歪んだ恋心
いたずらがバレてしまった子供のようにあどけなく笑うニーナは、この状況であまりにも不気味に見えた。彼女の思考の奥底が全く読めずオズワルドは警戒を緩めないまま次の言葉を続ける。
「他にも証拠がある。ダチュラ邸の執事がエリノアをごろつき集団に金銭と一緒に引き渡したと目撃情報があった。これでもニーナ、まだシラを切るつもりか?」
オズワルドはあくまで厳しい声色で尋ねた。一方のニーナは俯きぽつりと「誰にも見られるなと言ったのに」とこぼしたが、あまりにも小さな声はオズワルドには届かなかった。
ここまで詰められてしまえばしょうがない、とニーナは開き直りオズワルドに向き直る。その表情は追い詰められた焦りというよりむしろすっきりと清々しいものだった。
「思ったより早く気付いたのね」
「どういうことだニーナ。俺を騙したのか?」
「騙すなんて酷い言い方ね?私はエリノアからあなたを救ってあげたというのに」
エリノアから救う?一体何の話だ。全く意味と真意の見えないニーナの主張にオズワルドは困惑を隠せなかった。
「救うとはどういうことだ」
オズワルドは聞き返した。オズワルドにはニーナに助けを求める必要性も事柄も一切ないからだ。
「そのままの意味よ。エリノアと婚約解消できないのだったら、私が代わりに消してしまえばいいと思って」
「婚約解消?」
「ええ」
ますます訳が分からなくなった。オズワルドは一度もエリノアとの婚約解消を望んだことが無かったからだ。むしろエリノアと幸せな未来を願っていた。何故、ニーナがそう勘違いしているのか見当がつかない。オズワルドはまず否定をしたかったが、証拠を聞き出すにはもう少しニーナの言い分に乗る必要があると考え、ほんの少しの演技をする。
「そうか。俺が婚約解消できるようにニーナが仕組んでくれたんだな。具体的にどうやったんだ?」
そう、優しく尋ねるとニーナは表情を輝かせた。彼女は次々と信じがたい計画内容を話し始めた。
「王都で誘拐事件が多発していると前に言っていたでしょう?だからエリノアの失踪をその誘拐犯のせいにしてしまえば良いと思ったの!誘拐犯と接触するのは簡単だったわ。私がひとりで人気のないところを歩くだけで向こうから釣れてくれたんだもの」
「そんな危険なことまでしたのか」
「ええ。でもおかげで有意義な取引ができたわ」
ニーナは誘拐犯と接触するためにあえて人気のないところをひとりで歩き、あえて誘拐された。もちろんダチュラ邸の腕の立つ護衛が影からニーナの後をつけ、彼女の身の安全を最低限確保した上でだ。ニーナは連れ去られた先で誘拐犯たちにひとつの取引を持ちかける。
「あなたたちにはエリノア・リリー侯爵令嬢を誘拐して欲しいの。誘拐した後はあなたたちの好きにしていいわ」
もちろん誘拐犯たちは怪訝そうに顔を見合わせた。彼らが少女たちを攫う目的は人身売買や闇オークションへの出品が主だった。そうして金を稼ぎ捕まる前に異国へ拠点を移る。いくつかの国を渡り、何人もの少女を売ってきたが取引を目的にして自ら攫われるような女は今まで見たことが無かった。
「嬢ちゃん。これはお遊びじゃねえんだ。俺たちはタダで動くつもりはねえよ」
「もちろん報酬は用意してるわ」
ニーナは護衛騎士に目配せした。護衛騎士が彼らに差し出したのは金貨100枚。これは人身売買で売り払う少女三人分よりも多い枚数で、屋敷ひと棟が建てられるような金額だ。誘拐犯たちは差し出された金貨の枚数を見て、ニーナのことを相当な金持ちの貴族だと判断した。
(金貨100枚か……普通なら充分すぎる報酬だがもう少し絞れるか?)
毅然とした態度のニーナは、その金貨を惜しいと思っていない。つまり、金貨100枚程度なんてことのない金だと言っているようなものだ。
「俺たちも足が付くわけにはいかねえ。危険な仕事はしたくねえんだ。特に騎士団に捕まるようなことはな。確かエリノア・リリーは騎士団団長の婚約者だと聞いたが……そんな騎士団に近い女を攫うにはあまりにも危険すぎる。たったの金貨100枚はちと少なくねえか?」
その言葉にニーナは口角が少し上げた。「それは前払いよ」と、相変わらず貴賤とした態度を崩さず言うと男は眉間に皺を寄せた。
「エリノアを誘拐してくれればその倍を追加で支払うわ。これでどうかしら?」
合計で金貨300枚は誘拐犯たちにとってあまりにも充分すぎる報酬だった。これだけの金があればしばらく息を潜めて次の国へ移動できる。この国の騎士団からの捜査から逃げるのにそろそろ厳しくなってきたところだった。まさに渡りに船。少々危険を犯すが、それ以上に美味い報酬を逃す方がよっぽど馬鹿な考えだ。
「いいぜ。取引成立だ」
男がそう言うとニーナは柔らかく「ありがとう」と微笑んだ。もし取引が難航すれば通信用魔法具を取り出し「騎士団団長をこの場に呼び出す」と脅すつもりだったが、それも必要なさそうだ。
それから彼女は決行の日と場所、詳細を詰め、茶会という名目でエリノアを誘い出し今に至る。
ニーナはエリノアに対して何をしたのか嬉々として話してくれた。彼女はそれが犯罪であると理解していたが、今まで数々のわがままを聞いてくれたオズワルドなら、今回の件は笑って許してくれるだろうと信じている。もちろん、オズワルドのためを思ってしたことなのだ。きっと彼も喜ぶだろう、と。
対するオズワルドは一連の流れを聞いて込み上げる吐き気を堪えていた。長年、信用していた幼馴染がこのような裏切りをすると思っていなかった。師である偉大なる騎士のひとり娘。そんな彼女が犯罪の片棒を担いでいるとは夢にも思わないだろう。証拠を引き出すつもりではいたが、まさかこれほど酷い内容だとは思いもしなかった。
今の独白が証拠と言って間違いないだろう。オズワルドは密かに騎士団の団員にしか分からない暗号で屋敷を取り囲んでいる団員たちに突入の指示を出した。
「……そうか。ところでニーナ。ひとつ聞きたいことがあるんだが」
「なあに?」
「俺がいつ、エリノアとの婚約を解消したいと言った?」
オズワルドの問いにニーナは少し考える素振りを見せた。ニーナはやがてゆっくりと口を開く。
「無いかなあ?でも、間違いじゃないでしょう?」
少しも悪びれる様子もなく言い放ったそれはオズワルドの脳に衝撃を与えた。彼女の独断が、思い込みが、そして何より自分の不甲斐なさがエリノアを危険に晒してしまったのだと理解した。
オズワルドはゆっくりと息を吸った。それを長く吐き出し心を落ち着け、演技のためにかぶっていた仮面を脱ぎ捨てる。
「ニーナ。俺はエリノアとの婚約を解消したいと思ったことなどない」
オズワルドのはっきりとした声は静かな部屋に反響した。ニーナの両目をしっかりと見据え彼の意思を伝える。しかしニーナはきょとんとした顔を浮かべ、ほんの少し小首を傾げた。それはまるで「何を言っているのか理解できない」とでも言いたげな表情だった。
「どうしてそんな嘘を吐くの?」
「俺は嘘など吐いていない」
きっぱりと違うと否定した。それでもニーナは納得がいかないと嫌々と首を横に振る。
(そんなはずがない。オズワルドは私を好きに違いないのに!どうしてそんな酷い嘘を吐くの?)
ニーナはオズワルドが自分を好いていると信じて疑わなかった。だからエリノアとの婚約はエリノアから無理矢理交わされたもので、オズワルドの望んだものではないと思い込んでいた。だからこそ早く彼をエリノアから解放してあげたい。ニーナにとってはオズワルドを想っての考えだった。
なのにどうして分かってくれないの?
「嘘よ!だってオズワルドはエリノアと無理矢理婚約させられたんでしょう?あなたにとって苦痛なことじゃない!」
声を荒げて言い放つニーナにオズワルドは言葉を失った。苦痛?エリノアとの婚約が?否、違う。エリノアとの婚約を苦痛だと感じたことはない。むしろエリノアと築く未来を心待ちにしていた。ニーナの考えは独りよがりで見当違い、自分勝手も甚だしい。呆れを通り越して怒りが湧いてきた。もちろん、彼女の暴走を止めることができなかった過去の自分にもだ。
「だからあなたを解放しようと思ったの!貴族の婚約破棄は簡単なことじゃないから!あなたのためを思ったのよ?……だから、ね?そんな怖い顔をしないでよ」
いつの間にか表情に怒りが滲み出ていたらしい。ニーナの嗜めるような声がオズワルドの耳に響く。困ったように眉尻を下げるニーナが顔を覗き込み、視界に入るそれが腹立たしいと感じた。
「……お前はそんなくだらないことのためにエリノアを危険に晒しているのか」
「くだらないって何よ!私はオズワルドのためを想って、」
「俺がいつ!エリノアとの婚約が苦痛だと言った!」
オズワルドの怒号が部屋に響く。今まで一度もオズワルドの感情的な姿を見たことが無かったニーナはその怒声に慄いた。びくりと肩を上下に振るわし怯えた目でオズワルドを見つめる。だが彼女にとってはオズワルドのことを想っての行動だ。ここまで怒られる意味が理解できない。ニーナは涙目になって反論する。
「どうしてそんなに怒るのよ!私はあなたがエリノアとの婚約を解消できるように手助けしたのよ!?エリノアに無理矢理させられた婚約なんて、あなたが幸せになれないじゃない!」
「黙れ!」
ニーナの声を遮るように再びオズワルドの怒号が響いた。呆気にとられ今度こそニーナは口をつぐんで押し黙る。
オズワルドとエリノアの婚約はオズワルドがリリー侯爵に頼み込んで交わされたものだ。オズワルドがエリノアのことを密かに慕っていたからこそ、彼自身が望んだ婚約だ。それを他人が好き勝手言うことは非常に腹立たしく、またそれに対し苦痛だ無理矢理だと罵詈雑言言われる筋合いはない。たとえそれが幼馴染だとしても許せるものでは無かった。ましてや愛するエリノアを悪く言い、彼女を陥れようとするなどなおさら。
「俺とエリノアの婚約は無理矢理させられたものじゃない。俺からエリノアに申し込んだんだ」
「……は?」
「俺が惚れたからエリノアと婚約した。お前のその勘違いも甚だしい考えは不愉快だ」
ニーナは彼の言った言葉が信じられなかった。信じられない。信じがたい。信じたくない。ニーナの唇がわなわなと震えた。ありえない、そう脳が拒絶してオズワルドの声が遠く感じる。
「あ、ありえない……どうして?オズワルドは私のことが好きでしょう?私のことが好きなのに、エリノアに騙されて無理矢理婚約したのよ?」
「俺はお前のことを好きだと感じたことはない。お前の看病に通っていたのは、師である伯爵に頼まれた義務感に過ぎない。何度でも言うが俺がエリノアに惚れたからエリノアに婚約を申し込んだんだ」
「やめてよオズワルド……照れ隠しにしても酷いわ。ねえ……」
ニーナの呼びかけにオズワルドは一切応えようとしない。それどころか視線すらも逸らし彼女を避けている。その冷たい雰囲気で全てを悟ったニーナは大声をあげて泣き出した。先ほどの涙が嘘だとはっきり分かるくらい大粒の涙をぽろぽろと溢している。
「どうして!どうしてよ!私はあなたを想っているのに!こんなにも好きなのに!」
「……」
その時、ガチャリと部屋の扉が開く。中に入ってきたのはオズワルドが事前に指示を出していた騎士団の団員たちだった。ぞろぞろと無遠慮に室内に入ってくる団員にニーナは恐れ慄くが、誰も気に留めようとしなかった。団員のひとりがオズワルドの前に立ち敬礼する。
「隊長、ご報告します!屋敷の執事を尋問した結果、罪を認めました。エリノア様に睡眠薬を飲ませた後、例の場所でエリノア様と金貨200枚を渡したそうです」
「そうか、ご苦労だった」
屋敷の使用人を全て捕らえ、残るはニーナただひとり。ニーナを含めこの件に関わった人物全てを容疑者としてこれから尋問が行われる。貴族に対し殺害、もしくは殺害に繋がることを企てることはこの国において重罪だ。それがたとえ未遂に終わったとしても罪が軽くなることは決してない。死刑といかずとも禁錮刑は免れないだろう。
オズワルドと団員二名がニーナの前に立つ。目の前に現れた人影にニーナはぴくりと肩を揺らして反応した。
「ニーナ・ダチュラ。お前を貴族殺害及び王都連続誘拐事件幇助の容疑で逮捕する」
「……いやよ。私は何も悪くないわ。悪いのはオズワルドを唆したエリノアよ」
力無い声色だが、それでもこの後に及んで抵抗する姿勢を見せる。だが彼女はもう罪を自白したようなもので言い逃れはできない状況だった。もちろんオズワルドも幼馴染だからと見逃すつもりは毛頭ない。
「……罪を償え、ニーナ」
「どうして?どうして許してくれないの?オズワルドは私のわがままをいつだって許してくれたじゃない!それと一緒でしょう?」
「お前のそれはわがままの範疇を超えてるんだ。立派な犯罪だよ」
「違うわよ!どうして分かってくれないのよ!」
何を言っても、もはや彼女には無駄なのだろう。彼女の激しい思い込みや妄想は誰にも止めることができない。オズワルドは無理矢理ニーナの両手首に手枷を嵌め、連行するように団員に命じた。連行され、部屋から遠ざかっていく間も必死に何かを叫んでいるようだったが、オズワルドの耳にはもう雑音でしかなかった。
ニーナがこうなってしまったのは自分のせいだ。自分が師の頼みをなあなあにしてきたせいで彼女は真っ当な道から外れてしまった。ニーナに対し好意的な感情はなかった。ただ師へ世話になった恩を返すことだけしか頭になかった。そんなオズワルドの態度が世間を知らないニーナの恋心を暴走させてしまったのだろう。彼女の目には献身的に自分を看護してくれる優しい幼馴染が、恋心を持って会いにきていると映るには充分だったのかもしれない。
全ては自分の曖昧で中途半端な態度が原因だ。自分の不甲斐なさがひとりの令嬢を犯罪の道に踏み外させてしまった。真っ当な道を歩み、いつか心から愛する人と結婚する。彼女に訪れるはずだった平凡で幸せな未来はたった今途絶えたのだ。
ひとり残されたオズワルドはその場に力無くしゃがみ込んだ。弱々しく吐き出される声はしきりに「ごめん」と繰り返している。
「ごめん……エリノア、ニーナ……俺のせいだ……」
大切な人を守れなかった自分も、人の道を踏み外させてしまった自分も憎い。いつだったか、ロイに「婚約者をもっと大切にしろ」と説教されたこともあった。今になって思い出したそれはあまりにも皮肉ではないだろうか。ニーナの看病を屋敷の使用人に早いうちから任せておけば、ニーナは変な勘違いを起こさなかったかもしれない。ニーナからなんと言われようともエリノアを優先していれば、ニーナはもっと別の人に恋心を抱いていたかもしれない。
だがいくら後悔してももう遅い。事は起こってしまい、すでに取り返しのつかないところまで進んでしまった。
「エリノア……どうか無事でいてくれ」
今はただ、エリノアの無事を祈るばかり。