっ、西山さん!今後はビリーって呼んでくれていいからね~!」
急に馴れ馴れしくなったその口調に、西山は完全に戸惑いを隠せなかった。
「え?あっ、ああ……これって、ひとりごとですか?」
西山はもう何が何だか分からなくなりつつあったが、それでも自分の意識がはっきりしていることを確かめるように首を振った。
「西山はまだ知らない。話すかどうかは、お前に任せるよ。」
橘がパリピにそう伝えた。
「まあ、隠し通すほどの秘密ってわけでもないしな。特にDSAの人間相手なら。
独り言――君から見ればそうかもしれないが、俺たちにとっては違うんだ。」
「俺たち……?」
「自己紹介しよう。俺のことはビリーって呼んでくれていい。見分けやすいようにね――」
そう言ってビリーと名乗るパリピは、指をパチンと鳴らした。すると、真っ黒だったスーツに紫色のネオンラインが一斉に浮かび上がり、特に胸元のマークは紫の光を放ち始めた。
次に彼は両手をぺろりと舐め、それを向かい合わせると、手の間にバチバチとした電流が流れ始めた。光る電気は今にも爆ぜそうな勢いで、まるでエフェクトのように輝いていた。
ビリーはそれを整髪料でも塗るかのように額から後ろへ髪を撫で上げ、電流を帯びた髪がピンと立ち、ツンツン頭のようなスタイルになった。
「覚えておいてくれ、いちばんイケてるのがビリーだ。よろしくな!」
ビリーは両手の人差し指からピチピチと小さな稲妻を飛ばし、自分にド派手なエフェクトをつけるような仕草を見せた。
「……つまんねぇ。長すぎだ。」
突如として、パリピの動きが一瞬フリーズしたかのように止まり、そのまま両手をゆっくりと下ろして通常の姿勢に戻った。電流もすっと消え、静電気で立っていた髪も少しだけしんなりと垂れた。
先ほどまでの自信満々なキメ顔と声色は、わずかに陰を帯びたものに変わり、体格も少しだけゴツくなったように見える。
彼は前髪を乱暴にかき上げ、視界を覆っていた髪を後ろへ流してオールバック気味に整える。そして指を鳴らすと、スーツのネオンラインとマークが紫から赤橙色へと変化した。
「よろしく。俺のことはマックスと呼んでくれ。」
マックスは首をぐるりと回し、先ほどまでのビリーのキメ顔とはまるで別人のように、寡黙で厳つい雰囲気を醸し出していた。同じ顔と身体なのに、空気感がまったく違っていた。
「それと、いちばんカッコいいのは俺だからな。」
「……あー、そのセリフさえ言わなければ普通にカッコよかったのに。台無しだよ、やっぱりお子ちゃまだなぁ……」
橘は思わずツッコミたくなったが、どうにか飲み込んだ。
「さて、今度こそ最もイケてる俺の出番だな?」
パリピの表情と声色がさらにラフな雰囲気へと変わり、指をパチンと鳴らすと、衣装がネオンブルーに切り替わった。彼は軽く体を伸ばすと、次の瞬間――
橘と西山の目には、一瞬パリピの姿が消えたように見えた。周囲に青い光のリングが走ったかと思えば、すぐに何事もなかったかのように彼は元の場所に立っていた。
ただし、髪型が少し乱れており、前髪は両側に分かれてセンター分けのようになっていた。
「ジェットって呼んでくれ、よろしくな。ま、見ての通り――俺たち三人でパリピってわけだ。」
西山は目を見開きながら橘とパリピを交互に見つめ、状況を理解しようとした。
「……多重人格、ですか?」
そう言って、少し首を傾げた。
「まあ、そんなところだな。パリピは生まれつき三つの人格を持っていて、それぞれが違う能力を持ってる。焦らなくてもいい、俺だって最初は誰が誰だか分かるのに時間かかったからな。」
「俺がいちばんイケてるし、分かりやすいけどね~」今はセンター分け。
「イケてるのは俺だろ。」次の瞬間オールバックに変わる。
「お前ら二人とも鏡見てこい。」そしてすぐにツンツン頭に切り替わった。
西山はつい心の中でツッコんだ。
――もはや三つ子とかのレベルじゃない。ただの同一人物じゃねぇか。
「よし、イケメンたち、ピザでも食べようか。ちゃんと好みの味を買ってきたはずだぞ。」
橘は出前で届いたピザとドリンクをテーブルに並べた。
「サンキュー橘さん!じゃあ、遠慮なくいただきまーす!」
ビリーは右手で熱々のハワイアンピザを掴み、口に運ぼうとした――その時、左手が突然自分の右手首を掴んだ。
次の瞬間、彼の動きがピタリと止まる。
さっき人格が切り替わるときにも一瞬止まることはあったが、今回は数秒経ってもまったく動かないままだった。
「えっ?どうしたんですか?」
状況が飲み込めず、西山は思わず声を上げた。
「焦らなくていいよ。俺の経験だと、ああやって完全に止まってる時は――まあ、中で話し合いでもしてるってことだ。脳内会議みたいなもんさ。」
橘はまるで慣れた様子で、ピザを一切れ手に取ってパクっとかじった。
「なるほど……ってことは、何か大事な話をしてるのかもしれませんね。」
同じ頃――パリピの脳内のどこかに、独立した一軒家のような空間があった。
その中のシンプルなリビングには、テーブルと椅子が数脚だけ置かれていて、そこには見た目がまったく同じ三人の男がいた。
そのうち、オールバックの男がツンツン頭の男の右手首をがっちりと掴み、二人とも険しい顔つきで睨み合っている。まるで今にも殴り合いが始まりそうな雰囲気だった。
そんな中、センター分けの男はソファにのんびりと寝転び、この光景を「またか」とでも言いたげに見つめていた。
「お前さ、今何してんだよ、マックス?」
ビリーは顔をしかめ、敵意むき出しの視線をマックスに向けた。
「それはこっちのセリフだ。俺の口にあんなもんを入れるなんて、絶対に許さないぞ。」
マックスも一歩も引かず、鋭く言い返す。
「は?ハワイアンピザが嫌いなのか?お前イタリア人でもないくせに、何気取ってんだよ。」
「国籍なんか関係ない。あんなものはこの世に存在しちゃいけないんだ。少なくとも、俺の口には絶対に入れたくない。」
「それは俺の口でもあるんだぞ!さっさと離せ、このクソ野郎!」
「離すのはてめぇのほうだ、クソが!」
「どっちでもいいから、さっさと終わらせてよ。別の味も食べたいんだけど~」
ジェットがソファから呆れ声を上げた。
マックスとビリーは一歩も譲らず、腕を取り合ったまま睨み合いを続けた。だが徐々に、マックスがビリーの腕を力で引き剥がしていく。どうやら少しパワーでは上回っているようだ。
――しかしその時、マックスが突然「うわっ!」と叫んで手を引っ込めた。
ビリーはその一瞬のスキを逃さず、主導権を奪い返してピザを口に突っ込んだ。
「っは~、うめぇ!」
「てめぇ!俺に電撃かましやがったな、この野郎!」
「はいはい、食べ終わったら交代するからさ~」
ビリーはピザを食べ終えると、コーラを何口か飲んでからマックスに主導権を渡した。
「……うっ……まだ口の中にハワイアンピザの味が残ってやがる……それにコーラと混ざって、訳わかんねぇ味になってるし。」
マックスは顔をしかめながら新しい紙コップを手に取り、水を何度も口に含んで味を中和しようとした。
それからようやく、サラミピザを一切れ手に取って口に運んだ。
「……うん、これはうまいな。」
「ははっ、俺も正直ハワイアンピザはあんまり好きじゃないけど……まあ、好みは人それぞれだよな。なあ、西山はどうだ?」
橘はパリピ三人格のやり取りを見て思わず笑い、ついでに話題を西山に振った。
「えっ?あ、僕ですか?うーん……まあ、普通ですかね。食べられなくはないですけど、特別好きってほどでも……」
西山は無表情のまま、メモを取りながら淡々とピザを口に運んでいた。
「そっかそっか、はは。それじゃ改めて、イケメン三人衆よ――最近どう?元気にやってるか?」
「うーん……特にこれといった出来事はないかな。
スーパーヒーローのバイト代はまあまあ悪くないし……ただ、事件対応でちょいちょい遅刻早退しちゃうから、先生から出席率に気をつけろって最近言われたよ……」
マックスはピザをかじりながら、少し考え込むように答えた。
「そうか……お疲れさん。大変だよな、学生っていう本業もあるわけだし。
さすがに先生に『すみません、さっき銀行強盗を止めてたんで遅れました』なんて言えないもんな。
まあ、無理せずやってくれ。どうしてもヤバそうな時は言ってくれれば、こっちでも何とか調整してみるよ。」
「了解っす!ありがとうございます、橘さん!」
マックスはピザをかじりながら、軍人みたいにピシッと敬礼。橘もつられてふっと笑った。
そのあと、彼はドリンクを数口飲んでから、今度はジェットが表に出てきた。
ジェットもまた新しい紙コップで水を一口飲み、三種類のうちまだ手をつけていなかったシーフード味のピザを手に取ってかじり始めた。
「ま、俺としてはさ――今みたいな生活、大事にしたほうがいいと思うけどな。
考えてみろよ、お前らはただの高校生じゃなくて、秘密のスーパーヒーローでもある。
映画みたいに世界を救いながら、授業受けたり、部活やったり、恋したり……
そういうの、俺みたいなおっさんからしたらめっちゃ羨ましいわけよ。」
「えぇ~?でも、アニメに出てくるようなキラキラの青春高校生活なんて、俺たちには全然ないし?
むしろ俺らなんて、一話に一言二言しかセリフのないクラスのモブじゃん?
毎日他のやつらの青春見てるだけのゴブリン役だよマジで~」
ジェットはそう言いながら、思わず目をぐるっと回した――が、口にシーフードピザを詰めたままだったので妙に間抜けな感じになっていた。
「橘さん、ジェットはさ~、ちょっと前に好きだった女の子に彼氏がいるって知って、まだ根に持ってんのよ~」
ビリーがニヤニヤしながら口を挟む。
「最初からムリだって言ったろ。素直に諦めときゃよかったんだよ」
マックスも容赦なく追い打ちをかける。
「うるせぇ!別に好きってわけじゃねぇし!……ただ、なんか脈ありそうな雰囲気あったからさ、ちょっと釣れるかな~って思っただけで……!」
今は表に出てきてないが、頭の中じゃあいつら絶対ゲラゲラ笑ってるに違いない。
「いやぁ、若いっていいなぁ……」
橘は思わず苦笑いしながら、ゆるく首を振った。
「も~橘さん、それじゃあ教えてくださいよ。どうすれば彼女ってできるんですか?
せめて、脈があるかどうか見分ける方法とか!」
「そんなこと聞かれてもなぁ……俺、学生時代はほとんど勉強ばっかりで恋愛経験なんてほとんどなかったし。
社会人になってからは……うーん、お前にはまだちょっと早いかもな。
今はその、もっとピュアで青臭い恋を思いっきり楽しんどけって。ははは。
……あ、じゃあ西山に聞いてみたら?なんか面白い話ある?」
「えっ?僕ですか?……うーん、自分はあまりモテたことがないので、正直よく分からないです」
西山は少し真面目な表情でそう答えた。
「そうか、それは聞く相手を間違えたな。
でもさ、『チャンスがあるかどうか』ってのは、こうやって自分から動いてみないと分からないもんだよ。
今回ダメでも別にいい。また次のチャンスを待てばいいだけの話さ。――ま、俺のささやかな経験だけどな。」
「……まだちょっとよく分かってないけど、ありがとう、橘さん。」
「そうそう、ちなみにだけど――もし失恋しても、相手に八つ当たりしたり仕返ししたりするなよ?
お前には“能力”があるんだからな、れっきとしたヒーロー様なんだし。……他の二人も、もちろん分かってるよな?」
「は~い。さすがにそこまではしないっすよ~。
それに、ダメだったら次のターゲット探すだけですし!
あ、そうだ!うちの学校、今度校外学習があるんですけど、行き先を生徒の投票で決めるらしいんですよ!
橘さんと西山さんのときって、どこ行ったんですか?」
「高校の卒業旅行か……もう15年くらい前の話になるな。うちの学校はどこ行ったっけ……ああ、そうだ。あの年は“129”が起きた年だったから、結局中止になったんだ。君たちの世代だと、もうあまり覚えてないかもしれないけど。」
「129」という数字を聞いた瞬間、西山とジェットの表情が一変する。
特に西山は、当時を知る立場として、寂しさと怒りの入り混じった複雑な表情を浮かべていた。
「……そうだったんですね。」
「いや、大丈夫だよ。もうだいぶ昔の話だしな。
……ま、あの頃は若かったってことで。今さら気にしてもしょうがないしね。」
橘は肩をすくめて苦笑しつつ、いつもの軽いノリで話を切り替える。
「さてと、そんなわけで最近も特に問題なしってことで安心したよ。
世界救ってくれてありがとな、ヒーロー諸君。
じゃ、今日はこのへんでお開きにしようか。何かあったら、また連絡くれよ~」
橘はすっかりいつものテンションに戻り、
数人はささっと片付けを始め、橘と西山もパリピを見送る準備をした。
「橘さん、西山さん、今日はありがとうございました。じゃあ、また!」
「ごちそうさまでした。お邪魔しました。」
「ばいば~い、またね~!」
三人はそれぞれのテンションで橘と西山に挨拶をして、エレベーターへ向かった。
「気をつけて帰れよー。たまにはちゃんと勉強もしとけよ?単位は取っとけよー?」
橘は軽く冗談めかして手を振りながら見送った。
西山も軽くうなずき、パリピはにっこり笑ってエレベーターに乗り込んだ。
「まあ、あいつらにはまだまだいろいろ問題が出てくるだろうけど……
俺たちが手伝えるのは、せいぜい出席率とか単位の話くらいだな。」
「……高校生か……」
西山も思わず、ぽつりとつぶやいた。
「ん?西山、お前の高校時代はどうだった?今思い返すと懐かしかったりする?」
「……うーん、もうそんなに昔になったんだなって、それだけです。」
「だよなあ。あいつら見てると、つくづく時間って早いもんだって思うよ。
気づいたら俺も三十越えた立派なおっさんだし、はは……。
――さて、今日の予定はこんなところか。そろそろオフィスに戻ろうか。」
橘と西山はオフィスに戻ると、橘は西山に事務作業の流れや内容を教え始めた。
「まあ、普通の会社員とそんなに変わらないよ。決まったSOP(作業手順)に従って、事務作業を淡々とこなすって感じかな。
例えば、さっきの戦闘後の現場整理の報告とか、午後に行ったヒーローとの面談内容なんかをまとめて、資料にしてアップロード提出。
それから、メール対応もある。社内のものもあれば、外部からの問い合わせも来る。」
橘はディスプレイに映し出されたメールを指差しながら続ける。
「ほら、これ見てみ。
『こんにちは、青羽高校です。文化祭にポリス様をお招きしたく……』
アイツ歌も踊りもできねーのに、何しに行くんだよ……ってのはもちろん返信できないからな。
SOP通り、こう返すんだ:
『お問い合わせありがとうございます。ご本人の意向とスケジュールを確認のうえ、ご連絡いたします』――って感じで。」
橘は次のメールも開いた。
「んで、こっちは……
『こんにちは、私たちはVERNEXアウトドア用品会社です。新商品のPRにルーキーさんをぜひ……』
は?アウトドア?あの子、外なんか一歩も出ねーぞ。でも、サンプルはもらっとくか。公関品もらえるならアリだな、ハハ。」
橘はひと通りふざけ半分で説明を終えると、二人はそれぞれの席に戻り、しばらく黙々と仕事を続けた。
いつの間にか外は夕方になり、橘は周囲を軽く見渡してから、自分の荷物を片付け始め、西山のデスクに声をかけに行った。
「よう、西山。そっちはひと段落ついたか?よかったら、あとで俺の友達らとメシでも行かない?」
「えっと……すみません、でも今週と来週はまだ覚える業務があって、他の先輩方も順番に来るらしくて……」
「そっか、お疲れさん。
まあ、そのうち会議とか報告系の仕事も出てくるけど、慣れればたいしたことないし。
何かあったらいつでも聞いてくれていいぞ――ただし、俺は退勤したら基本もう仕事のことは考えないタイプだからな?ははっ。
じゃ、お先に~」
「はい、橘さんもお疲れさまでした。」
=================================================================
橘はオフィスを後にし、エレベーターの前で到着を待っていた。
「ピンポーン」という音とともに扉が開き、中には先客が一人いた。
「あ……どうも……」
「こんにちは……」
お互いに少しだけ気まずそうに挨拶を交わし、橘もそのままエレベーターへ乗り込んだ。
中にいた女性は、橘が乗ってくると少し後ろに位置をずらす。
彼女は橘よりも小柄で、金髪のショートカットが目を引く。
服装は濃い色のゆったりとしたTシャツとロングパンツにスニーカー――
加えて、大きめのフレームのメガネとキャップを被っており、まさに街中でよく見かけるカジュアルスタイルだった。
エレベーターの扉が閉まり、下の階へとゆっくり動き出す。
今、箱の中には二人きりだった。
「……」
「……」
「……仕事、今終わったところ?これから帰るの?」
「うん、まあそんな感じ……」
「そっか、一日お疲れさん。」
「あなたもお疲れさま。」
しばらくの沈黙のあと、橘が口火を切った。
だが二人とも、互いを見つめることなく、正面や別の方向を向いたまま話していた。
「……」
「……」
再び沈黙が訪れ、エレベーター内には控えめなBGMだけが流れていた。普段は人との会話に長けた橘でさえ、今は言葉が見つからず、心の中では「なんでこんなに時間かかってるんだよ……まだ二十何階だぞ……」と苛立ち始めていた。
ふと、背後から視線を感じた橘は、そっと振り返って彼女の様子を伺う。しかし彼女も橘の視線に気づくと、すぐに目を逸らしてうつむいてしまう。キャップのツバが邪魔をして、橘には彼女の表情がよく見えなかった。
「……車、呼んだほうがいい?」
「ううん、大丈夫。さっき呼んどいたから。ありがとう。」
「そっか、それならよかった。」
「……」
「……」
再び沈黙が落ちる。
橘はふと思いついたように、上着の内ポケットに手を伸ばし、小さなミントタブレットの箱を取り出した。
「……食べる?」
「うん、もらう。」
女性がうなずくと、橘は箱を開けて、いくつかを彼女の手のひらに落とす。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
橘も自分用に数粒を取り出し、口に放り込んだ。
ひんやりしたミントの感触が、沈んだ空気を少しだけ和らげた。
話さなくても気まずくならない、そんな時間が流れる。
少し経ってから、女性がぽつりと口を開いた。
「……これ、新しい味?」
「うん。今朝コンビニで買ってみた。どう?」
「……ココア味、かな……?」
女性は考えるようにしながら答える。
「……チョコミントっぽくなるかなーって思ってたんだけど……ハズレだったな。」
「「まずっ。」」
二人の声がぴったり重なった。
そして、つい笑みがこぼれた。
「……なんか、子ども用の歯みがき粉舐めてるみたい。」
「いやいや、本当にうまいチョコミントを食べたことないだけだよ。」
「まずいって分かってて、人に勧めるとかどういう神経?」
「いや、さっさと食べきって次の味に乗り換えたかったんだよ。感謝してる。」
「……アンタ、一回も殴られたことないでしょ?」
「頼むから勘弁してくれ。俺絶対勝てないから。」
そんな軽口を交わしながら、気づけば二人の間にほんの少しだけ笑みが戻っていた。
やがてエレベーターが一階のロビーに到着した。
「……あ、来てる。私の車、あれだ。」
彼女はロビーの外、道路に停まっている車を見つけた。
「じゃあ、そこまで送ろうか?」
「……いいけど、本当に?大丈夫?」
「まあ、これも一応仕事のうちだからな。」
「もう退勤してるくせに……アンタ、そんなキャラだったっけ?」
「うるさいな。じゃ、やめとくか?」
女性はうつむき加減に、苦笑しながらも橘と一緒に車へ向かった。
車のドアが自動で開くと、橘は手を伸ばし、ドアと屋根の間にそっと添えた。
「ありがとう。」
女性は軽く体をかがめて車に乗り込み、ドアが再び静かに閉まった。
だが、車はすぐには発進せず、彼女は窓を少し下げた。
橘は車体に軽く身を預けながら、片手を屋根に置いた。
女性がふいに口を開いた。
「……で、これから何か予定あるの?」
「んー……メシ食って、家帰って、ダラダラして、風呂入って寝る。いつも通りって感じ。
もう若くないし、最近じゃ夜更かしするのもしんどくてさ、はぁ。」
「そんなこと言わないでよ。それじゃ、私まで歳とったみたいじゃん。」
二人はふっと笑い合った。
だが笑いが静まると、短い沈黙が訪れた。
言葉もなく、ただお互いを見つめる時間が流れた。
「あの、わたし……」
「ブー……ブー……」
女性が何かを言いかけたその瞬間、橘のスマホが突然鳴り出し、二人とも思わずビクッとしてしまった。
「ご、ごめん……」
「だ、大丈夫。出ていいよ。」
「悪いね……ああ、俺だよ。うん、そう。OK、じゃあ俺は……」
橘はスマホを耳に当てたまま、少し車から距離をとって話し始めた。その間にも、彼は何度か女性の方をちらりと見て、何かを気にしているようだった。しばらくして通話を終えると、再び車のそばに戻ってきた。
「いや、悪かったね。大したことじゃないよ。友達から夕飯一緒にどうかって誘われただけ。……さっき、何か言いかけてた?」
「ううん、なんでもないよ。早く行ってあげなよ。私ももう帰るし。」
「そっか。じゃあ、また今度な。バイバイ。」
「うん、バイバイ。」
二人は軽く手を振って別れ、車はそのまま走り出した。橘は数秒ほどその後ろ姿を見送ったあと、静かにDSAを後にした。
橘はDSAを出たあと、大通り沿いの居酒屋へと向かった。店に入ると、ちょうど夕食時ということもあり、すでに店内はほぼ満席だった。どのテーブルでも客たちが酒を片手に楽しげに会話しており、全体的に和やかで活気のある雰囲気に包まれていた。
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
店員の一人が橘に気づくと、すぐに声をかけてきた。橘は店内を軽く見渡しながら、誰かを探している様子を見せる。
「えっと……友達が先に来てるはずなんだけど……」
「おーい!煉司!こっちー!」
元気な女性の声が店内に響く。橘はすぐにその声の主に気づいた。テーブルにはすでに男女二人が座っており、どちらも橘より少し若そうだった。呼びかけた女性はボーイッシュな服装で、片手を振りながら橘を呼んでいる。チェック柄のシャツにスリムなスラックス、足元はブーツ。髪はミディアムショートで、内側には青緑のメッシュが入っており、いかにも「イケメン女子」って感じだ。
その向かいに座っている男は、いかにも作業員といった感じのワークウェア姿で、表情はどこかけだるげ。目の下には濃いクマがあり、無理やりまとめたボサボサの髪を押さえるヘアバンドとあいまって、「会社早く潰れないかな」と顔に書いてあるような雰囲気を醸し出していた。
「あっ、あそこだ。すみません、ハイボール一杯とおでん一人前お願いします。」
橘は店員に注文を済ませると、そのまま二人の待つテーブルへ向かった。
「煉司〜、遅いよ〜」
結依は明るく橘に声をかけ、隣の席をぽんぽんと叩いて座るように促す。彼女のビールジョッキはすでに半分以上空になっていた。
「ごめんごめん、結依。ちょっと途中で他の人と話し込んじゃってさ。よう、陽介、今日の調子は?」
向かいに座っている陽介はというと、烏龍茶をちびちび飲みながら、だるそうに愚痴をこぼし始めた。
「いつも通りだよ。今日も一日中社内監禁状態でさ、部署と客先をあっちこっち回されて、さらにコーヒーメーカーの修理まで押し付けられたわ。説明書読めば終わるようなことが、なんであの高学歴どもにはできねえんだか……」
「大いなる力には、大いなる仕事量が伴うんだよな……まったく、お前が優秀すぎるのが悪いんだって。俺なんか何のスキルもないから、外回りばっかだよ、ははっ。」
「えっ?そういえば、今日新人連れてたんだっけ?どうだった?」
「西山っていうんだけど、あんまり喋らないけど真面目そうなやつだったよ。誘ってみたけど、まだいろいろ覚えることがあるらしくてさ。」
「へえ~。俺たちがDSA入ったばっかの頃って、そんなに忙しかったっけ?……まあ、どうでもいいか。思い出すのもめんどいし。」
「仕事終わったら、職場のことは一切考えないってのが俺のポリシー。」
「それな〜」
「お待たせしました。こちら、ハイボールとおでんになります。」
橘は結依の隣に腰を下ろすと、三人はすぐに和やかに会話を始めた。すでに二人は先に飲み食いを始めていたが、橘はそんなことまったく気にしない。テーブルにあった焼き鳥を手に取り、ひと口かじってからハイボールをごくりと流し込んだ。
「あ〜、最高〜」
まるで典型的なオッサンそのものだった。
「よしっ、煉司の酒も来たことだし、改めて乾杯しよう!」
結依はテンション高くジョッキを掲げた。
「てか、もう半分くらい飲んでない?……まあいいや、かんぱ〜い!」
「「かんぱ〜い!」」
橘はまたハイボールをごくごくと飲み、陽介はいつものようにウーロン茶を少し口に含み、そして結依はまるでオッサンのようにジョッキに残ったビールを一気に飲み干した。
「あ〜、たまらん!すみませーん、ハイボールもう一杯お願いしまーす!」
結依はジョッキを飲み干すやいなや、すぐさま追加注文。橘と陽介はもう慣れた様子で、ただ横で苦笑いを浮かべるだけだった。
その後も三人はつまみを食べながらゆるく会話を続け、橘はレモンサワーを、陽介はコーラをそれぞれ追加で注文した。
「てか陽介、今日は酒飲まないの?疲れてるとか?」
橘はおでんの大根を口に運びながら尋ねた。
「いや、そういうわけじゃなくてさ。彼女が俺が外で飲むのあんま好きじゃなくて。だから最近はちょっとおとなしくしてる。」
「へえ〜、でも一杯くらいならバレないんじゃない?……ん?ちょっと待て、今なんて言った?」
「唐揚げうまいけど……え、もしかしてもう一皿頼むつもり?」
「いやいやいや、その前!その前のセリフ!」
「前?えーっと……彼女が酒にうるさいって話?」
「それそれそれ!お前、彼女できたの!?いつの間に!?」
「ちょっ、それ先に言えよ!」
結依までが興味津々で身を乗り出す。
「いや、別に聞かれなかったし?それに言うタイミングもなかったし、わざわざ言うほどでもないかなって。」
「相手もDSAの人?」
「いや、外で知り合った子。たぶん、二人とも知らないと思う。」
「え〜…陽介、俺たち三人で一生キャバクラ仲間って約束したじゃん?」
「してねーし!てかさ、この前お前らとキャバ行って酔っ払ったのがバレたから怒られたんだって。」
「なに言ってんの、あの日めっちゃ楽しそうだったじゃん。私、証拠の動画まだスマホに残ってるけど?」
「まぁ……正直、楽しかったのは確かだわ、ははっ。
んー、今度機会あったら紹介するよ。一緒にメシでも行こうぜ。」
「てかさ、どうせならその子の可愛い友達も連れてきてくれよ、ははっ。」
「よーし、それじゃ陽介が彼女できた記念に、もう一回かんぱーい!」
結依がまたもテンション高くグラスを持ち上げる。
「いやいや、そんな祝うほどのことじゃねーって……乾杯〜」
陽介はちょっと照れくさそうに笑いながら、それでもちゃんとグラスを合わせた。
「これで結依と私だけがまだ独り身かぁ……」
「そういやさ、こないだキャバ行ったとき、何人かの子があとでこっそり連絡先聞いてきてさ。可愛かったからついOKしちゃって、今度みんなで遊ぶ約束しちゃった。」
「は?それってダメなんじゃないの?」
「お店のルール的にはアウトだけど……まあ、運が良かったってことで!」
結依はどや顔で橘の方を見て、肩をすくめながらどこか得意げな様子を見せた。
「……俺ももう一杯頼むかな……」
「大丈夫だって煉司。年齢の割には全然イケてるほうだよ?」
「そのフォローが一番つらいんだけど。」
「そういえばさ、前に十五階の女の子とちょっと仲良さそうじゃなかったっけ?」
「んー、ああ、あの子ね。まぁ悪くはなかったけど……俺、同じ職場の人と恋愛する気はないんだよな。なんかめんどくさいし、気まずくなりそうでさ。」
「なるほどね〜。でもさ、本当の理由は?」
「本当の理由?」
「だって、もし振られたとか、相手に彼氏いたとかだったら、煉司なら正直に言うでしょ?」
「本当の理由はな……あいつ、タイプじゃなかったんだよね!ははっ!」
橘はあっけらかんと本音をぶちまけ、大笑いする。
「おいおい、そんな贅沢言ってると、一生彼女できねーぞ?」
「そうそう、もし立たなくなったら素直に病院行けよ?」
結依と陽介はニヤニヤしながら容赦なく橘をいじり、三人はまるでバカみたいに笑い合った。
こんな風景が、いつしか彼らの退勤後の日常になっていた。
しばらくして、三人とも満腹になり、それぞれ家路についた。
橘は自宅に戻るとシャワーを浴び、下着一枚のままソファにどさっと身を沈めた。鍛えられた体には、大小さまざまな傷跡がいくつも残っている。
「今日はちょっと飲みすぎたかもな……」
目を閉じたまま、背もたれに頭を預けて休む橘。ひとり暮らしの賃貸マンションは、今は妙に静かだった。
しばらくして、ふと何かを思い出したように目を開けた橘は、ゆっくりと上体を起こし、財布の中から一枚の写真を取り出した。
そこに写っているのは、制服を着た女の子。年の頃は高校生くらいだろうか。純粋さの中に少しだけ茶目っ気のある笑顔と、まっすぐな黒髪――誰もが一度は恋をしたことのある、あの頃の「初恋のイメージ」そのものだった。
橘は何も言わずに、その写真を長い間じっと見つめたあと、ぽつりと語りかけるように口を開いた。
「よう、俺だよ。別に元気さ。ただ……ちょっと飲みすぎたせいか、ふと君のこと思い出してさ。」
「最近は……まぁ、なんとかやってるよ。ちょっと疲れてはいるけど、そろそろ寝ないとな。明日も仕事だし、はぁ……」
「しかも中村のやつ、結婚して新婚旅行行ってからずっと休みっぱなしで、
その尻拭いまで俺がやらされてんの。……クソが。」
「今日な、高瀬のやつが新人の面倒見ろとか言ってきてさ。俺、そんなに暇そうに見えたのかね。……まぁ、実際よくサボってんだけどさ。」
「新人の名前は西山っていってさ。」
「あんまり喋るタイプじゃないけど……DSAに入ってきたってことは、何かしら凄い才能があるんだろうな。」
「結依や陽介みたいに、どこか光るものを持ってるのかもしれない。」
「そうだ、さっき結依と陽介と三人で居酒屋行ってきたんだ。」
「そこの唐揚げがめちゃくちゃ美味しくてさ。どうやって作ってるんだろうな、あれ。」
「それからさ、陽介が最近彼女できたんだって。」
「だからもう、俺たちと一緒にキャバクラ行けないかもな〜とか言っててさ。……あ、話がそれたな。まあ、分かるでしょ?大人になると、なんか変なところで楽しみ見つけようとするんだよ。」
「いつかさ、君とも一緒にお酒が飲めたらいいなって……」
「それで……うん、ごめん、俺……」
「あ、そうそう。最近ネットで見た猫のミームがさ、めっちゃ笑えてさ。君もきっと気に入ると思うよ。」
「俺、猫とか飼ったことないけど……君はどう思う?俺も何か飼ってみたほうがいいかな。」
「正直、世話とか面倒くさそうだし、ずっとそういうの避けてきたけどさ。でも……やっぱ、誰かがいるって悪くない気がするんだよな。」
「あ、そういえばさ……前に一緒にやってたあの監督、なんか新作映画もうすぐ公開らしいよ。」
「時間があったら観に行ってみようかなーって思ってるけど……予告だけでもうダメな匂いしかしないんだよな、正直。」
「やっぱ、君みたいなすごいヒロインがいないからかな、あの監督……ははっ。」
「……ごめん、俺……」
「……ま、そんなわけで。俺は最近、そこそこうまくやれてるよ。ありがとう。」
「……君みたいに優秀な人間には、きっと一生なれないけどさ。
それでも……俺なりに、もうちょっとだけ頑張ってみようとは思ってる。本当に。」
「……じゃあ……今日はこのへんで。うん、会いたいよ。おやすみ。」
橘は途切れ途切れに言葉を重ねたあと、そっと写真を財布に戻した。
それから薬を一錠飲み、静かにベッドに潜り込んだ。
第二章、お読みいただきありがとうございます!
今回は、主人公・橘の「日常の顔」と「ふとした隙間に見せる本音」を中心に描きました。
居酒屋での他愛ないやりとり、仲間たちの軽口、そして深夜に一人きりで語る独白。
少しずつ、キャラクターたちの距離が近づく中で、
何かが確かに「静かに動き始めている」ことを、感じていただけたなら嬉しいです。
……休みがちの同僚。
無口な新人。
それでも変わらない、いつも通りの仕事。
次回、物語の温度が少しだけ変わるかもしれません。
ぜひ、次の話も覗いてみてください。