襲来
私にとって空を飛ぶ体験はとても貴重なものだった。
満点の星空に包まれながら、少し肌寒い夜空を魔法使いのように颯爽と駆ける。オモチャみたいな街の灯りがとても小さく見え、山の向こうには広大な景色が広がっている。手を伸ばせば雲にも触れるし、背伸びをすれば月にも届きそうだ。
それはとても不思議で、それでいてとても素敵な感覚。まるで私自身が物語の登場人物になった気分だった。
だからこそ——だからこそ、放火魔の容疑者になっていなければもっと最高だっただろうよ……。
「ここまで来れば大丈夫でしょう。しかしこれでわたし達はお尋ね者です。もう後には引けませんよ」
アイラは鬱蒼とした森の奥に着地すると、私をポイっと地面に降ろした。そして呆れたようにやれやれと首を振った。
「おいちょっと待てこのやろう。お前が無理やり窓から引っ張り出したんだろうが」
確かに野次馬や宿の従業員が突然訪問したことに驚きはしたが、よくよく考えてみれば煙が出ていただけで火事でもなんでもなかったのだ。きっと事情を説明すれば、怒られることはあるといえ、追い出されるまでなかったはず。
この場合言い訳をしないのは絶対に悪手だった。言い訳ではなく、真実を告げれば良かっただけだし、逃げるから余計怪しくなる。
もっと言えば私は何もしておらず、煙が上がっていた原因もアイラなのだ。アイラ一人で檻の中で一日過ごせば良かっただけの話では?
だが、アイラはそんな私を気にも止めず、首根っこを濡れた手で掴むとそのまま窓から飛び出してしまったのだ。これでは怪しまれる一方だし、再び宿に戻ったところで話すら聞いてはくれないだろう。
きっと今頃は煙を放ちながら空を飛ぶ滑稽な不審者認定されているに違いない。
「甘い! 甘いですよ、凛さん! いくら煙だけとはいえ、部屋には臭いが充満しますし、換気している期間は部屋が使用不能になるのです。その間に発生したはずの儲けを保証しろなんてなったら……ああ、考えるだけで恐ろしい。つまり逃げの一手、これこそが最善手だったのです」
アイラは脅しをかけるように言い寄ってきた。
だからさ。
なんでお前が偉そうなんだよ……。
「ハァ……ちょっとトラブル続き過ぎじゃない? あんたそれでも本当に女神? 新米だからで許されるにも限度ってものがあるでしょ」
「……」
「な、なに。急に黙り込んで」
「…………」
え、怖。
暗闇で不気味な人形が佇んでるの本当に怖いんだけど。
……流石に少し言い過ぎたかな。
きっとアイラはアイラなりに考えてくれていたんだろうし、考えてみれば私はこっちに来てから文句ばっかり言っている。
「……ごめん、悪かったよ。なんでもアイラのせいにするのは良くないよね」
「はっ! す、すいません! 立ったまま寝てしまっていました」
もうこいつは放っておこう。
自分でなんとかした方が物事が上手くいくとさえ感じてきた。隙を見て撒いてしまうのもいいかもしれない。
そうと決まれば即実行に移したいところではあるが……流石に真夜中の森を彷徨うのは危険が伴う。魔物だか魔獣だか知らないが、そんな物騒な生き物達が存在する世界で遭難するのは死を意味する。
ひとまず夜を明かすにしてもどこか身を潜める場所があるといいんだけど——。
と、その時だった。
辺りを見渡し落ち着ける場所を探していると、背後からドサッと巨大な物が地面に落ちてきた。
私は思わず身を竦めた。「な、なに……」続けて不気味な音が響く。まるで何かが這いずるような気配は、少しずつ、しかし確実に近づいてきていた。
静寂に包まれた森の中ではあまりにも不釣り合いな気配は、嫌な予感をもたらすのには十分なものだった。
「ちょっとアイラ。アイラってば!」
「は、はい!!? わたし寝てませんよ? 夢見てただけですよ」
「どっちでもいいからさ、後ろ確認してくれない?」
「え? 後ろ? ……木がありますけど」
「あんたの後ろじゃなくて私の後ろ!」
「んん? えっと、ごめんなさい。実は寝起きで目がポヤポヤしていまして」
寝てんじゃねぇか!
いや、知ってたわ!
違う! そうじゃなくて!
「アイラ! 火!」
「煙草は体に良くないですよ?」
「いいから早く!」
「な、なんですか急に。んーっと……なぁんだ。蛇じゃないですか」
…………終わった。
スキルの為になんでも食べるのは無理と言ったが、私にとって蛇の存在の方がもっと無理だった。蛇を視界に入れる位なら虫を食べる方がマシなほどだ。
私は振り返ることなく全力で走り、すぐさま目の前の巨木に身を潜めた。
頼む。
お願いだからその小汚い人形を食べて満足してくれ。
「凛さん……貴女って人はなんてことを……」
「ごめん! でも蛇だけはまじで無理!」
「全長六メートルくらいですよ?」
「バ、バケモンじゃねえか! どうにかしてよ!」
「澪さんが蛇を怖がるなんてあり得ないんですけどね」
「は?」
「だって『恐怖耐性』付いてるはずだし……」
「いいから早くそいつどうにかして!」
「全く仕方ありませんね。……いいでしょう。わたしの本領をお見せする時が来たようですね」
アイラがそう言い放つと途端に辺りが光に包まれた。
目を瞑っていても分かるほど強烈な閃光に、思わずたじろんでしまうほどだった。
思わず目を開けるとそこには、魔力のようなものを身を纏うアイラと、見上げるほどに巨大な蛇が鎌首をもたげ、舌をチロチロと動かしていた。
紫がかった黒い鱗は怪しく輝き、毒々しい瞳は蛇の凶暴さを見事に表している。全身は鋼のような筋肉に覆われていて、変幻自在に身体をうねらせている。
そしてなによりも本当に気持ち悪かった。蛇好きな人には本当に申し訳ないけど、本当に無理すぎて視認しただけで泡吹きそうだった。てか、本当にちょっと吹いた。
卒倒するのをギリギリで抑えていると「お見せしましょう! これがわたしの真の力です!」とアイラは両の手に魔力を集中させた。
それに呼応するように辺りの木々はざわめき、茂みに潜んでいた野生動物達が飛び出した。空気はビリビリと細かく振動しており、アイラの魔力の凄まじさが、文字通り肌を通じて実感できた。
やがて黒い稲光を発した魔力は、突き出した掌の前でピタリと鳴動を止めた。
この世界に関して無知な私でもハッキリと分かる。
あれは絶対にくらってはいけない類のものだ。
「いいですか凛さん。魔力の扱いは一歩間違えると大変な事態を引き起こします。いつか貴女も扱うことになる力。その威力をよく——」
「……は?」
油断大敵。
昔の人は上手いことを言ったもんだ。
アイラが大蛇に飲み込まれたその光景はそんな格言がピッタリだな、と私はやけに感心した。