がらんどうに光さす(三十と一夜の短篇第41回)
幼稚園で描いた絵をせんせいにほめられた。うれしくてうれしくて、絵を描いた紙を手に持って走って帰った。
「おかあさん、みてみて!」
息を切らして家に駆け込んで、広げた絵を母親に見せた。
「あら」
振り向いた母親はおどろいたようにぱちりとまばたきをする。続くことばをわくわくして待った。けれど母親の目は手のなかの紙のうえをさらりと流れて、そのまま元のように前を向いてしまう。
「がんばって描いたのね」
かちゃり、かちゃり。食器を洗う音にまざって声が聞こえてくるけれど、でも、それはほしいことばではなかった。
「でも、帰ってきたらまずはただいま、でしょ」
「え……」
素っ気なく言われて、絵を持つ手がゆるゆると下がる。
「いつも言ってるでしょう。来年には小学生になるんだから。それくらいできるようにならなきゃ、恥ずかしいわよ」
風船から空気が抜けるように、胸につまっていたわくわくする何かがするすると抜けていく。同時に手からも力が抜けて、体の横にぶらりと垂れる。絵を描いた紙は、指の先に引っかかってゆらゆらしている。
「……ただいま」
「はい、おかえりなさい。次からは言われる前に言うのよ」
「……うん」
(せんせいは、すごくじょうずに書けたって言ってくれたよ。かずくんは絵の才能があるねって言ってくれたんだよ)
母親にそう言いたかった。
(ともだちも、うまいねってほめてくれたよ。おりがみに絵を描いてほしいって、おねがいされたんだよ。大事にするね、って言ってくれたよ)
そう言いたかった。
(持って帰ったらおうちのひとに見せてね、って。きっとよろこんで、かざってくれるよってせんせい言ったんだよ)
言えなかった。
早く手を洗ってきなさい、と言う母親の背中に「はい」と返事をして、丸めた紙をかばんの底に押し込むことしかできなかった。
それから、絵をほめられても胸のどこかがずきりと痛んで、口は勝手に「そんなにうまくないよ」と言うようになった。
それでもほめてくれるひとはいた。
「すてきな絵だね」
「そんなことないよ」
「ううん、すごく良い」
「もっとうまいひとなんて、いくらでもいるよ」
「でも、わたしはこの絵、好き」
「そうかな、じゃあたまたまうまくいったんだね」
ほめられても、すなおに受け取れなかった。すなおに受け取ったあと傷つくかもしれないことが怖くて、よろこべなかった。
そうしてだんだん絵を描くのがきらいになって、いつしか絵を描かなくなった。
そのかわり、勉強をがんばった。
絵を描くかわりに勉強をすると、テストの点数があがった。そうしたら両親も先生もほめてくれたものだから、空き時間には勉強をするようになった。
「このごろとってもお勉強をがんばってるのね、えらいわ」
返却されたテストを見た母親のそのことばで、胸がふわふわする熱いもので満たされた。にっこりと笑って自身を見てくれる視線がうれしくて、ほほが熱くなった。
「その調子でがんばってね」
「うん!」
返事をすることに迷いはなかった。ただただ、うれしかった。
それからは、みんながおしゃべりをしている十分休みも、それぞれのグループで集まって遊ぶ昼休みも、きょうはどこへ行こうかと相談している放課後も、ひとりで机に向かっていた。
「聞いたよ、勉強すごくがんばってるんだって? えらいなあ」
父親に頭をなでられて、うっとりした。
仲良しの友だちはできなかったけれどあいさつを交わす程度のクラスメイトは数人いて、グループ活動ときにも声をかけてもらえたから、あぶれることはなかった。
小学校時代は幸せに過ぎていった。
けれど、幸せは長くは続かない。
中学生になると、苦手な科目がいくつか出てきた。英語と理科、それから量の増えた暗記問題が、なかなか覚えられなくなってきた。
「あら、どうしたの? 点数このまえより悪いじゃない」
母親の冷めた声が胸にささった。
だからがむしゃらに、だれからの誘いも断って必死に勉強をした。
「勉強熱心なのはいいけどな、すこしは息抜きもしろよ」
担任の先生にそう言われて「はい」と返事をした。その翌日、なんど断っても声をかけてくれるクラスメイトたちと遊びに出かけてみた。ゲーセンに行って、本屋をぶらぶらして、ファストフードを買って食べるだけの時間。楽しかった。ゲームセンターはいろんな音と光で耳にも目にもやかましかったし、参考書や問題集を買うわけでもないのにうろつく本屋は面白そうな本であふれていて、ハンバーガーと脂っこいポテト、それから氷ばかりのジュースはやけにおいしかった。
楽しかった。どれも初めて経験するものばかりで、おどろきと喜びでいっぱいになって、楽しい気持ちで体じゅうをわくわくさせたまま家に帰り着いた。
「母さん、ただいま。きょう友だちと遊びに行ってきたんだ!」
「おかえりなさい。そうなの」
居間でテレビを見ていた母親は、振り返ってやさしく笑ってくれた。だから、胸いっぱいのうれしい気持ちを伝えたくなった。
「ゲームセンターでゾンビと戦ったんだけど、すこしも鉄砲の球が当たらなくて。でも、いっしょに行ったみんなはすごくじょうずでさ! ゾンビが飛び出してきても驚いたりしないで、すぐ撃っちゃうんだ。かっこよかったなあ」
「そう」
「それからね、本屋さんでおすすめの漫画を教えてもらったんだ。いろんな漫画があるんだよ。それぞれおすすめが違うし、どれも面白そうだって言ったら、みんなが貸してくれるって! 読んでみて、おもしろかったらまた続きも貸してくれるって。そのかわり、ぼくが面白いのを見つけたら貸す約束もしたんだ」
「そう」
「あとね、ハンバーガーも食べたよ。どうやって注文していいかわからない、って言ったら佐脇くんが同じふたつずつ頼んでくれて。あ、佐脇くんってクラスメイトのね、背の高い野球部の子なんだけど。それでね」
「ねえ」
続けようとしていたことばをさえぎって、不意に母親がにっこりと笑顔を深くした。
「遊んできたなら、そのぶん勉強しなさいね。ただでさえこのごろ、成績が落ちてきてるんだから」
ひやりと、胸のなかが冷たくなる。胸いっぱいに詰まっていたわくわくが一気にしぼんで、死んでしまったうれしい気持ちの残骸がのどの奥に張り付いた。
「ほら、手を洗って部屋にあがりなさい。夕飯までに宿題を終わらせないと、寝る前の予習の時間が短くなってしまうでしょう?」
(すごく楽しかったんだよ。また遊ぼうって、みんなも言ってくれたんだ)
母親に同意してほしかった。
(特別なことしなくても、いっしょにしゃべってるだけで楽しかったんだ。勉強が得意だとか苦手だとか関係なくて、みんなでしゃべったり遊んだりするのが楽しかったんだ)
よかったわね、と言ってほしかった。
(みんなとしゃべったみたいに、母さんとも楽しく過ごせると思ったんだ……)
そうではなかった。
期待していた。
みんなと楽しく過ごせたぶん、楽しい気持ちを母親にもわけていっしょに楽しく話せると、期待していた。
けれど、そうではなかった。
期待は裏切られ、喜びでいっぱいだった胸はつぶれてしまった。
「……うん」
どうにかそれだけ絞り出し、自室にこもって教科書を開くことしかできなかった。
それから、遊びにさそわれてものどの奥がぎゅうっと詰まって、口は勝手に「ごめん、遊べない」と言うようになった。
それでも佐脇くんたちは声をかけてくれた。
「あしたならどうだ?」
「ごめん、あしたも勉強しなきゃ」
「じゃあ、勉強の息抜きに漫画貸すよ」
「ごめん、読む時間がないんだ」
「誘うの、迷惑か?」
「……ううん。でも、ごめん……ごめん」
誘われても、応えられなかった。楽しい時間を過ごしたあとに、息がとまるほど苦しく胸が氷つくようなときがくるかと思うと、彼らの誘いに応えられなかった。
そうしてだんだん彼らの顔を見るのもつらくなって、いつしかうつむくのがくせになった。
そのかわり、また勉強ばかりの毎日に戻った。
寝る時間と食事の時間以外は、いつだって教科書や参考書を広げていた。けれども、成績は思うようにのびない。
「このごろ、あまり点数がよくないわね。遊んでばかりいちゃだめよ」
「……はい」
遊んでなんかいなかった。けれど、結果が出ていないのは事実だった。
「塾に入れば遊びの時間も減るかしらね」
「……はい」
すぐに学習塾に入った。学校が終わればそのまま塾に行く。家に帰る時間は父親よりも遅くなった。それでも、満点を取れない教科があった。
「あと少しなのにね、おしいわ」
塾のあとにも勉強をした。それでも、学年で一番になれない。
「なにが悪いのかしら」
早起きして、学校に行く前にも勉強をした。それでも、足りない。
「はあ……また成績が下がってきたわ」
母親のため息がこわかった。
「いやあ、なかなかがんばってるじゃないか、なあ」
父親の気休めが胸をえぐる。
がんばってもがんばってもがんばっても、望んだ成果は得られない。
「この前より悪くなってるじゃない」
あせればあせるほどささいなミスが増えていき、テストの成績が悪くなる。
「高い塾代はらってるのに。こんなものかしらね」
母親が軽く肩をすくめて席を立つ。はらりと机に置いていかれた答案用紙。母親は振り向かず、背を向けて洗濯物を取り込みに行ってしまう。
ぞっとした。
母親が自分に興味をなくしてしまったのだと、腹の底が冷えた。
座り込みそうになった足をどう動かしたのか、わからない。気づけば日が落ち、いつの間にか学校にいた。
目の前には担任の先生。いつだったか、息抜きをしろと言ってくれたひとだ。
先生のうしろの窓には夕暮れが広がっていて、教室には自分と先生のふたりきり。グラウンドでは部活をしているのだろう、にぎやかな声がどこか遠くに聞こえる。
「なあ」
短いよびかけに、ガラスの向こうへ行っていた意識が引き戻される。
先生はがりがりと頭をかいて何度か口を開け閉めしてから「あー……」と意味のない声をだす。ぼんやりと見つめていると、先生があらためて口をひらく。
「おまえ、もうすこし手抜きしないと息がつまるぞ。教員のおれがこんなこと言うのもなんだけどな。言ってもいいと思うくらいには、おまえがんばってるし」
ぽんと頭に手を置かれて、その重みで頭がさがる。もうほとんど机につきそうなぐらい顔がしたを向いている。
「勉強はそりゃ、できるに越したことないけどな。でも、目標もなくがんばるのは疲れるだろ。なんかあるのか、やりたい仕事とか。勉強したい分野とか」
「…………」
答えられなかった。自身のなかになにもなかったから。
なにかを目指してがんばっていたわけではなかったから。ただ、母親にほめてもらいたくて、そのために勉強をしていただけだった。
勉強を楽しいと思ったこともなかった。将来に生かしたいと思うような分野もなかった。からっぽだった。勉強をすること以外、自分のなかにはなにも詰まっていなかった。
だから、だまって首を横に振ることしかできなかった。
「そうか」
そう言って、先生の手が頭からはなれていく。こちらに乗り出していた体を椅子にあずけるぎしり、という音がした。
ほんのすこしだけ、胸がきしむ。先生も離れていってしまう。こんな面倒な生徒に構っていられるほどひまではないのだろう。
すこしだけ残っていた期待がくしゃりとつぶれるのをどこかで感じながら、胸にあいた穴にあきらめでふたをしようとしたとき。
「じゃあ、これからは自分のやりたいことを探しながら勉強しなくちゃな」
降ってきたのは、この先を照らすことば。
「え?」
おどろいて顔をあげれば、ぼんやりと窓の外を見るいつも通りの先生の横顔が見えた。
やる気に満ち溢れていない、なんでもない風の先生がひとりごとのように言う。
「勉強だけじゃない、友だちだっておとなになったらなかなか作れないからな。ずっと仲良くしたいやつを見つけるのも、いまのうちだ。遊んで勉強して自分のやりたいこと見つけて、目標に向かってがんばって。やることいっぱいだぞ。学生ってのはめちゃめちゃ忙しいんだからな」
からっぽな体のなかに、そのことばが落ちてくる。
自分のために、自分のやりたいことを。
母親がほめてくれなくても、やれるだろうか。自分のために、自分の大切なものを見つけられるだろうか。
(ぼくにはむりだよ、がんばれないよ)
幼い自分が否定する。
(おれには無理だ、きっとまただめになる)
成長した自分が否定する。
そうだ、といまの自分も同意する。
(どうせ、おれなんて……)
もらったばかりのこの先を照らすことばをあきらめで塗りつぶそうとした、そのとき。
「せんせー、話ってまだ終わらない?」
「おれらも積もる話があるのにー」
「話の長い年寄りは嫌われるよー?」
教室の戸をすこし開けて、三人の男子生徒がひょこりと顔を出した。佐脇くんたちだ。
おどろいて彼らを見ているあいだに、先生はやれやれと言って席を立つ。
「まあ、いろいろ難しく考えるまえに、まずはあいつらと遊んでこい。ずっとお前のこと心配して、見てたんだぞ」
彼らに届かない程度の声で言って、先生はすたすたと歩きだす。三人の元にたどりつくと、がらりと大きく戸を開いた。
「いうほど年寄りじゃねえよ、おれは。あんまり遊び歩いてないで、ほどほどにして家に帰れよ。じゃあ、また明日な」
「えー、先生いくつ?」
「はーい、先生またあした」
「先生も気を付けてねー」
背を向けたまま手を振って去っていく背中に三人がばらばらに返す。
先生を見送った三人はくるりと振り向いたかと思うと、楽し気にしゃべりだす。
「なあ、まだ学校にいるってことは、きょうは塾ない?」
「だったら遊び行こうぜ! ポテトの無料券あるんだ」
「あ、おれ本屋行きたい。漫画の発売日だ」
以前と変わらない様子で声をかけてくれる三人に、思わず返事も忘れてぽかんとしてしまう。その無言をどうとったのか、佐脇くんが慌てて言い足す。
「もしかしてこれから塾か? だったら途中までいっしょに帰ってもいい?」
それいいね、名案だ、とふたりが言うのを呆然と聞いた。どうして。
「どうして……」
思わず思いが口からこぼれる。
「あんなに、たくさん誘いを断ったのに。いつも断って、顔もあわせないでいたのに、どうしてまだ誘ってくれるの」
疑問を口にすれば、三人は顔を見合わせて首をかしげる。
「なんでって言われても、なあ」
「うん、なんか、前遊んだとき楽しかったから?」
「そうそう。なんか楽しかったから。だからまた遊びたいなあ、って」
「「「そんだけ!」」」
声をそろえて言う三人に、胸がぎゅうっと苦しくなってのどの奥が詰まる。けれど、嫌な苦しさではなかった。ずっと抱えていたいと思える苦しさだった。
断られたらどうしよう、そんな怖さはまだ残っていた。もう遊びたくない、と飽きられる日がくるかもしれない恐怖は捨てきれなかった。
それでも、彼らのくれた苦しいほどの胸の熱さを力にして、勇気を出す。
断られたときのための言い訳は用意しなかった。
「……いっしょに、帰ろう。ポテトも本屋さんも、行きたいな」
「よっしゃ、じゃあ行こう!」
「どっちから行く?」
「漫画! ポテト食べながら読み終わったら、そのまま貸すし」
ふり絞った勇気は、あっけなく受け止められた。笑顔で歩き出す彼らに囲まれて、気づけば自然と笑顔を返していた。