こんな時にもあなたを想う
エリノアが意識が浮上したのは、なにかに寝かせられた体ががたがたと揺れているからだった。時折大きく跳ねると、その分体も同じように跳ねて固い何かに体がぶつかる。なにか、と正体が分からないのは両目に布のようなものを充てられ視界が遮られているからだ。おまけに両手を後ろに縛られているようで自由に身動きが取れそうにない。幸い足は縛られていないようだが視界が遮られており逃げるには難しいだろう。がたがたと体に伝わる感覚だけを頼りに想像すると、おそらく馬車で移動しているのだろう。荷台に転がされ振動が起きるたびに体が固い床板に打ち付けられる。なかなか乱暴に扱われているなあと他人事のように感じた。
エリノアの最後の記憶はニーナとの茶会だ。彼女から出された紅茶を飲んだ後、激しい眠気に襲われ抗う間もなく意識を手放した。今このような状況に置かれているのもきっと彼女の仕組んだものなのだろう。病弱と聞いていたがどこにそんな行動力があるのだろうか?彼女の計画した罠にまんまと嵌められたのだと理解するには時間がそうかからなかった。彼女は今までのことを謝罪するつもりなど毛頭なく、エリノアを排除することが本当の目的だろう。
どのくらい時間が経ったかは分からないが、馬車が停まったのか振動がぴたりと止んだ。程なくしてがたりと扉らしきものが開かれると乱暴に髪を掴まれ無理矢理荷台から降ろされる。
「おら、着いたぞ」
目隠しを外され、視界の自由を取り戻すとあたりはすっかり陽も落ちて真っ暗になっていた。周りは鬱蒼と生い茂る森で近くに川が流れているのか水の音が聞こえる。目の前にはぽつんと一軒のボロボロの小屋が建っていて、ほこりが舞い、虫やネズミが侵入していそうなその小屋は清潔とは程遠い。固く汚い床へまるでゴミを捨てるかのようにエリノアは放り投げられた。乱暴に体を押され、受け身を取る間もなくどさりと音を立てて床に倒れる。両腕は縛られたままで自由がなく、無防備に肩が床に打ち付けられた。ああ、明日痣になってるかも。なんて呑気な考えが頭に浮かんだ。
自由になった視界で周りを見ると、およそ貴族とは思えないような小汚い身なりで柄の悪い男たち数名がエリノアを取り囲んでいた。品定めするようにじろじろと見る男たちの視線が不快で気持ち悪い。
「誰ですか?」
エリノアがそう尋ねると、男たちは「知らねえのか?」と質問を質問で返された。
「最近女が頻繁に行方不明になるって聞いた事ねえか?」
「聞いた事ないですね」
「俺の情報が間違ってんのか?お前はあの騎士団団長の婚約者だと記憶してるが?」
おそらくこの男は、騎士団団長の婚約者なら大きな事件のことくらい知っていて当たり前だろうと考えているのだろう。だが残念ながらそんな話はオズワルドから聞いていない。彼女の両親や使用人たちは、オズワルドの手紙の件で落ち込んでいるのに、さらに不安にさせるようなことを言うのは憚られた。その優しさゆえに彼女の家のものからも何も伝えられていない。
王都でそのような事件が多発していたのなら、オズワルドはその捜査に忙しかったのかもしれない。今思えば、手紙の返事がなかった理由はそういうことだろうと今更ながら納得できた。
もし、私がいなくなったと知ったらーーー彼は私を探してくれるだろうか?
そんな淡い期待が一瞬頭に浮かんだ。しかしすぐにそれは打ち消される。私は社交界で笑いものの「置いてけぼり令嬢」。
デートをしても置いていかれ、パーティー中だとしても私を置き去りにして可愛い可愛い幼馴染のご令嬢のもとへ。酷いときには私以外の女をエスコートし、手紙の返事すらない。彼にとってエリノアは大切な存在では無い。
犯罪を犯すものにとって王都の治安を維持する騎士団は厄介な存在だ。その団長を相手にするために人質にするのが彼らの狙いだろうとエリノアは最初に考えた。エリノアを人質として、騎士団と有利になる条件で交渉する。犯罪者にとってこれほどといかないカード。しかし取引を交わしたであろうニーナがそのようなことをするだろうか?ニーナがエリノアを排除したい理由はきっとオズワルドにある。オズワルドの婚約者であるエリノアは彼女にとって非常に邪魔で、泥棒で、憎い相手。もしかしたらオズワルドにとってもそうなのかもしれない。
結局、私は邪魔な存在でしかない。私がいなくなればむしろオズワルド様にとってはありがたいことではないでしょうか?私はあの人たちにとって邪魔ものでしょうから。
「あんた、自分がこれからどうなるのか分かってんのか?」
何も言葉を発さず、じっと大人しく床を見つめているエリノアに男は怪訝そうに尋ねた。泣きもせず、暴れもせずただただことの成り行きに身を任せる。その問いにエリノアは視線を少しだけ男に向けてぽつりと零した。エリノアは自分には人質価値はないと思い込んでいる。だから、
「殺す?」
感情のない言葉。たったひとことのソレはあまりにも酷く冷く、この状況に落ち着きを見せるエリノアの態度も相まって男たちは少し背筋がゾッとする感覚を覚えた。
エリノアさえ消えれば婚約は強制的に白紙にされる。行方の分からない人間といつまでも婚約関係を続けるなど合理的ではないからだ。特に公爵家ともなれば跡継ぎの問題も出てくる。邪魔者を排除し、目的の人と婚姻を結ぶ。この誘拐はニーナにとって一石二鳥ともなる策だった。
だからきっと人気のないところで自分を殺すのだろう、との考えに至った。死人となれば発見されても再び婚約関係が戻ることもない。しかし予想に反し男は「いいや」と首を横に振り下卑た笑みを浮かべた。
「あんたを連れ去った後は俺たちの好きにしていいと言われた。オークションに出品するも良し。俺たちの玩具にしても良し。どっちにしても貴族の嬢ちゃんには耐えがたい地獄だろうがな」
ゆっくりと、舐めまわすようにエリノアの全身を見る。ねっとりとした視線が非常に気持ちが悪く、エリノアは不愉快そうに眉間にしわを寄せた。
「あんたみたいな顔の綺麗な嬢ちゃんは使い古しでも人気があるんだ。特に金を持った変態ジジイにな」
「随分と品のない言い方ですね」
男はエリノアの胸ぐらを掴んだ。乱暴に男に顔を引き寄せられ、タバコの煙たい匂いが鼻腔の奥をツンと突く。
「だがやはり高値が付くのは新品だ。俺は部下たちに味見はするなと伝えてあるが、あまり生意気な態度を取ると……その時は止めねえからな」
振り払うようにエリノアをぽいと投げ捨てる。乱暴に床に転ばされ、強く打ったところがズキズキと痛む。男は部下に指示し、エリノアを適当な柱にくくりつけた。念入りに両足まで縛り上げ、エリノアから完全に逃げる術を奪う。
「そこで大人しくしてな。明日お前をオークションに出品する。自分にいくら値が付くか楽しみにしてな」
品のない言葉を言い残し男たちはひとりだけ小屋の中に残して他の全員は出て行った。そのひとりは見張り役だろう。
残された見張り役とエリノアの間に重たい空気が流れる。残された見張り役はニタニタとエリノアを嫌な目で見ており、薄気味悪くそれでいて逃げられそうな隙は無さそうだった。
ひとりぼっち。辛い。心細い。……怖い。
殺されるのではないかと思ってしまう。男は否定したが、彼らがそうしなくてもその売られた先で殺されてしまってもおかしくない。残忍に、残酷に、無慈悲に、残虐に。いずれ来るであろう受け入れ難い未来がたまらなく怖い。
「だれか助けて」
自分の耳に届くか届かないか、それくらいか細く弱々しい声。今頃、きっと家族や家の者は心配している。もう騎士団に捜索願いは出しただろうか?オズワルドの耳にもエリノアの失踪は届いているだろう。エリノアがニーナとお茶をすることは使用人に伝えてあるから、オズワルドはまずニーナに事情を聞くはずだ。けれどきっと彼はニーナの言葉に疑いを持たない。それどころか、彼女の虚偽の供述を鵜呑みにする可能性だってある。ニーナがどのような嘘を吐くかは知らないが、エリノアの捜索に不利になるような偽の情報に違いない。
オズワルドには助けてもらえない。騎士団も助けに来ない。来るわけがない。誰も助けてくれない。
それを自覚した途端、はらりと涙が溢れた。縛られたままの両手は瞼を抑えることができずとめどなく溢れていく。無遠慮に洋服に広がっていくしみを、ただぼうっと眺めるしかできなかった。
「オズワルド様……」
無意識に呼んだ名は薄暗い小屋の中に消えていった。誰に拾われるわけでもなく、誰かの耳に届くこともなく。来ないと諦めていても、来るはずがないと分かっていても。もう彼に期待をしない、彼のために身を引くと決めたはずなのに、今もなお一番に浮かぶ名前はオズワルドだった。いつの日だったか、オズワルドに「ひとりでも問題ないだろう」と言われたことがあった。あの時は自分に「大丈夫」と言い聞かせてなんとか立ち直れた。だって些細なことだったから。けれど今はどうしてか自分を騙せそうにない。ひとりは心細く、怖い。あのリーダー格の男の言ったことが本当なら、明日までに助けが来なければ家に帰るのが更に困難になるだろう。自力で逃げ出したいが足を縛られては小屋から出ることさえ難しい。外の状況がわからないから、尚更。
それからどのくらいの時間が経過しただろう。考えたくない現実と嫌でも訪れてしまう明日から思考を逸らそうとしても、意思とは裏腹に嫌な方へと想像が膨らんでいく。どうして自分がこのような目に遭わなければならないのか。どうして彼らの恋愛に巻き込まれなければならないのか。
私が何をしたと言うの?怒り、絶望、虚しさ、孤独。さまざまな感情が混ざり合ってぐちゃぐちゃになって気持ちが悪い。もう涙さえ流せなくなった。
ふと、外から物音が聞こえてきた。金属のぶつかる音、人の怒号、誰かが走り回る音。それらがエリノアのいる小屋の外からかすかにだが耳を障る。
「なんだ?外が騒がしいな」
見張り役の男も外の物音に気がついたようで眉を顰めて訝しんでいる。この男の反応から察するに、今外で起きていることは彼らにとって想定外のことということだ。男は警戒するように腰に差していた剣に手をかけた。外の音がだんだんとエリノアのいる小屋に近づいてくる。誰かの悲鳴、怒号、金属のぶつかり合う音、それらの激しい音が自身のいる小屋に迫ってくる。その恐怖は得体の知れないナニカに圧力をかけられているようだった。姿形は見えないが心臓を圧迫するような威圧感がエリノアを襲う。
その時。
勢いよく小屋の扉が開かれた。開いた、というよりは破かれた、の方が表現としては正しいだろう。破られた勢いのまま人が二名ほど中に入ってきたように見えた。小屋の中に差す月明かりが侵入者を照らす。彼らは皆、騎士団の紋章の入った鎧を纏っていた。
「チッ騎士団か!話が違うぞあのアマ!」
見張り役の男が吠える。男が何か応戦するわけでもなく、瞬き一つの合間に床にねじ伏せられてしまっていた。エリノアもその光景に呆気にとられ、助けを呼ぶ声を忘れてしまった。ひとりがこちらに振り返り、エリノアの存在を視界に収めると彼はすぐにエリノアの元に駆け寄ってきた。
「あなたがエリノア・リリー嬢ですね」
彼はエリノアにそう尋ねた。声がまだ少し高く、少年のような印象を受けた。彼の問いに「そうです」と短く答える。エリノアの返答を聞くと息をめいいっぱい吸い込み、腹の底から大声を出した。
「副団長!被害者と見られるご令嬢を見つけました!」
その一言で、騎士団が今ここにいるのだと分かった。エリノアを捜索し、エリノアを救出するために。縛られていた縄を切られ再び自由を取り戻した両手両足の感覚を感じながら、ああ、助かったんだと頭がようやく理解に追いついた。助けに来てくれた。来ないと思っていたのに、エリノアを助けるために騎士団が派遣された。小屋の外に出て辺りを見渡す。オズワルドに会いたい。何もかもを諦めてなお彼のことが忘れられなかった。騎士団としての責務でもただの仕事でもなんでもいい。「助けてくれた」という事実に感謝を伝えたかった。
けれど探しても探しても、オズワルドの姿はどこにもない。団長である彼ならばこの場にいるはずなのに。暗いから見つけられないだけなのかと思っていたが、先ほどの騎士の少年はエリノア発見の報告の際に副団長を呼んでいた。
「あの……すみません。オズワルド様はいらっしゃらないのですか?」
エリノアは自分を助けてくれた幼さの残る騎士の目をじっと見据え、婚約者の所在を訊ねた。騎士団団長であるオズワルドが不在でこの場で指揮を取っているのが副団長であることに、嫌な予感で胸がざわついた。
訊ねられた騎士はまだ新人でエリノアがオズワルドの婚約者であることは知らない。だから彼は何の悪気もなく素直に彼が聞いている事実を答えとして話した。
「団長は今、ダチュラ伯爵令嬢のお屋敷です」