第一章 少年期事件編 ⑩
「手錠を外して」
一秒以上の沈黙の後、
「無理だ」
しごく当たり前の返答だった。
にもかかわらず、即答ではなかった。かなりのタイムラグがあったのは、単純に驚いたからだろう。
豆鉄砲を食らった鳩はいったいどんな顔をするのだろうか。鳥類の表情など全く見分けられる気はしない。
でも、先生は確実に鉄砲を向けられたくらい、私の言葉に驚いていた。
朝のやり取りからおよそ二時間くらいして、やっとの言葉のやり取り。
二言目。
あまり言いたくはなかったけれど。あまりというか普通に言いたくなかったけれど。それでも_
トイレには行かせてもらえた。
まぁ行かしてもらえなかったら、二人ともに不利益しかないわけだし。
「いつまでここにいなければならないの?」
またしても、一秒以上の沈黙
今度は私の言葉に驚いたのではない。考え込んでいる。
その時点で察しという感じだが、
「分からない」
と察した通りの答えが返ってきた。「分からない」だけでは、それが目的遂行までの有期期限が分からないのか、これからどうするか全くの無期限なのか、本当に何一つ分からなかった。
「私は帰れるの?」
「分からない」
今度は即答だった。
煮え切らない返答。声はさっきよりも小さくなってきている。
「じゃー帰して」
「無理だ」
即答どころか、食い気味だった。
もっとも、帰してもらえるだなんて1ミリも思ってはいなかったけれど。
埒が明かない。
慣れとは不思議なもので、まともな思考を取り戻しつつあった私は意を決して、誘拐の目的を尋ねることにした。
誘拐の目的を知ることができれば、身の安否を、解放の期限を、いろいろと推察することができる。世の中には知って後悔するということがたくさん存在する。今、知ろうとしていることも、その例から漏れないかもしれない。後悔するかもしれない。それでも、聞いて後悔するのと、聞かないでこの悠久のような時間を過ごし続けるのとどちらが良い選択だろうか。答えは決まっている。死刑囚が何に苦悩しているのかと同じだ。彼らは死刑宣告を受けているにもかかわらず、それがいつ実行されるのかは知らないまま日々を送っている。毎朝起きるたびに恐怖するし、看守の足音を聞くたびに、今日か今日かと恐れ慄く。執行日を知ってしまえば、最初こそ絶望するかもしれないが、そのあとは安らかな日を送れるに違いない。腹はくくった。後悔したとしても、絶望したとしても最初だけだ。そのあとのことは、またその時に考えればいい。
その言葉を聞くのは本日3度目だった。ひょっとすると、人生で一番多く聞いた言葉ではないかと錯覚するくらい、よく知った、聞き慣れてしまった言葉だった。
後悔しなかったし、絶望もしなかった。
でも、できれば、後悔したり、絶望したほうが良かったかもしれない。
誘拐の目的は
「分からない」
らしい。
意味が分からかった。
では、なぜ、私はこんなところにいて、ロープで縛られて、手錠で繋がれて、食事を決められて、排泄の許可を取って、いやな思いをして、恐怖を抱かなければならないのだろうか。
通り魔殺人や無差別殺人があるように、通り魔誘拐や無差別監禁があってもいいのか。動機なき事件。
「分からない」のあとの言葉を、言い訳を続けているようにも見えるが、もう、そんなものは全く耳に入ってこなかった。
頬に触れる感覚としょっぱいものを舐めて、どうやら泣いているらしいことに気が付いた。
ここまで、決して泣かなかったのに。たったその5文字で5音の言葉で、張りつめていた糸が切れてしまったようで、急に涙が止まらなくなってしまった。
誘拐された時よりも、起きたら監禁されていた時よりも、先生が犯人と知った時の気持ちの悪い恐怖よりも、何よりも怖かった。
まるで、自分は人生ゲームで直方体に刺さるピンクの棒なのか、あるいは、道端で踏まれたことにすら気づかれない蟻なのか、はたまた、バトル漫画に登場する顔すら描かれることのない敵の一人なのか。自分の生きている理由を見失うほどに、人間としての存在を根底から覆されたように思えた。
本当になぜここにいるのだろう。なぜ私だったのだろう。なぜ、生きているだろう。なぜ。




