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今までも、これからも

作者: stage

この小説はフィクションです。

 人の不幸は蜜の味、なんて言葉がありますけれども、私は、そんな言葉に共感したことがない、ついぞ純粋な人間でした、ほんの数日前までは。第三者の誰かが誹りを受けようと、殺されようと、私は、都会の下水道に棲みつくドブネズミのように、何らの感情も表出はさせないで、裏でこっそりと、それらの事実に暗澹としてしまうばかりで、ましてや嘲笑などは人間の道理から外れた行為であると、表でやれば社会に殺されてしまう行為であると、そう思っていたのですが、しかし、当事者となると、特に被害者となると、どうやら話は違うようなのです。彼が、裏切者である宇佐美浩介が、つい先日、ナイフで刺殺されたとき、その一報を新聞で見たとき、私の純粋な心は、受態と忍耐による被虐性を喪失させて、すると私の顔つきは、社会で多用されるあの営業上の笑顔、他人を欺くあの笑顔、そこに加えられる少しの悪意、頬の歪み、もう、歴史上の悪女にでもなってしまったかのようでした。それが、憎たらしい。私を悪女にしてしまった彼が憎たらしい。なぜ、私が悪に堕ちなければならないのか。本来、地獄に行くべきは彼だった。彼は私を裏切ったのです。この純粋な心を誑かし、身体を重ね、その情欲的で気持ちのよさを与えてくれる肉体と、蠱惑的な表情すら見せることのできる野性的な男の顔つきで、私を催眠に掛け、私に奉仕させ、その奉仕の具合が彼の表情と態度で点数化され、まるで私は奴隷のよう……そうして、いつしか彼は私に愛想を尽かせて、そうなれば、私という操り人形を、燃える火のゴミの如く、簡単に捨てる。私が求めた愛は畢竟そこにはなかったのです。去っていく時の、彼の背広の後ろ姿は、もう何度も悪い夢に出てきました。ふと玄関のドアを見る時があれば、彼がまた無言でそこから入ってきて、愛を確かめ合うことができる、その幻覚に囚われて、日常生活でついには外に出ることすらできず、ただ彼を待つという日々を送っていました。もう、限界でした。彼への思いが憎しみと化して、殺そうと思うほどだった、その矢先に、彼は死んだ。ナイフで刺されて、痛みを感じながら死んでいった。その犯人も逮捕された。憎むべき相手を失った。復讐ができなかった。私は、この精神的重圧をどこにも発散することができなくなっていたのです。

 彼はこの世から居なくなった。その事実に、ようやく外に出ることができました。1か月振りの外出でした。何も変わってなどいない、そう思っていましたけれども、晩秋を感じさせるような様子でした。背広を着た人がびっしりと横断歩道を往来し、そこに吹く風は季節の変わり目、少し強風、ちょっと前までは蒸し暑かったのに、今では真逆の乾いた冷たさ。枯れ葉が舞って、大通りまで飛ばされて、その焦げ茶色たちが車でまた舞い上がって、それは私の身長の2倍あたりまで高く飛び上がって、そうして奥に見える太陽は橙色に輝いて見えました。向こうの山まで燃えつくしそうな太陽の眩しさに、すっかり白くなった細腕をバイザーのようにして防ぎながら、その眩しさに悪い気はせず、そうかこんなに世間は明るかったんだな、そうしてもうすぐ暗くなるのだな、移り変わりのうら寂しさに感傷していました。

 感傷といえば、私はまた彼のことを思い出してしまいました。それは、冬の夜のことでした。

「何をしているの?」

 ゆったりとした服を着ながら、スマホも本も持たず、ただ窓の外を見ている彼にそう話しかけたことを思い出しました。頬杖をついて、顔の重さをその腕一本でぎりぎり支えていました。目は日の光に照らされて、澄んでいました。もうすぐ、泣きそうでした。感傷的。私はそう感じました。この顔は、私が彼と殆ど内縁(泊まる時の方が少ないのですが)の時、何度か見せました。ぼーっとしているわけではありません。でも、頭を凄まじく回転させて、仕事である証券のことを考えているわけでもなさそうです。まるでこの世の真理、哲学、生きるとは何か、人間とは何か、愛とは何か、そういう命題をそれとなく考え、しかし学術書に頼る程でもない。まさに、感傷的。昭和か平成の初期か、それまで存在していた、何か遠くのものを見つめて、遠くとは比喩的でもあるのですが、そういう目を全く瞬きもせず、口はぴったりと閉じ、鼻筋は綺麗で、頬はほんの少しこけている、そんな男の顔つき。それが月明に照らされて色黒さがほんの少し薄れています。いわゆる畳敷きの部屋だったので、着流しとかを着せてみれば、一端の文豪のようじゃないかしら?何か偉い小説でも書きそうだ、いや、冬だとそれだけじゃ寒いか、そんなことを考えていました。この時の彼が、ようやく素に一番近い気がしました。

 私と愛するときさえも、その情欲に従っているだけで、素というのは見せてくれませんでした。男は、良い所しか見せたがらないのです。本当の愛とは、お互いの、底に沈めさせたくなるほどに見せたくないもの、それすらも掬い上げて、お互いに身体も魂も愛でるべきなのに。そう思っていたら、

「なぁ、静子。」

窓の外を見ながら、彼が私を呼びつけます。

「はい。何でしょう、浩介さん。」

私は、自然と敬語でした。

「お茶を、汲んで来てはくれないか?」

「はい、分かりました。」

 いつものお茶は、スーパーの中では2番目に高い緑茶でした。もう、汲むべき相手が居ないのに、今、私は、いつものスーパーの中に入って、その緑茶を、あの時の彼のように、少し感傷的な顔つきになって、その目は澄んでいて、そうして、緑茶の袋を、かごの中に入れてしまいました。

 そうでした。このお茶を飲むときは、私に対して少し優しさを見せてくれるのでした。そうして私に、小難しいこと、哲学やら歴史やら経済やらそういうものを、教養の広さだけがまるで私と楽しく会話できるものであるかのように、浩介さんは鼻をフンと鳴らして得意げに話して、でも、そうしているときは、ああ話ができる、会話しているんだ、なんて、私は少しのことで有頂天になり、そうして至った天空の、その神様から恵みを与えられたかのような様子であり、正座のままですけれども、身体を小刻みに左右に揺らして、頬は少し上がって、その状態で、彼に取り繕っていました。別に、教養の話じゃなくても、他愛のない会話でも、私にとっては楽しかったのですけれども。でも、もう、騙されません。彼に、どうして恥ずかしげもなく、あんな顔を向けていたのでしょう。ああ、破り捨てたい過去。今となっては、そう思います。



 それから、鮮魚コーナーに向かうと、少しの生臭さが鼻に来ました。久しぶりにお魚でも食べようかしら、景気づけに、そう思っていると、後ろから、男女2人の小学生、背と顔つきから高学年くらいでしょうか、その2人が、何か奇声を上げながら、元気よく走って、私のかごを掠めていきました。そのドタバタにちょっとビックリしていると、

「すみませ~ん!」

と、その子どもらの母親らしき人、赤のロングコートを着込んでいるのが、またまた後ろから、本当に申し訳なさそうに、声を掛けながら歩いてくるのでした。

「いえいえ」

と返答して、その2人を見遣ると、お寿司のコーナーに目をつけて、何を買う?、3パックまでだよね、サーモンが良い!、いや卵だよ!、あと海苔巻きも!、そんな可愛い会話が何らの遠慮もない大きさの声で聞こえてくるのでした。

「もう!」

と、母親は叱ろうとするけれども、子ども達は興奮気味で、聞いてはいないのでした。

「双子ですか?」

「ええ、そうなんです。もう、大変なんですよ、本当に。」

と、母親同士のような会話が始まりました。いや、私が、一介の専業主婦を装っているだけなのですが。

「やっぱり、2人同時は大変そうですよね?年が同じだから、喧嘩もしそうですし……」

「そうそう!そうなんですよ!喧嘩だけじゃないですよ!双子だから好き嫌いも同じだったらいいんですけど、そうじゃないですし、お寿司ぐらいなんです、共通して大好物なのが。夜泣きもそうです。どっちかは必ず泣いちゃってましたし。夫は仕事で忙しくて、帰ってこれない日もあって、でも保育園はなかなか受からなくて。私だけで面倒を見る日が殆どだったんです。遊びも、おむつも、ご飯も。それが同時に2人分なんて、もう……!!それから、もうすぐ、あの2人は……」

 母親のその噴出ぶりは、育児の大変さを物語るには十分でした。この母親を見知らない私だからこそ、ここまで言い切ったのでしょう。あるいは、私の表情・雰囲気の暗さを見て、噂として漏れることを警戒されていないような、そんな感じでした。母親の眉間の皺は少しずつ深く、声も大きくなっていきました。しかし、その表情には、ほんの少しの熱情さがありました。その肝心の子ども達は母親の労苦など目もくれていません。寿司を自分らの最重要課題として、選び続けていました。かく言う私も、数分聞いているだけで相槌を打つだけになり、しまいに意識は過去の方へと流れていってしまうのでした。

 内縁の頃、彼と何度か子どもの話をしたことがあります。いや、話というよりも独り言に終始していた気がします。その時も、スーパーで買ったお寿司を、彼の大好物を2人で食べていました。彼は決まって、海老を最後に残すのでした。

「ねぇ、子どもって、やっぱり可愛いのかな。」

 私は、明らかに浮かれていました。彼と愛し合って、子どもができて、事実上の関係になって、公園で一緒に遊んだりして、その後ソフトクリームとか食べて、昼寝して……。子どもの将来は何になるんだろうな、その為に2人で苦労して、そうすればその辛苦すらも愛に変わって、愛があれば生きる意味はあって……結局、あれはただの理想でした。空虚なものでした。彼は子どもの話になると、適当に頷くか、その季節の話題に逸らすか、あるいは今持っていた茶碗を机の上に、木の音が大きく鳴るようにゴツンと置いて、

「子どもは、まだ早い。大変なんだ、育児は……。」

と子どもだけは要らないと、そういう態度をとります。経験したことがあるかのような物言いでした。こう言われると、もう彼は動きません。その夜は私に優しくしてはくれません。双子など夢のまた夢でした。

 この時の季節は春でした。早生まれの子どもが欲しいなら、この季節は確かに不適切か。まだ見ぬ子どもを盾にして、彼の本当の心の内を、私の肉体だけを欲する情欲を、私は見ないようにしていたのです。それこそ非倫理そのものでした。そして、その日もまた、抱かれました。でも、子どもは作らないように、彼は私の肉体をその1点だけは気遣い、あとは道具そのものでした。私は、フェミニズム思想を持っているわけではありません。それでも、浩介さんから、私だけに、もっと深くて暖かい愛情を、そして、未来を、与えてくれれば……。それだけで、良かったのに。でも、そんなことも、もう、叶いません。

「お母さん!これにする!」

 男の子の声で、私ははっとしました。男の子の声が、浩介さんの声質を幼くしたようなものだったのです。しかし当然、浩介さんではありませんでした。そもそも彼は子供らしい一面を、私に見せてはくれませんでした。

「そう。じゃあ、行くよ。話しすぎちゃったわね。それじゃあ、また。」

「はい、ありがとうございました。」

 この返答で良いんだっけ。そう思っていると、別れ際、

「ばいば~い」

と、双子の子ども達が可愛く手を振ってくれました。それに微笑んで手を振り返します。暖房が弱いのか、はたまた鮮魚コーナーの冷房が強いのか、振るたびに感じる涼しさはまさに晩秋のようでした。もっと、着込めば良かったっけ。部屋の中にずっと居て、外の程度が分からなくなっていました。不健康でした。それに比べて、世の母親は力強い。

 ふと見遣ると、双子の小学生たちは、それが一種の遊戯であるかのように、まだ手を振って歩いていました。2人とも学校帰りの制服で白いシャツ、しかも半袖でした。腕そのものを上に突きあげ、大きく振っているため、シャツの袖は子どもらしく少し捲れているのでした。下は、男の子の方は太腿まで出ている黒の半ズボンで既に寒そうで、女の子の方は膝上の黒の吊りスカートで、確かに丈は男子よりも長いのですが、そもそもスカートですし、動くごとにそれがひらひらと運動してしまっていました。それで、溌剌としているのです。まさに風の子でした。対する私は、どうも、この世と、あるいは人間と、そういうものに対して虚弱な体質でした。思えば、子供の頃から自ら何かを行う力など無かったように思います。

 手の振る勢いを弱めながら、あの憎たらしい彼の、その催眠に掛かった理由の1つが分かった気がしました。彼は、確かにこの世の中で「強い」人間でした。証券会社に勤めて、営業の成績も私に自慢する程でした。浩介さんと共に居れたら、きっと私を守ってくれる……。そのためなら、何だってできる。相思相愛の理想の形式さだけは見事でした。守られる自分を弱い弱いと罵りながら、すると本当に私という存在は小さくなっていきました。

「お金はやる。だから、ここにいて、私が来た時に私の世話をしろ。」

 それで私は俗世から離れさせられました。彼の催眠につけこまれ、彼自身が死んでしまうまで解けなかったのです。そして、小さな存在である私は、年を重ねることによって、彼に簡単に捨てられたのです。

 寿司のパックを2つ手に取りました。そんなにたくさん食べれるわけじゃないのに、自然と2つとっていました。プラスチックの黒色のかごが重くなりました。手首の余裕が少しずつ無くなっていきます。まるで、私の未来のようでした。



 それから、総菜コーナーで何を買おうか迷っていて、すると、2人の老夫婦が、同じく総菜のコーナーに、こちらに向かって来ていました。もう70代の後半ぐらいでしょうが、身なりが良く、頭にはお揃いの黒のハットを身に付けて、普通よりはずっとゆっくりと歩いていました。前が女性、後が男性です。そして男性が、後ろから女性の背中をさすってあげて、転ばぬように気を配り、何としてもこの女性を守り抜く、紳士だか騎士だか、いや日本は武士か、そんな微笑ましい光景でした。声は掛け合っておらず、反ってそれが長年培った阿吽の呼吸を感じさせました。

 その様相に、また、忌々しい男のことを思い出してしまいます。

「老後は、どうやって過ごしましょうか。」

 話しかけるのはいつも私からでした。浩介さんが話しかけてくるのは、寿司を買った時のように、何かお土産を買った時のみ。今では、分かります。そうすれば私の機嫌がとれる、あるいは、その代わりに身体を求めることができる、若しくはもっと貧相な理由で、お土産を買ったということが、私と会話をするきっかけの大事な1つだったのかもしれません。

 その日は蝉の煩く鳴る初夏でした。冷房のきく部屋の中でも、少し動けば、汗がじわっと腕から、脚から、出てきます。彼は団扇以外の身体を動かさず、私は氷入りの麦茶を作っていました。蝉はずっと鳴き、彼は窓の外の新緑の木々たちを恨めしそうに睨んでいます。

「あの木、伐り倒せないかな。」

「無理を言わないでください、私にはそんな力はないですよ。」

「金はやる、だれか雇え。」

「そもそも、伐っていいものなのですか?」

「それは知らん。」

 これが、こんな夫婦が老後まで仲睦まじく、やっていけるものなのでしょうか。彼の、私への遠慮のなさは、何なのでしょうか。もう、老後のことなどどうでもよくなっていました。浩介さんは、何も私に未来を提示してくれないのでした。

 そして、ほんの1か月前。

「もう、ここには来ない」

 実にあっけなく、そう言われてから、彼は2度と家には来ませんでした。扉がぴしゃりと閉じられました。喉に言葉がつっかえて、何も出せませんでした。胸がきゅっと締め付けられて、頭の血が抜けていくような、そんな感覚に襲われました。

 この家をどうするのかさえも彼は言ってはくれませんでした。私は働いたことがありません。社会のことなど分かりません。子供の頃からそうなのです。私は待ち続けるしかないのです。だから、待ちました。何か私に悪い所があったのだろうかと、心の中で反省を繰り返しながら、待ちました。彼は来ません。それでも彼と触れ合った感触を、たまに見せてくれる微笑みを、そしてあの感傷的な表情を、思い出しながら、家を綺麗にして、いつでも待ち続けました。待つことが私の生きる証でした。

 そして、先日の訃報。いや、私にとっては吉報でしょうか。ようやく、私は解放されたのです。彼の催眠が解けたのです。でも、なぜでしょうか。なぜ、彼のことを毎日考えているのでしょうか。あの感傷的な顔つきを、忘れられないのです。思い出さなければ、すっきりするのに。苦しまなくて済むのに。涙を流さず、過ごせるのに……。



 スーパーでの買い物をさっさと済ませて、近くの駅に早足で向かいました。誰にも気づかれないように目元を何度も擦り、すると袖に染みができてしまっていました。

 音が、聞こえます。色んな音でした。一番響くのは、硬い地面を叩く革靴たちの音。そこに、政党か何かが、自分の主張を繰り返す拡声器の音。野次も何もありません。と思えば、赤ん坊の泣き声が上がりました。駅の建物の中で流れるクラシックの音が、途切れ途切れに、恐らくは扉が開く度に、聞こえてきます。

 すると突然、

「あら、宇佐美さん」

としわがれた女性の声が、嬉しそうな音色で聞こえました。

(宇佐美……?)

 私は充血した瞳を、バッと正面に向けました。そこには、先ほどの老夫婦と、それに双子とその母親が居ました。

「数日前、ナイフに刺されて……まぁ、本当に、可哀想に……。」

「はい。でも、大丈夫です。」

 そのとき、一瞬見せた表情が、私には忘れられない顔になりました。母親は、その左頬をほんの一瞬上げ、そして双子の二人をうっとりするような目で見遣ったのです。ほんの一瞬でした。多分、老夫婦は気づいていないでしょう。私は、あの一瞬の表情に、彼女の悪辣さの全てが詰まっているような、悪寒に似た何かを感じました。いや、だけど、おかしい。浩介さんに妻は居ないはずです。婚姻が無いですもの。でもナイフで刺されたということと、宇佐美という苗字。偶然じゃ有り得ない。双子のこの母親が、浩介さんの妻?どういうこと?夕空を羽ばたくカラスの群れの鳴く声が、うるさく胸に響き渡ります。

 するとまた、老夫婦の女性の方が声を掛けました。

「夫は既にどこかに失踪して、頼りの弟さんもつい先日亡くなられて……。本当に、可哀想にね。何かしてあげられることは、ないかしら。」

 その言葉で、1つの結論に辿り着きました。まさか、そんな筈はないでしょう。それじゃあ、あんまりじゃないですか、この双子たちが。そして、浩介さんが。彼は、まさか私に、助けを求めていたのでしょうか。いや、彼が私に求めていたのは、女の身体だけだったはずです。いや、でも、あの感傷的な様子は、何かもの寂しそうだった、それだけは確かです。そう思えば、徐々に浩介さんの、理解してはいけなかった部分を理解してしまったような、そんな感覚を覚えました。

 私は全身から出る嫌な汗に耐え切れず、足を絡ませてへたり込みました。自然と空が見えて、夕日が沈もうとしていました。その赤々とした夕日の感傷を、双子の男の子の方が、全身に受けているのが見えました。女の子の方も赤く染まっては居ました。けれども、男の子は、あの時の浩介さんのように、感傷的な顔つきだったのです。男にしか出せない真剣さのある色気でした。それに少年らしさが加わって、より妖美に見えました。肌もそうでした。半袖から出ている腕は焼けているかのようで、ほっそりとした脚にいたっては、日の光を反射して輝いていました。顔は、まさに幼い浩介さんそのものでした。太陽をほんの少し睨み上げて、対照的にその瞳は今自分の出生の、自分の父母の真実を知っているかのようで、自分とその妹(恐らく)のもう少しで招来される運命を、諦観しているかのようでした。その潤いは決壊すればいつでも涙がでそうになるほどでした。いや、もしかすると、これすらも子どもらしいのかもしれません。でも、あのお寿司の時の子どもらしさは、大人に見せる演技のように思えました。女の子の方は対蹠的で、本当に子どものままで、話をしている大人の周りを、スカートのままスキップなんかしちゃって、まるで、何も知らない私のようでした。あの母親以外には、多分私だけが、このおそらくの、恐怖の真実を知っているのでしょう。そう思うと、口を手で押さえてしまいました。

「じゃあ、またね。2人とも、お母さんのことをよーく聞くんだよ。」

 そうして、老夫婦も宇佐美一家もこの駅から去っていきました。去っていないのは、私だけでした。どうすればいいのか、分からないのです。児童相談所に相談しようか、いやでもまだ推測の域、はやとちりでしょうか?、それに、私と浩介さんの関係もバレてしまう、そうなれば、あの恐ろしい母親は私のことを……。やはりそういう無駄なことを考えるだけで、私には何もできないのです。ただ私は、あの感傷的な相貌を、もう一度見てみたいと、優しい声と手つきで「私」に触れて欲しいと、やはり自分勝手な願いを求めているのでした。私は、甘えたかった。浩介さんは……浩介さんは、どうだったのでしょう……。そのとき、

「あっ!!」

と、舞台上で放つような悲劇的な声を出してしまいました。彼も……彼も、そうだったのでしょうか。誰かに、甘えたかったのでしょうか。

 思えば、寿司を食べた日の翌朝に、彼がまだ寝ていたのですが、私の右腕を目元に付けて抱き着いて、そこは湿っていたような、そんな記憶があります。なぜあんなに感傷的だったのか、なぜ子どもを作ろうとしなかったのか、なぜ未来の話をしようと思わなかったのか、なぜあんなにぶっきらぼうな数少ない物言いだったのか……でも、それは「飽きる」という感情からくるものではなくて、寧ろ熟年の夫婦のようなやり取りで……。

 とてつもない悔恨に、手の震えが止まりませんでした。「浩介さんはただ甘えたかったのではないか、愛されたかったのではないか」この言葉が、私の脳内に満たされていきます。畜生な妻ではない誰かを、女の肉体を、あるいは地獄と化した家庭、そこにはない自由を、求めたのではないでしょうか。誰かに、愛されたかった。誰でも良かったのかもしれません。それでも、私という都合のいい存在に、逆に言えば、私以外には甘えられなくて……。あのぶっきらぼうな物言い、何度も重ねてくる肉体、熱を探すような手つき、そしてあの感傷的な表情……。私は、ただただ愚かな錯誤を起こしていた、それだけだったのです。

 すると、悲しみよりも寧ろ怒りが湧いてきました。王に請願するような、切迫した怒りでした。なんで……なんで!なんで!!なんで、言ってくれなかったのですか!?そんなことなら、いくらでも、いくらでも、いくらでも、あなたに、あなたのために尽くしてあげたのに!何でもしてあげたのに!!お願いです!もう一度奉仕をさせてください!!あなたが得た苦しみなんて、この世の人間の何万分の、何億分のものなんです。それを少しでも癒してあげたいんです。いくらでも優しくします。お願いです、お願いです、お願いします。私は、何もできないけれど、あなたの好きなお茶の銘柄を知っています。あなたの好きなお寿司のネタを知っています。それ以外の料理もたくさん覚えましたし、あなたとちゃんと会話するために、最近になって小難しい哲学の本を買ったんです。あなたが居なくなってから、待っている間、ずっと。あなたに、ちょっと誇らしげな顔をしてほしいんです。ちょっとぶっきらぼうに、お茶を求めてきてほしいんです。お金なんて要りません。無料で大サービスしてあげます。どういう愛で方がいいのか、どういう抱きしめ方がいいのか、私は知っています。そしてそれは、おそらく、私しかやってあげられないんです。この世で、私しか。一緒に死のうと言ってくれたら、喜んで死にましょう。だから、お願いです、神様。彼はずっと苦しんでいたんです。私がもっと撫でて、さすって、優しい言葉をかけて、泣きじゃくる彼をずっと抱きしめて、ずっと愛して、愛して、愛してあげて、彼の感傷がちょっとは改善されて、そうしてから、彼を迎えにきてはくれませんか。お願いします……どうか……神様……。



 私がずっと座り込んでいると、すっかり夜になっていました。周りを見れば、薄汚いホームレスが乞食をしていました。年端も行かない少女が、身なりのいいおじさんと恋人同士の手繋ぎで歩いていました。宗教的か政治的かよく分からない1つの不可思議な集団とそれに属する者達が、自分達の思想が書かれた紙を道行く人に配っていました。ともすれば泥酔する者、歩きながら喫煙する者、そうでなくて、ちゃんと規則を守って帰ってゆくサラリーマンや学生も居ました。人の根源にあるものは、欲望でしょうか、依存でしょうか、それとも純粋な愛でしょうか。私は、浩介さんに会って、愛し合って、だから労働とか、そういうこの社会における生産的なこと、そういうことは何もできなかったけれども、「私」という存在はその時点で、彼らの中の、あるいは世界の中の「誰か」ではないんです。ずっと、重く伸し掛かる悔恨が苦しいけれども、彼と出会って築かれた、この特別感だけ、これだけで幸福なのです。今までも、これからも。

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