D事件
椅子の背が壊れるかと心配になるぐらい握りしめる刹那。純子はため息をつき、一つのファイルを開く。それには「D事件」とラベリングされていた。
「悪名高きD事件の主犯とされるデッドリーパー。あいつを倒すのは君でも一筋縄ではいかないと思う。でも、君の境遇を考えると、どうしてもというのは分からないでもない」
当時の報道記事のような公開されているものはもちろん。どこから手に入れたのか、凄惨な現場写真までもが収められていた。
その写真は常人であればすぐさま目を背けたくなる代物だった。だが、刹那は釘付けになっていた。なぜなら、彼女はその事件の当事者であるからだ。
央間市連続殺傷事件。通称D事件。国内史上最悪の死者七十七人、負傷者百二人を出した大惨事と記録されている。だが、特筆すべきは、実行犯がただ一人であったこと。そして、そいつはただの人間ではなかったことである。
事の起こりは六年前に遡る。休日の昼下がり、県内有数の繁華街である央間市の駅前通りを四人の家族が歩いていた。両親と二人の姉妹という構成。その姉妹のうちの一人は、幼いながらも勝気な印象を与える凛々しい顔立ちだった。彼女こそ、中学に入ったばかりの頃の刹那である。
彼女の入学祝いという名目で、ファミレスで食事をした帰りだった。央間市内に住んでいることもあり、この通りは度々買い物に訪れる。それでも、家族総出でのお出かけは稀だ。刹那が自然と浮足立つのも無理からぬことだろう。
「刹那、はしゃぎすぎて転ぶんじゃないわよ」
「もう小学生じゃないんだから、そんなドジはしないよ、明日香お姉ちゃん」
明日香と呼ばれた少女はやれやれと肩をすくめる。姉妹だけあり、容姿は刹那そっくりだ。現在の刹那の生き写しと言っても過言ではない。ただ、体格は刹那とマシュを足して二で割ったかのようであり、主に胸のせいか柔和な雰囲気がある。
この後は、しばらく通り沿いに歩いたところにあるショッピングセンターで買い物をする予定だ。前から欲しかった服やアクセサリーを買ってもらおう。刹那はそんな算段を立てていた。
だが、思惑はあまりに予想外な形で瓦解することとなる。進行方向先からけたたましい悲鳴が聞こえてきたのだ。恐慌を顕わにしながら、人々が逆方向になだれ込んでくる。
突然の出来事に刹那は理解が追い付かず、その場でじっと留まっていた。我に返ったのは、遠方で迸った血しぶきを目にしてからだ。それでも、人間が人形のように力なく崩れ落ちる様は、到底現実のものとは思えなかった。
悲鳴をかきわけ、一人の少女がゆっくりと歩いてくる。赤く染まった大鎌を肩に預け、黒い外套のフード部分を開け放っている。必死に命乞いをしていた男性を蹴り飛ばすと、躊躇なく大鎌で一刀両断にした。
白昼夢の中にでもいるのだろうか。人々が抵抗する間もなく倒されていく。おまけに、犯人と思われる少女は笑っているのだ。ゲームの主人公になって悪党を討伐しているつもりだろうか。
「建物の中に隠れるんだ」
父親が声を張り上げる。次の瞬間、強い力で引っ張られた。明日香が無理やり近くの古着屋へと連れ込んだのだ。
「お父さん! お父さん!」
刹那は必死で呼びかける。だが、その声は突如として詰まる。父親の目前で例の少女が大鎌を振り上げていたのだ。
絶え間なく耳に入る絶叫。空気の流れに混じる血の臭い。古着屋の隅で早く悪夢が過ぎないかとじっと祈った。しかし、災厄は何を思ったのだろうか。刹那が隠れた古着店へと足を踏み入れて来たのだ。
「逃げなさい、早く」
それが最後に聞いた母親の声だった。その姿はついぞ見ることができなかった。できたとしても、とても直視できるようなものではなかっただろう。明日香に引きずられるようにして、店内の更に奥へと避難する。
陳列されている上着やらパンツやらがズタズタに引き裂かれていく。
「獲物の臭いがするなぁ。分かってんだぞぉ、そこにいるのはぁ」
初めて聞いた犯人の声だった。いや、「人」と言っていいものか。同じく避難してきた女性を瞬時に肉塊に変えたその所業はまさしく「死神」だった。
明日香はできるだけ進行を防ごうと陳列棚をなぎ倒しながら進んでいた。それでも限界が訪れる。店内最奥の壁へと到達してしまい、おまけに扉や窓もない。文字通りの袋小路だ。
「みぃつけたぁ」
大鎌が一振りされる。その一撃で刹那たちの防御壁となっていた呉服類がズタ切れになった。返り血により赤黒く染まった外套をそのままに、死神はニタリと口角を上げる。
「お願い、助けて」
明日香が震える声で懇願する。しかし、死神は明日香の胸倉をつかむと高々と持ち上げた。
「刹那、逃げて」
足をばたつかせながら、必死に脱出を試みる。明日香と同じくらいの年頃の少女なのに、ありえない膂力だ。第一、片手で同年代の少女を持ち上げているという時点でおかしい。
逃げろと指示されたものの、刹那は動けずにいた。実の姉の首に鎌が迫る。あまりに現実離れした出来事に、その一帯の時間が停止しているかのようだった。そうだ、周囲の時間が止まっているのだ。だから、動けなくても仕方ない。
そんな益体のない責任転嫁でもしなくては正気を保ってはいられなかった。
「なんで、こんなこと、するの」
か細くなっていく声で明日香が尋ねる。死神は大口を開き、犬歯を覗かせる。
「人間はぁ、皆殺しにするぅ。そう決めてんだぁ。でもなぁ、どうせならぁ、楽しく殺さないとなぁ」
笑っている。狂っている。若干十数年しか生きていないが、これまでの人間の常識が一切通じない相手と瞬時に悟った。
「放して」
どうしてこんな行動を取ったのか、今でも刹那は分からずにいる。両腕どころか、全身を震わせながらも、割れ散っていたガラス片を握り、死神へと切っ先を向けていたのだ。
死神はうざそうに視線を落とす。ちっぽけな少女が涙を流しながら、自らに刃を向けている。強く握りしめているのか、両手からは絶え間なく鮮血が流れ出していた。
突如、死神は豪快に笑い飛ばす。ビクついた刹那だったが、それでもガラス片を手放すことはなかった。
「おめぇみてぇなやつは初めてだぁ。大抵の人間はあたいを目にするや逃げるぅ、命乞いをするぅ、喚き叫ぶぅ。だが、歯向かってきたのはおめぇぐらいなもんだぁ」
明日香を片腕で持ち上げたまま、死神は刹那に迫って来た。鼻先に直に息がかかる。少し腕を伸ばせば、そのままガラス片で胸を突き刺せそうだった。しかし、そんな簡単な所作すらできない。死神もそのことを看破して接近したのだろう。
「おめぇは後のお楽しみにとっておいた方が面白そうだなぁ。うん、そうしよぅ」
勝手に納得するや、すたすたと離れていく。助かった、のか。
「それはそれとして、こいつは殺すけどなぁ」
「刹那……」
「お姉ちゃん!」
最後に姉を呼びかけたことまでは覚えている。しかし、その瞬間からしばらく、刹那の記憶はポッカリと抜け落ちていた。




