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もう一度

「……え?」


 予想していなかった返答に、エリノアは思わず聞き返してしまった。騎士の少年は聞き取れなかったのかと思いもう一度同じように言う。


「団長はダチュラ伯爵令嬢のお屋敷です。この場には来ていませんよ」


 その短い台詞はエリノアの体を一気に凍り付かせた。頭からつま先まで冷え切る感覚がはっきりとあった。こめかみのあたりが、じんじんと波打ち目の奥がじわりと熱くなる。指先は神経が途切れてしまったかのように上手く動かすことができず、唇が震えて声を発することができない。焦点も定まらず両の目は目の前の景色を捉えているはずなのに、脳が処理できず真っ白に染まっていった。

 若い騎士は血の気の引いたエリノアに気付くことなく、無遠慮に言葉を続けた。


「団長は婚約者の女性がいると聞いているのですが、ダチュラ伯爵令嬢がその相手ではないそうです。婚約者がいるのに別の女性に会いに行くって、相当伯爵令嬢のことが好きなんでしょうか?団長も罪な男ですねえ。それにしても婚約者は可哀想に。『置いてけぼり令嬢』なんて馬鹿にされたように呼ばれてるんですから。伯爵令嬢が好きなら早く婚約破棄すればいいのに」


 冗談っぽく笑う若い騎士と対称に、周りでその会話を聞いていた他の団員たちが青褪めた表情を浮かべていた。エリノアのことを知っているのはこの若い少年騎士以外全員だった。だからこそ、彼らはこの発言が冗談でも言ってはいけないことだと理解しているし、なにより彼らはこの騎士にエリノアのことをどう伝えるか、エリノアにどう気遣えばいいかさっぱり分からなかった。

 ロイが副団長の責任からふたりの間に割って入ろうとする。


「ふっ……あは……あはは……あははははははっ!」


 けれどその前にエリノアが笑い出したのだ。ゆっくりと、不気味に、狂ったように、壊れてしまったような笑い声をあげた。声色やそのトーンからは笑っていると感じられるのに、目には一切の光がない。急変するエリノアの態度に、その場にいた全員に緊張が走った。誰かがあの若い騎士に事実を伝えたのだろう。彼は顔面蒼白で言葉を失っていた。何も知らなかったとはいえ、彼が自分が婚約関係にとどめを刺したと責任を感じなければ良いが。エリノアは責任を追及するつもりもないし、彼に対する処罰も望んでいない。


「そうよ、婚約を破棄すればいいのよ!あっはははは!」


 エリノアは指にはめていた婚約指輪を乱暴に抜いた。その際、自身の爪で肌に引っ掻いた跡が残ったがかまわなかった。そのまますぐ近くから聞こえてくる水の音を頼りにそちらへ足を向けた。小屋から解放されて初めて近くに川があったのかと知った。流れる川のほとりへ近付いて水面をぼうっと眺める。その間、エリノアに声をかけようとする者は誰もいなかった。


「期待した私が馬鹿だったわ」


 ひどく冷たい温度のない低い声。狂った笑い声は一瞬でぴたりと止み、顔から表情が消え失せた。あの日、劇場に置いて行かれたあの時に、彼に期待するのはやめようと自分に誓ったはずなのに。どうしても諦められなくてやっぱり心のどこかで未だ彼に期待を寄せていた。抱きしめて欲しかった。彼の体温を感じてみたかった。みっともなく足掻いて、無意味に感情を引き摺って、そうして得られた結果は残酷な現実と惨めな自分。

 ほんの少し、自分がいなくなったことを心配してくれないかと思っていた。ケガはないかとか、ひどい事をされなかったかとか、彼の意識が自分に少しでも向いてくれるのではないかと淡い期待を抱いていた。けれどそれはいとも簡単に(若い騎士に罪はないが)何も知らない他人によって自分のプライドごとあっけなく打ち砕かれた。


 もう消えてしまいたい。この国で今後生きていくにはもう、私の心はあまりにも疲れてしまった。


 エリノアは指輪を握る手を振りかざした。握っている指輪を川に投げ捨ててしまうつもりだった。指輪は貴族の令嬢にとって婚約者がいるという証だ。しかし川に投げ入れたならその瞬間、エリノアはその証を捨てたこととなり、婚約者がいないと周囲に明言しますと言っているようなもの。それを承知の上で、否、それを望んでエリノアは指輪を川に投げ捨てようとした。

 婚約指輪(こんなもの)に縋るから虚しくなる。婚約関係があるから彼の心が自分に向かないことが寂しくなる。普通の関係を望んでいたから期待をしてしまう。オズワルドのことが好きだから今こんなにも酷く胸が苦しい。婚約の解消は必ず男性側から申し込まなければならない、なんて決まりはない。ならばエリノアから婚約解消を切り出しても良いはずだ。彼女が婚約指輪を捨てることは彼女なりに関係を終わらせる最も早い手段。その証人はこの場にいる騎士団の団員。これだけの人数がいればエリノアが故意に指輪を捨てたことの証明ができる。


「さようならオズワルド様。どうかお幸せに」


 川に向かって指輪を投げ捨てようとした、その時。


「待って。それだけはやめてあげて」


 誰かがエリノアの腕を掴んだ。振り返ると優しそうな顔つきをした青年が、焦ったようにエリノアを見下ろしていた。彼は何度かエイダを通して会ったことがある。彼はロイ・ラナンキュラス。騎士団の副団長でエイダの婚約者。普段物腰が柔らかく落ち着きのある彼がここまで焦っているのを初めて見た。


「ご無沙汰しております、ロイ様。どうか手を離してもらえませんか?」

「悪いけどそれはできないよ」

「何故です?」


 ロイは少し困ったように眉尻を下げ、柔らかく微笑んだ。


「オズワルドが悲しむからだ」

「オズワルド様が?」


 何かの聞き間違えだろう。エリノアは自分の耳を疑った。あのオズワルドが自分のことで悲しむはずがない。ましてや婚約指輪という名の足枷を捨てたところで、彼が何か思うわけがない。


「それはあり得ません」

「どうしてそう思うの?」

「だって彼は、私のことなどどうだって良いじゃないですか」


 エリノアは鼻で笑う。彼女の置かれている状況を。彼女が過去にされてきたことを。今までされてきた仕打ちを考えればオズワルドのことを信用できなくなる理由は充分だった。もちろんロイもそのことは承知の上だ。オズワルドの酷い行いを何度も見てきた。何度もオズワルドを諌めたつもりだった。エリノアが社交界から酷いあだ名で侮辱されていることも、もちろん知っていた。エリノアのこの態度は仕方のないことだと分かっている。けれど。


「もう少しだけ待ってくれないかい?」

「待つ?これ以上ですか?」

「オズワルドを信じられない気持ちは痛いほど分かるよ。けれど彼は今、君を裏切ってダチュラ邸に行っているわけではないんだ」

「……どういう、ことですか?」


 てっきりいつも通りニーナのところへ行っているものだと思っていた。だって今までがそうだったから。今回もそうなのだろうと思い込んでいた。それ以外あり得ないのだと。


「これまで散々私を放置しておいて今更どうやってあの人を待てと仰るのです?」


 ひとつ零した怒りは次々と湧いて出る。それは収まることなくまるで八つ当たりのように荒々しく吐き出された。


「私が社交界で馬鹿にされているのも、今日このような目に遭ったのも、元はオズワルド様が原因でしょう?婚約者がいる身でありながら他の異性と頻繁に会うなど、私を侮辱する以外のなにものでもありません!私を裏切っていない?私が危険な目に遭っているのにニーナ様とふたりで会っているのでしょう?これが何故裏切りでないと言えるのです!私がひとりでも大丈夫だからですか?私のことなどどうでも良いからですか!?」


 吐き終えると指輪を握る手が徐々に力をなくしていった。ロイの手の中からするりと抜け落ち、エリノアはそのまま力無く座り込んだ。


「あの若い騎士の言う通り早く婚約を破棄するべきでした。これほど屈辱的な思いをしたのは初めてよ……」


 弱々しく震える唇から零れたセリフは今にも泣き出しそうだった。じっと手に握っている指輪を眺めてぽつりと呟く。


「どいうして私と婚約なんてしたのかしら」


 自分に心が向かないのなら最初から婚約など申し込まないでほしかった。ずっと前に出会っていた幼馴染が好きならどうして自分に婚約を申し込んだのだろう?宝石のあしらわれた指輪が、まるでエリノアを嘲笑うようにきらきらと月明かりを反射していた。

 その様子を見ていたロイは少しだけ迷った。オズワルドが本当は何を目的にニーナに会っていたか、彼女に告げて良いものか悩んだ。けれどこれ以上彼女が自棄を起こしてしまう方が後に大変だろう。彼女がオズワルドとの婚約の証を捨ててしまえば取り返しのつかないことになりかねない。これはまだ公にできないことだけど、と前置きをして言葉を続けた。


「オズワルドは数時間前にニーナ・ダチュラを貴族殺害及び王都連続誘拐事件幇助の容疑で逮捕したよ」

「……え?」


 少しも想像していなかったことをロイから告げられて、エリノアは思わずびっくりして声を上げた。


「最初はニーナ嬢からオズワルドに『エリノア様が連れ去られる』と連絡があったらしい。けれどすぐその後にリリー家から君が行方不明だって通報が入ったんだ。とっくにダチュラ家を出たと門番に言われたのにまだ帰宅してないって。矛盾してるよね?門番は帰ったと言うのにニーナ嬢は『連れ去られる』なんだから」


 確かにそれだとふたつの証言は矛盾する。エリノアが帰宅した後ならば、「連れ去られる」と現在進行形の言葉を使うのは不自然だ。


「オズワルドはニーナ嬢を疑い、彼女から証拠を炙り出すために敢えて信用している最低限の団員を連れていつものように呼び出しに応えた。彼女を油断させるためにわざと他の部下たちには極秘事項として本来の目的は告げられなかった。伯爵はたったひとりの娘を護るために使用人も相当な手練れを雇っていると、以前オズワルドが言っていたからね。それに伯爵は騎士団に所属していないとはいえ現役の騎士だ。どこで情報がダチュラ家に漏れるかわからなかったから警戒する必要があったんだよ。そうしたら読み通り油断したのかあっさり自分がどのようにしてエリノア嬢を誘拐犯に引き渡したか細かく喋ってくれたそうだよ」

「じゃあ、あの方が言っていたことは……」


 エリノアの言うあの方、とはまだ新人の若い騎士のことを指している。


「あの新人騎士の言ったことは忘れて欲しい。君にとって残酷で許し難いことを言ってしまったのは申し訳なく思う。彼は本当に知らなかったんだ。彼を含め他の団員たちには『オズワルドはいつも通りニーナ嬢のところに行く』って伝えてあるからね。僕は一応忠告したんだよ?婚約者の危機に他の女に現を抜かす最低な男になるよ、ってね」

「本当に、最低な人だと思いました」

「ね?でも彼はその汚名を着てでもエリノア嬢を助けたいと思ったんだよ。彼はそれが最善で最短だと判断したから。事実、彼が直接ニーナ嬢を尋問したから想定よりも早く君を見つけられたんだ。その場に残った部下が言ってたよ。『あんなに恐ろしい団長を見たのは初めてだ』って」


 気が付くとぽろぽろと涙がエリノアの頬を伝っていた。とめどなく溢れるそれは本人の意志とは裏腹に零れていっては着ているドレスを無作法に濡らしていく。オズワルドはニーナに疑いを持って彼女の呼び出しに応じた。いつものように振る舞い、誰にも気付かれないように。長年の付き合いがあり、きっとニーナのことを今まで疑ったことはないだろう。尊敬する師の娘であれば、なおさら。


 信じていた相手を尋問する彼は一体どれほどの苦痛を味わったのだろう。


「オズワルドは今こっちに向かっているよ」


 オズワルドがこちらに向かっている。今までだったらにわかに信じ難い言葉だった。


「……オズワルド様を信じても良いのでしょうか?」

「もちろん、信じてあげて。それから君が抱えていた文句を遠慮なくぶつけなよ。じゃないと彼はとても鈍感で不器用で、どうしようもなく愚かな男だからさ。ちゃんと怒った方が良いと思うよ」


 信じても良いのだろうか?蔑ろにされ、ぞんさいに扱われ、婚約者として扱われなくて。散々酷い目に遭ってきた。彼を信じ、彼に期待するだけ無駄だと何度も思い知らされた。彼を心の底から信じるにはあまりにも疲れてしまった。まだ少し信じるのが怖い。彼に期待するのが怖い。もしオズワルドがこの場に来なかったら?その時は私はどうすればいい?

 戸惑いの表情を浮かべるエリノアを察したのか、ロイは優しい口調で言う。


「今すぐは難しいよね。彼をここで待つのが怖かったら、僕を信じてくれないかい?」

「ロイ様をですか?」

「うん。僕を、と言うよりは『エイダ(君の親友)の婚約者である僕』かな。僕が約束を違えたらエイダからひどく叱られてしまうからね。『わたくしの親友に嘘を言いましたわね?』って」


 ロイの見せるエイダのモノマネが可笑しくてエリノアは少し笑いが零れてしまった。その様子を見たロイもまた安堵の笑みを浮かべる。


「そうですね。エイダのことなら信用できます。ですが……もう一度オズワルド様を信じてみようと思います」

「うん。ありがとう」


 それを聞いたロイは安堵の息を吐いた。自棄を起こし、指輪を捨てることはもうしなさそうだ。

 オズワルドがエリノアに一目惚れし、愛しているからこそ婚約を申し込んだことを、ロイは知っている。そしてオズワルドがあまりにも不器用で、鈍感で、愛情表現が苦手で、それから無意識に逃げていたことも。何度も諌めるタイミングはあった。もっと強く説得するべきだった。ニーナの異常性を指摘するべきだった。今回の一件はロイにとっても過去の自分を悔やむ事件だった。これを罪滅ぼしと言うならあまりにも細やかだ。けれどどうかふたりが前を向いてほしい。そう、切に願う。






 それから数十分後。


「エリノア!エリノアはどこだ!」


 静寂な森の中で息を切らしたオズワルドの声が響いた。

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― 新着の感想 ―
首の皮一枚繋がりましたね。。。 ただオズワルドは自分のせいでエリノアが世間に笑われてることにピンときてない印象受けます。なので、エリノアは今まで抱えたも恨みつらみもとにかくブチまけてください!
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