7話
控えめな雨音が心地よいリズムを刻んでいる。
レースのカーテン越しに広がる空は薄白く、部屋の中をぼんやりと照らしている。
イーリスがシーツを乱しながら寝返りを打つ。よく干された太陽の香りが漂うシーツだ。もっとも、昨夜まで水不足に悩まされていたのだから、前に洗濯されたのがいつのことかは知れたもんじゃない。
だが、イーリスはとっては清潔さよりもパリッと乾いたシーツの心地よさの方が勝っていた。昨夜ベッドに転がったとたんに眠りについたという事実がそれを証明している。
そんな気持ちの良い就寝をしたイーリスも、朝方にはいつもの症状が現れる。
寝返りを打ってこちらを向いた寝顔には、くっきりと涙の後がある。その目尻には、まだ涙が溜まっている。
「お母さん……」
お決まりの寝言を零しながら頬を湿らせるイーリスが、どんな夢を見ているのかは知らない。聞いたこともない。だが、想像はつく。
おいらはイーリスの寝言が止んだところを見計らって身構える。
イーリスを悪夢から解き放ってやらねばならない。
「とうっ!」
かけ声とともに、おいらはサイドテーブルから跳躍した。カエルの後ろ足の筋肉を侮るなかれ、おいらは目標地点に、べちゃ、という音を伴って、狙い違わず着地した。
「うひゃっ」
奇妙な声を上げたのはイーリスだ。声とともに左手を持ち上げて、ほっぺたに張り付いたおいらを叩こうとする。だが、もうぺちゃんこになるのは懲り懲りだ。おいらは再び跳躍し、枕元に逃げる。するとイーリスの平手打ちは自身のほっぺたに炸裂し、その眉間に皺が走った。
「……あぁ、ピュイか。おはよぅ」
涙の残る半開きの目を指でこすりつつ、イーリスは体を起こす。悪夢の記憶はないらしく、その表情に陰りは見受けられない。それが幸か不幸かの判断は、おいらにはできかねる。
イーリスがベッドに腰掛けてぼーっとしていたのは数秒のことで、ゆっくりと腕を伸ばして体全体をほぐしはじめる。
「んーっ……雨だね」
「ああ、雨だ。いつも通りのな」
伸びをしたまま窓の外を眺めて微笑むその表情は、既に覚醒している。人間にとって二度寝の誘惑は抗いがたいものだと聞くが、イーリスには無縁だ。
「じゃ、次に行けるね」
言いながら、宿が貸してくれたゆったりとした寝間着のボタンを一つずつ外していく。
上から三段目まで外したところで、イーリスは不意に指を止める。
「そうだ、ピュイ、行くよ!」
イーリスはリュックから布袋を取り出すと、いきなり部屋から飛び出した。
行くと言っても、寝間着のまま旅に出るつもりではない。おいらにはイーリスがどこに行くつもりなのか想像がついていた。目的地は、イーリスが借りた部屋の真向かいだ。
赤地の布に、湯を象った刺繍付きの暖簾をくぐって中に入る。
なんのことはない、浴場である。
昨日到着したときは閉鎖されていたが、昨夜の内に雨水を引き込んで、早速再開したのだ。昨日、朝には湯を沸かしておくからね、と、気前の良い女将が教えてくれていたのだ。
人の気配がない脱衣所で寝間着を脱ぎ捨て、奥の木戸を開け放てばそこはもう大浴場。
イーリスは濛々と湯気を立てる浴槽に、一直線に飛び込んだ。
盛大な水しぶきを上げて着水したイーリスは、そのままの湯の中に頭の先まで潜る。熱湯が毛穴という毛穴から染み込み、全身の汚れを洗い出してくれるような感覚がたまらないのだと、イーリスは常々言っている。
水面下に潜伏することたっぷり数十秒。
人間にはエラがないことを思い出したのか、水面から勢いよく上半身を生やしたイーリスは、良い感じに火照っていた。
ちなみにおいらはと言うと、浴場の入り口からイーリスを見守ることに徹している。勘違いするなよ、これは断じて覗き見じゃない。これはあくまで警護の一環。おいらはいついかなる時も、イーリスの身を守るためにいる。だから必要以上に近づかず、遠くから見守っているわけだ。体温が上がりすぎるから、湯に近づきたくないってのもあるけどな。
と言うわけで、イーリスが我が物顔で湯船に浸かっている時から、おいらは気づいていたわけだ。ここに先客がいたことに。