第一章 少年期事件編 ⑦
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意に反して、ドアはあっさりと開いてしまった。そのせいで一瞬、戸惑ってしまった。しかし、ここで躊躇してもしょうがない。意を決して、ドアを開ききり、足を踏み出した。
後悔した。
普通に男性が座っていた。
彼も驚いた様子で、慌てていた。
目が合ってしまった瞬間、一目散に窓をめがけて走り出した。
そこで、ふと我に返ってしまった。
刹那の間にいろいろなことを考えてしまった。知っている人に似ている。でも、気のせいかもしれない。それより、なぜ、昼に家にいるのか。休みなのか。
失念していた。
誘拐された日が金曜日だったなら、今日は土曜日だ。二日寝ていたとしても、日曜日だ。いずれにしても、休みだ。タイミングが悪かった。ミスだ。至らなかった。
それよりも、あの人は_。
そこで、腕をつかまれてしまった。テーブルの階段まであと一歩というところで。家自体が大きくないということもあるが、それを差し引いても、やはり、女子小学生と成人男性では身体能力が違いすぎる。二つ目のミスだ。何がプランだ。全く思考が至っていない。
動揺と緊張。
おそるおそる振り返ってみる。
やはりだ。
確信に変わった。
知っている人だった。それもよく。
「佐藤先生・・・?」
二の句は告げなかった。確信してはいても、名前を疑問調で聞いてしまうあたり、自分でも信じられないのだろう。
逃げようという気はとっくに無くなっていた。先生の握力で到底逃げ果せるとも思えないが。
先生も無言のまま、私を見つめるばかり。どうしたらよいのかなど、誰にもわかるはずもなく、ただただ、気まずい時間が流れていた。
このような場面ではよく、「何時間経過しただろうか。あるいはそれほど経過していないのかもしれない。」というような表現が使われるが、実際に経験してみてどうだろう。確かに、耐え難い時間を長く感じるが、感じるというだけだ。おそらくは数秒程度に過ぎないだろう。
重々しい空気にも少しは慣れ、もう一度口を開いた。
「佐藤先生」
返事はなかった。
誘拐した犯人が知った顔だなんて思いもしなかった。知らない人だったなら、もっと必死で抵抗しただろうし、怖かっただろう。
今は恐怖よりも疑問の方が感情の大部分を占めている。ひょっとしたら、誘拐ではないのかもしれない。でも、連れ去れたのは覚えている。あるいは、連れ去られた後、先生が助けてくれたのかもしれない。
いや、そんなはずはない。
ロープで縛られていたのだから。
心にゆとりが出て、考えれば考えるほどに、先生への懐疑心は強くっていく。
そうすると、どうだろう。
最初は犯人に対して恐怖を抱いた。犯人が知人と知ると疑問という感情が上回ったが、知人=悪意を持った犯人と理解ると、当初の恐怖よりもさらに大きな恐怖が押し寄せてくる。
知らない人が犯人だったなら、どれだけよかったことだろう。恐怖と不安だけで済んだのに。
知っている人が連れ去った犯人というのは、ただの恐怖ではない。この途轍もなく気持ちの悪い恐怖によって、胃の中のものをすべて吐き出してしまいそうになる。幸いということは決してないが、すでに一日近く何も口にしていないため、吐き出すものなど何もなかった。普段であれば空腹を感じるはずだ。空腹を感じる余裕などあるはずもなく、ただただ気持ちの悪い嫌悪感によって、眩暈がし、そして、ゆっくりと視界が暗くなっていった。