おひとりさまデートの幽霊
彁からアプローチが来たのは、マッチングアプリを始めて半年経った頃だった。
彼女のユーザーネーム「彁」の読み方は分からない。アイコンは白一色。住んでいる県は俺と同じ。年齢は二歳上の33歳。
プロフィール文には、「申し訳ありませんが、お会いする事はできません」とだけ書かれている。
初めて女性からアプローチが来たので悪い気はしないが、こんなアプリに登録しておいて「会う事はできません」とはどういう事だろう。
いきなりデートを持ちかけて来る男性を牽制しているという事だろうか?
……分からない。ただのスパムアカウントかも知れない。
『初めまして。いいねありがとうございます。よろしくおねがいします』
定型メッセージでお茶を濁し、様子を見ることにした。
すぐに返信が来る。
『たかしさん。こちらこそありがとうございます。よろしくお願いします』
……定型で返されてしまった。
いよいよ怪しさに拍車が掛かって来るが、今メッセージが続いている相手は他にいない。
迷ったが、話を続けてみる事にした。
『彁さんですよね。なんと読むのですか?』
『決めていません。必要が無いので』
……必要が無い?
『もし会って話すことになったら、ちょっと呼びにくいですね』
『ごめんなさい。私はどなたとも会うつもりはありません』
どうやら「会う事はできません」というプロフィールの文言は、そのまま受け取って良かったようだ。
……ただの嫌がらせか、あるいは変わった人なのか。
俺の中での彼女は、パートナー候補というより単純な興味の対象になりつつあった。
張りつめていた緊張がほどけ、フリック操作を行う指にも迷いが無くなって来る。
『誰とも会うつもりが無いなら、なぜこんなアプリを?』
『男性と交際したいとは思っています』
『会わずに交際するのですか?』
『はい』
思わず苦笑が零れてしまう。
しかし、凡庸とは対極にあるような特殊な関係は魅力的にも思えた。
『私は容姿に自信ありませんし、男性と話すのも苦手なんです。それに一人が好きなんです』
『俺も一人は好きな方ですね。休みの日は一人で散歩したり、個人経営のカフェを巡ったりしています』
『一人だと気まぐれで何をやっても自由ですし、帰りたい時に帰っていいので気が楽ですよね』
『すごく分かります』
『今お時間ありますか? もしよかったら、もっと色々とお話ししたいです』
『大丈夫です。話しましょう』
会話は流れるように続いていった。
……今まで俺は、女性の気を引くために自分を偽ってばかりだった。
常に気を貼っていて、楽しむ余裕などありはしなかった。
しかし、彁とは自然体のまま会話を続ける事ができている。
浮ついたような心地よさのままに。
どうやら俺は、彼女に純粋な好意を抱きつつあるようだ。
◇
彁との初めての会話から、一週間が過ぎた。
『たかしさんとメッセージしていると、とても心が安らぐんです』
『俺もです。ずっと話していたいくらいです』
『嬉しいです。明日も沢山お話ししましょう』
俺の彁への好意は、日増しに高まって行く。
彼女は彼女で、俺を憎からず思っているようだ。
彼女のユーザーネームである「彁」は……JISコードに入っているが、どこにも使われた形跡が無い用途不明の漢字、幽霊文字の一つから付けたそうだ。
典拠不明な事もあって、読みは定まっていない。
なるほど、「彁」という音の無い名前は、声に出して呼ぶ必要が無い彼女には相応しい、と言えるかもしれない。
土曜日の朝。
俺は目を閉じて、「彁」という文字をぼんやり頭に思い浮かべてみる。
どこか不思議な、それでいて女性らしい温かい優しさに全身を包み込まれるようだった。
揺れ動く昂りもあった。
苦しいような、心地いいような、純真な昂りだった。
なるほど、これが恋という物なのかもしれない。
初めての感覚に漂っていると、スマホが小さく揺れた。
『会わずにデートする事って、できませんかね』
……会わずにデート?
『どうやってですか?』
『例えば同じカフェに入れ違いで行くとか』
『なるほど。でもそれって、デートと言っていいのでしょうか?』
『私達にとってデートならそれでいいじゃないですか』
『そうですね。いうなれば、おひとりさまデートといった所でしょうか』
『おひとりさまデートですか。特別な感じのする、いい響きですね』
そして俺は流れのままに、彁を「おひとりさまデート」に誘ってみた。
彼女は快諾し、計画はとんとん拍子に進んで行った。
時は週末。所は彁の行きつけのカフェ。
俺は彼女と「入れ違う」事となった。
◇
週末。
道行く女性が彁でないか気が気でなかった俺は、帽子を目深に俯きながら約束のカフェに向かった。
黒い木材の扉を開くと、転がるような鈴の音が鳴る。
薄暗く小ざっぱりした店内に客の姿は無い。彁は手筈通り「入れ違って」くれたようだ。
「いらっしゃいませ」
呟くような壮年男性の声。
彼の白髪交じりの髪と落ち着いた鋭い瞳は、狼を思わせた。
「おひとりさまですか」
「はい」
いつもどおり軽く頷いた。
促されるままにカウンター席の最奥……彼女が座ったのと同じ席に腰を下ろした。
口から息を吹き上げ、出されたコップの冷たい水を少しだけ飲んだ。
小さくテンポよく流れる女性ボーカルのボサノバ。鼻腔を擽る甘く苦いコーヒーの香り。
薄黄色のブナを基調とした内装からは、変に気取っていない落ち着いた印象を受ける。
中々に良い雰囲気の店だ。
店内を見回しながらも、彁がこの席にほんの1時間前まで座っていたことを思い出す。
会った事も無いが、彼女はきっと俺に好意を抱いてくれている。
俺はそんな彼女と、時間こそ異なれ同じ場所を共有している。
不思議な感慨だった。
ゆったり浸りながらスマホを取り出し、彼女にメッセージを送った。
『今、カフェに入りました。とてもいい店です』
『良かった。お勧めはエスプレッソですよ』
『じゃあそれにします』
エスプレッソを注文する。やがてエスプレッソマシンの駆動音が店内に響き出した。
エスプレッソを頼むと嫌でも聴かされる事になる、落ち着いた雰囲気に似合わない無機質な音。
あまり好きではないが、彼女のお勧めを注文してみたい気持ちが勝った。
そして音が鳴りやむ。
主人が運んできたカップには、優しいブラウンのきめ細やかな泡が渦巻いていた。
軽く砂糖を入れて、カップを傾ける。
濃厚な苦みと、優しい甘みが口の中に広がって行く。
後味は爽やかな果実味。浅煎り豆を使っているのだろうか。
ゆったりと流れる時間を感じながら、カップに少しずつ砂糖を注いでいく。
そして思い出したようにスマホを開いた。
彼女からメッセージが来ている。
『今日は来てくれてありがとうございます』
『こちらこそありがとうございます。とてもいい店です』
『よかった。あの……デートするのは初めてなので、変な事言っちゃったらごめんなさい』
『あまり気負わないでください。俺も初めてなので』
『そうだったんですか。じゃあ一緒ですね』
彼女の柔らかな言葉に揺られながらも、少しだけ不安が首をもたげて来る。
『おひとりさまデートって、こんな感じでいいんでしょうか?』
『いいんじゃないでしょうか。変な感じですけど、とても楽しいです』
『良かった。俺も楽しいです』
『私達って、やっぱり価値観が合うみたいですね」
『そうですね』
そうだ。俺も彼女も孤独を愛している。きっと普通の恋愛は向いていない。
こうしてメッセージで言葉を交わし合ったり、おひとりさまのままに奇妙な逢瀬を重ねる方が性に合っている。
……会えなくてもいい。彁と心を分かち合いたい。交際したい。心からそう思えた。
『彁さんは今どこにいるんですか?』
『心はあなたと共にあります』
はぐらかされたようで少しだけ彁との間に壁を感じてしまったが、気のせいだと思う事にした。
『詩的でいい表現ですね』
『ありがとうございます』
『彁さん。またこうしてデートしてくれますか?』
『もちろんです。いつでも誘ってください』
やはり彁は俺に好意を抱いている。それは間違いない。
ならば今交際を申し込んでも、受け入れて貰えるのでは?
一度デートしただけでまだ早いかもしれない。
それでも、行ける気がしてならない。初めて感じるような得体の知れない勇気が沸いてくる。
行ける。……きっと、行ける筈だ。
『あなたが好きです』
そんなシンプルでありきたりな言葉を彼女に送ろうとして、指が止まった。
この想いだけは、どうしても直接声で伝えたかった。
『彁さん。デートが終わったら、電話しましょう。あなたの声が聴きたいんです』
しばらく間を置いて、返信が来た。
『ごめんなさい』
――しまった。失態だった。
誰とも対面したくないのと同様に、彼女は声のコミュニケーションを避けている。
だからこそ「彁」という音の無い名前を名乗っていたのだ。
俺は勝手に舞い上がって、その事を完全に忘れ去ってしまっていた。
縋る思いで言い訳を探していると、
『もうあなたとお話する事はありません』
頭が真白になって行った。
ずっと傍にいた彼女が、彼方まで遠のいていく。
辛うじて理解できたのはすべてが終わったことだけだった。
『もうあなたとお話する事はありません』
また画面を睨んで、頭を抱えて俯いた。
それしか出来なかった。
やはり、終わったんだ。
こんな一瞬で。たった一言で。何もかもが終わった。
やがて、哀しみと同時に諦観も滲んでくる。
俺は彁と価値観を共有していると思っていたが、それは間違いだったのだ。
彼女と違って俺は物質的な、現実的な恋愛から脱する事が出来ていなかった。
声だけならば物質ではないと言えば、言い訳にはなるかもしれない。
しかし、声を聞いたら次は姿を見たくなるかもしれない。そして姿を見れば、やがては愛欲すら抱くようになる筈だ。
そんな凡庸な恋愛の発端を、「声が聴きたい」という俺のたった一言で彼女は鋭く見抜いてしまったのだ。
さらに言えば、俺は今孤独の底にあるが、彁はきっと孤独を感じていない。
彼女は今、孤独を愛しているフリをしていただけのつまらない俺という男に対して、散々に呆れ返っている事だろう。
初めから彁と俺は、相容れなかったのだ。
俺はカップの底に淀んだ赤褐色の液体をじっと見つめながら、申し訳なくて悔しくて恥ずかしくて、何より一人放り出された孤独に苛まれ続けた。
そして、逃げるように店を後にした。
一体どうすればいいんだろう。俺のように中途半端に孤独を愛してしまった人間は。
どうしようもないではないか。
彁。そもそも君は本当に孤高なのか。強がっているだけではないのか。
本当に一人が好きなら、交際相手なんて求めない筈ではないか。
何故俺だけを突き放す。
こんな事になるなら、最初から出会わなければ良かった。
君の方からメッセージを送って来たんじゃないか。
いきなり突き放す事ないだろ。もっと言葉があった筈じゃないか。
いや……駄目だ。俺は最低だ。彼女に当たっているだけじゃないか。
もうダメだ。何も考えたくない。
重い頭を、定まらない思考が巡って行く。
ゆっくりと当てもなく彷徨い続けて、3時間程経っただろうか。俺はある妄想をもってして失恋の整理を付けようとしていた。
それは「彁の正体は、恋愛を知らず命を落とし、強い未練を残した幽霊だった」という突飛な妄想であった。
なるほど。肉体が無ければ会えないのも話せないのも合点がいくではないか。
彁は俺に声を求められて深く傷つき、同時に儚い恋の終わりを悟ったのだ。
この妄想は俺の心を癒すのに有益だったらしい。
腹の底に沈んでいた鉛の様な冷たさが、少しずつほどけていく。
そうだ。幽霊文字の名前を持つ彼女はきっと、幽霊だったんだ。
ふざけた話だが、筋道は通っているではないか。
そうやって俺は、胸を埋め尽くす孤独感を、童話に出て来るキツネにつままれた男のようなバカバカしい虚無感に入れ替えるように努めた。
――孤高というのは、こうやって自分に無理くり言い訳し続けた先に転がっている程度の物なのかも知れない。少なくとも俺にとっては。
心に自嘲を浮かべながら、人混み溢れる街を見渡しながら、俺はゆっくり歩を進めていく。
たまに通りすがる女性が彁だろうが彁でなかろうが、もう関係ない話だ。
そもそも彼女は幽霊に過ぎない。今頃は未練を晴らして成仏しているかも知れない。
そうだ。そうに決まっている。
『さようなら』
いつの間にか彼女から届いていた最後のメッセージ。
俺はマッチングアプリを解約して、思い出を全て消し去った。
そして夕暮れの街に一人、小さく呟く。
「さようなら」