落とし物
終電間際のホームはそれなりに人がいるものの、週の真ん中とあって金曜日ほどの混雑ではなかった。
重たい足を引きずるようにしてホームを歩く。
できることなら体当たりでもしたいくらい億劫だけれど、なけなしの気力をふりしぼって人を避け、いつもの場所へ向かってよろよろ歩く。
前から二両目が定位置だ。
比較的空いていてだいたいいつも座れるし、地元の駅ではエスカレーターに近いから。
「あ。ラッキー」
二両目の停車位置の近くに三席ほどのベンチがあって、今日はそこに誰も座っていない。
電車が来るまでの少しの間だけれど、座って待てるのはありがたい。
私は吸い寄せられるようにベンチに腰を下ろした。
ふうう、とため息をついて、パンプスの踵を少しだけ外す。
足がちょっと楽になっただけでも、開放感がある。
疲れ切って痺れたようになった頭が少しだけスッキリした。
電車が到着するまであと五分……、電光掲示板の表示と時計をぼんやりと見比べているとすぐ傍で携帯が鳴った。
そばに他の人はいないので、間違いなく私のスマホが鳴っているのだろう。
――また上司からかな……。
思っただけでも胃が痛くなる。
私の直属の上司は、それこそ絵に描いたようなパワハラ上司だ。
ミスは部下のせいにするし、手柄は自分で独り占め。
上役にはペコペコして、下には居丈高。
さすがに威圧的に怒鳴ったりはしないものの、ねちねちと嫌みを言うし、小言がはじまるととにかく長い。
しいて長所を探すとしたら、嫌みにしろおべっかにしろ、言葉が巧みと言うことだろうか。
――やだな。また何かミスしちゃった?
重くなる胃を抱えつつ、バッグからスマホを取り出すと……。
画面は真っ黒のまま沈黙している。
「あれ?」
――じゃあ、この着信音はどこから?
あたりをキョロキョロと見回してみて、ようやく音の正体が分かった。
隣の席に黒いスマホがぽつんと置かれている。
そのスマホが小刻みに震えながら、着信音を発している。
――忘れ物かな?
興味を惹かれて画面をのぞき込めば……
『篠田和明(プライベート)』からの着信だと表示されている。
篠田和明、というのは人名だと分かる。(プライベート)って何だろう?
首を捻っていると、着信音が止んだ。
――このスマホ、どうしよう? 駅員に届ける? でも駅の事務室まで戻ってたら電車来ちゃうよね? じゃあ、このまま知らんぷりする? それだとこのスマホの持ち主が困るよね?
終電を逃せない自分と、見ず知らずの人の困窮を天秤にかけて、我が身可愛さに天秤が傾き始めたところで、またスマホが鳴った。
また同じ番号からの着信だった。
――あ! もしかしてこの(プライベート)って!
このスマホは篠田和明さんの仕事用スマホで、落としたことに気付いた彼がプライベート用のスマホからかけているのかもしれないと思いついた。
――電話に出るくらいだったら……してもいいよね?
恐る恐るスマホを手に取ると、画面に表示されている通話ボタンをタップした。
「……もしもし?」
『あ、あの……』
誰かが出ると思わなかったのか、電話の向こうの声が戸惑っている。
私のほうから事情を説明した方が早そうだ。
「私、このスマホを拾った者です。今、A駅のホームにいるんですけれど……」
『ありがとうございます! 僕、そのスマホの持ち主です』
ホッとしたような声を聞いて、私もちょっと緊張が解けた。
『やっぱり駅で落としてたんですね! 拾ってくださって本当にありがとうございます!』
「すみません。もうすぐ終電が来てしまうので……、えっと、このスマホ、どういたしましょう?」
時計を見やればあと三分で最終列車が到着してしまう。
電光掲示板の下側には、《前駅を発車しました》の表示が流れている。
『今、僕もA駅のホームにいます。たぶんここで落としたんじゃないかと思って……。下りのホームにいるんですけれど、貴女は……?』
「あ、はい。私も下りホームにいます」
キョロキョロと見回したけれど、篠田さんらしき人はいない。
「ええと……どのあたりにいらっしゃいます? 私のほうからでは見えないんですけれど……」
私はバッグを持って立ち上がり、もっとよく見えるようにと線路側へと移動した。
まだ、それらしき人は見えない。
男性は何人もいるけれど、みんな俯いてスマホをいじっている。
耳にあてている人は見当たらない。
『困ったな。僕のほうからも見えませんね……。ちょっと線路側に出てみますね。――これで見えますか?』
身を乗り出して見てみるけれど、まだそれらしき人が見つけられない。
「いえ……。ごめんなさい」
『そうですか。困ったな……』
弱り切った声に重なるように、間もなく電車が到着するというアナウンスが流れた。
「もうすぐ電車来ちゃうみたいですし……、もし可能なら明日、また改めて待ち合わせ場所を決めませんか?」
言いながらも、まだ諦めきれなくて、線路に一歩近づいた。
完全に白線の外側にはみ出ているので、電車の明かりが見えたらすぐに内側に戻るつもりだった。
『……捕まえた』
「え?」
何を言われているのか分からず問い返したのと同時に、足に違和感を覚えた。
まるでひんやりした手で掴まれているような……。
恐る恐る視線を下げれば。
血まみれの男が片手でスマホを持ち、もう片手で私の足首を掴んでいた。
明らかに生きている人間には見えない。
頭部は一部が歪に陥没し、血と汚れに満ちた衣服はかろうじてそれがビジネススーツだったと見て取れる程度にボロボロだ。破れ目から見える腕は、控えめに言って……酷く損傷している。
『捕まえた、捕まえた、捕まえた! ねえ、君もここで死んでよ、僕一人じゃ寂しいよ』
耳許のスマホから弾んだ声が流れ出る。
私の足首を掴む手は次第に力を増して、私を線路内へ引っ張っていく。
恐怖に背筋が凍るとともに、早く逃げないと電車に轢かれてしまうという焦りが湧く。
実際、ファン――と警笛が鳴り、ゴーッと電車の音が聞こえてきた。
『ずっと一緒にいようよ、ねえ、スマホを拾ってくれた優しい君なら分かってくれるよね?』
男はニタニタと笑いながら私を見上げる。
私の中で何かがブツリと切れた。
「分かるわけないでしょ!」
言いながら、男の顔をめがけてスマホを叩きつけた。
幽霊に実体があるのかどうかは不明だけれど、ダメージを受けたらしい。
男は『ぎゃっ』と叫んで、私の足首を掴む力を緩めた。
すかさず手を振りほどき、ついでとばかりに男の手を蹴飛ばした。
男の身体が線路へ落ちる――その瞬間、到着した最終列車が男を蹴散らしていった。
「あら。――幽霊のくせに物理攻撃が効くなんてびっくり」
疲れて正常な思考ができないでいるのか、それとも恐怖が感覚を麻痺させているのか、助かった安堵からか、暢気な独り言が口をついた。
そんな私の目の前で、列車のドアが何事もなかったかのように開いた。
私も何事もなかったかのように、乗り込んで空席に座った。
――スマホも幽霊も気のせいよね。じゃなきゃ夢を見たんだわ。早く帰って寝よう。
そんな考え事をした矢先、パンプスの爪先のすぐ前に黒い染みが広がった。
『何?』と思う間もなく、その染みはズルズルと持ち上がり……、血まみれの男が顔を出した。
電車の床から人の首が生えている光景は、怖いと言うよりいっそ滑稽で、私は小さく笑ってしまった。
『酷いよ、酷いよ。君は親切な人だと思ったのに、こんなことするなんて』
恨みがましい上目遣いがますます滑稽だ。
「あなたがもっとイケメンだったら一緒に死んであげても良かったかな~?」
『な!?』
「なーんてね。冗談です! 道連れを探すような性悪男は、たとえイケメンでもごめんだわ~」
周囲に人がいないのを良いことに、男に向かって悪態をついた。
卑屈な雰囲気が、大嫌いな上司にちょっと似ていたせいもあって、言うことが自然ときつくなる。
「邪魔よ」
爪先で小突くと、男はズブズブと床へと沈んでいった。
物理攻撃が効くくせに、電車の床をすり抜けられるって、ほんとどういうことなの。
最後まで一貫しない姿勢にため息が出る。
そうこうしているうちにドアが閉まり、電車が動き出した。
電車の不規則な揺れが眠気を誘うけれど、乗り過ごしてしまうと厄介なので根性で目を開けている。
それにしても……。
生まれて初めて恐怖体験をしたはずなのに、恐怖感が湧いてこないのは我ながらどうかと思う。
男の顔を見たときは怖かったけれど、それ以降は苛立ちしか感じていない。
疲れているところに、絡んで来やがって。迷惑な! としか思えないのだ。
――ねえ、私、ここまで疲れ切る職場で働いていて、本当に良いのかな?
しかもちょっと雰囲気が上司にしてるからって、幽霊を罵ってスッキリしているなんて。
お給料が良いから今まで考えもしなかったけれど、これは……潮時かもしれない。
「転職、しようかな……?」
私はバッグからスマホを取り出し、転職サイトへアクセスした。