8話
イーリスがそれに気づいたのは、伸びをしつつ後ろにひっくり返りかけた時だった。天地が逆転している視界の中心に、眉毛をぴくぴくさせている麗人がいた。
「お、おはようございます」
突然出くわした相手にイーリスはぎこちなく挨拶するが、先客は容赦しなかった。
「おはよう、じゃございませんわっ! マナー違反にもほどがあります!」
きれいに整った細い眉をつり上げて、逆向きのイーリスを人差し指でびしっとさす。黒髪を結い上げた女性の声は高く澄んでいて、実に高圧的だった。
おいらは反射的に体を堅くして置物のふりをする。イーリスのぺらぺらな裸体を見ることは警護として致し方ないことだし本人了解の上だが、他の女性はとなればそういうわけにはいかない。さすがのおいらも、身の危険を感じずにはいられない。
「まず、その汚らしい体を流しもせずに浸かるなんて、何を考えておいでですの? 私にあなたの汚れを移す気ですか! それに、飛び込むなんてもってのほか! 貴重なお湯を何だと思っておいでですの!」
浴場に柔らかく反響する叱責は至極もっともだ。イーリスに弁解の余地はないね。
首を後ろに向けたままの体勢を維持しきれなくなって、イーリスは後頭部から浴槽に沈む。
しばらくして浮き上がってきたイーリスは、浴槽の中で正座して、怒る女性の顔色をうかがいながら頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……」
しゅんとなるイーリスだったが、その目はまじまじと女性の顔をみつめている。
「じろじろ見ないでくださる? もう、体を流さなかったことは手遅れですし、許して差し上げますから、とにかく静かに浸かっていてくださいまし」
ぷいっと顔を背ける女性に、イーリスは正座のままにじり寄って、さらに顔を近づける。
「あの、もしかして、昨日……」
イーリスが口にした言葉で、おいらもはたと気づく。そうか、おいらとしたことが。結い上げられた髪と、露わになった口元のせいで、気づくのが遅れてしまった。
気づいてしまえば、どこからどう見ても、この女性は昨夜の雨乞いの巫女だった。
「げ、もしかして、お気づきに……?」
口元を手で隠しながら後ずさるが、それは逆効果というものだ。余計に昨日の面影が際立つだけだ。こくりと頷くイーリスに、露骨に顔をしかめる巫女。
「き、気づいても、そっと素知らぬふりをするのが淑女の嗜みというものですわ。それに私、いちいち下々の者の相手をしているほどヒマじゃありませんの」
きっぱりと言い放つと、巫女は瞑目して湯船に体を沈ませる。実に気持ちよさそうだ。イーリスのことは完全に無視するつもりだろう。
しかしイーリスが他人の都合になど頓着するはずがなかった。
「あのぅ」
湯船の中で、再度巫女ににじり寄るイーリス。
「あのぉう!」
反応がないのを良いことに、額が引っ付きそうなほど密着する。巫女は既に浴槽の角まで追いやられており、水面下では膝小僧がぶつかり合っているかも知れない。それでも巫女は、このまま無視してやり過ごす腹づもりのようだ。
だがイーリスは、それで難を逃れられるような相手じゃなかった。
「きれいなお姉さんっ!」
言葉と同時に、湯船の中に潜むイーリスの手が蠢いた。
「ひょわっ!」
嬌声と共に湯船から飛び上がった巫女は、そのしなやかなこんがり小麦色バディを惜しみなくおいらに見せてくれながら、イーリスにびしっと指を突きつけた。いやあ、ピチピチのお肌が眩しいぜ。
「あ、あなた、いきなり何をなさるのですか!」
「だって、返事してくれないんだもん」
「だからって、初対面の相手の、こんなところを触るなんて、たとえ幼児の行いだとしても許されませんわ! マナー以前の問題です! 全く、親の顔が見てみたいですわ!」
おいらはその言葉に息を飲む。イーリスがどこをどう触ったのかは知らない。だが、巫女の何気ない一言は、イーリスの心を抉る暴言だった。
「わたしには、親なんかいないよ」
イーリスの声は、先ほどまでとは打って変わって冷え切っていた。
「あ、あら、それは失礼を……」
イーリスの言葉をどう受け取ったのか、巫女はあからさまに狼狽する。
突きつけていた人差し指を所在なさげに下ろしてから、再び浴槽に着席した。
重い沈黙が大浴場を満たす中、先に口を開いたのはイーリスだった。
「でも、ピュイがいるからいいもん」
「ピュイ?」
いきなり名を出されて、おいらの背筋に冷たいものが走る。おいおい、おいらの紹介をするつもりだったら、本気で勘弁してくれよ? このお高い美女が、カエル風情に裸体を見られたと知ってどんな反応を見せるのかなんて、想像すらしたくない。
「そんなことより」
イーリスはおいらの危惧を一言でばっさり追いやって話を変える。巫女の顔をのぞき込みながら、先ほどからずっと気にしていたことを口にする。
「もう、だいじょうぶなの?」
イーリスの心配げな表情に、ぽかんと首をかしげる巫女。
「なにがですの?」
「昨日、とっても苦しそうだった。今日はもう、だいじょうぶ?」
言葉の意味を測りかねてか、イーリスの顔をじっと見つめる巫女だったが、何を見出したのか、急に目を見開いたかと思うと、その顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「あっ、あなたっ、昨日のっ!」
「うん、昨日はほったらかしにしてったから、だいじょうぶだったかなーって」
「大丈夫も何も、あのあとは大変でしたのよ? まったく、余計なことを!」
「で、でも、苦しそうだったし、雨乞い、とても続けられそうになかったじゃん」
「あれはっ! 苦しかったのではなくっ!」
そこまで口走って、巫女の顔は熟したトマトもかくやというほど真っ赤になった。まさかのぼせているわけではなかろうが、いきなり赤面されてもイーリスはぽかんとするしかない。
「え、でも、息するのもしんどそうだったし、だめ、だめっていってたし」
「もっもうっ! あなたには関係ありませんわっ! とにかく、放っておいてくだされば皆が幸せでしたのっ!」
「ご、ごめんなさい!」
イーリスは謝罪の言葉と共に勢いよく頭を下げた。勢いが良すぎて顔面が水面にぶつかり、湯滴が目つぶしとなって巫女の目めがけて爆散する。巫女は目元をぬぐうと、イーリスのつむじをまじまじと見つめる。落ち着きを取り戻してきたのか、その顔から徐々に赤みが引いてくる。
「あなたが謝ることはありませんわ」
「だって、わたしのせいで、迷惑かけたんでしょ?」
「儀式は滞りなく進み、雨は無事に降り、我々の使命は果たされた。そう伝承することに決まりました。あなたの乱入は儀式が終わった後という扱いなので、何の妨害にも当たりませんし、私たちとしてもあなたの罪を問うことは致しません。そういうことですわ」
たぶん、そう丸く収めるために昨夜は紛糾したのだろう。犯人不在の話し合いで、昨日の狼藉を不問に処してもらえたのは本当に有り難い。
吐息混じりに肩を竦める巫女を、イーリスは上目遣いで見つめる。
「じゃあ、ゆるしてくれるの?」
「今回の件について、誰もあなたを咎めない。私はそう申し上げているのです。ですが、もしもあれが儀式の最中だったと判断されていましたら、あなたは今頃、檻の中だったということを、ゆめゆめお忘れなく」
「あ、あう……ごめんなさい」
再び頭を垂れるイーリスを、巫女は改めてまじまじ見る。
「それにしても、昨日のあれは無鉄砲にもほどがありますわ。それに、こんな高給宿の浴場に一人で入るだなんて、あなた一体、何者なのですの?」
自分のことを棚に上げた巫女の発言に、イーリスは言葉尻だけ拾って答える。
「わたし? わたしはイーリスだよ」
「ああ、イーリスさんと仰いますの。申し遅れました、私はソティルと申します。以後お見知りおきを……って、そうじゃありません! あなたは一体、どういうご身分で、どのような生活をなさっているのか。それを聞いておりますの!」
おいらは湯に浸かったまま血圧を上げる巫女、ソティルの健康状態が心配になってくる。しかしそれ以上に、イーリスがその問いにどう答えるのかが心配でならなかった。
イーリスはおいらの懸念などお構いなしに、けろっとした表情であっさり答える。
「わたし? ブラブラ旅してるの。ピュイといっしょにね。雨乞いとか、あんまりみたことないから、ソティルが苦しがってるの、ほっとかなきゃいけないなんて、知らなかったの」
それを聞いたソティルは、湯船に浮かぶ張りのある双丘の下で、腕を組んで思案する。
「あなたはどう見ても成人前ですし、ピュイと仰る方が保護者ということかしら。その方と、二人で旅をされている、と」
「ううん、保護者とは、ちょっとちがうかな」
「あなたのような子供が、保護者でない方と二人旅?」
ソティルにイーリスが言わんとすることが今ひとつピンとこないのも無理はない。そしてどうすればソティルに伝わるかとイーリスが頭を捻って考え出したのは、数ある中でも最悪の手段だった。
「ピュイならあそこにいるよっ」
そう、イーリスの奴、口で説明することを放棄して、あろうことか、びしっとおいらの方を指さしやがったのだ。
先ほど難を逃れたと胸をなで下ろして対策を怠ったのが悔やまれたが、もはや後の祭りだ。逃げ出すか、置物のふりを貫くか。それを選ぶ権利さえ既に剥奪されていた。ソティルの細められた目に睨まれては、おいらは固まるしかなかったのだ。
湯船から立ち上がったソティルは、均整のとれた美しい肢体を晒して、一歩、また一歩と、おいらに近づいてくる。
そして、怒れる巫女ソティルは、ついにおいらの真ん前で仁王立ちとなった。
二本の足はとってもビッグなゲートのようだ。ゲートの全貌を確かめたくても、諸事情により見上げるわけにはいかないのがリポーターとしては無念極まりない。なんて、冗談を言っている場合じゃない。
ソティルはすとんとしゃがみ込んで、おいらをじっと見つめる。
豊かな唇に筋の通った鼻梁は、神が創り賜った最高傑作だと言われても信じてしまいそうなほどに完璧な造形をしている。そして何より、覗き込めば吸い込まれてしまいそうなほどに澄んだ瞳が、舌を伸ばせば届くほどの至近距離にあった。
おいらは今に至って自分が近視だったことに気づく。
この距離で見てはじめて、真の意味でソティルのとんでもない美貌を理解したのだ。
おいらは瞬きも忘れて見とれていた。
そして、自分の喉が無意識のうちにだらしなく鳴ってしまったことに気づいたのも、ソティルの表情が急変した後の事だった。
次の瞬間。ソティルの絶叫が、風呂場だけにとどまらず、宿全体に響き渡った。
この後、おいらがどうなったかなんて野暮なこと、聞いてくれるなよ?
ただ、狂乱するソティルも、実にパワフルでチャーミングだったとだけ一言添えておく。