6話
イーリスが泣いている少女を目の当たりにして、傍観に徹するなどあり得ない。
今まで息を飲んで儀式を見守っていたイーリスが、どれほど素晴らしい巫女の舞踊に感動し、どれだけ苦しむ巫女へのぞんざいな扱いに憤慨したことだろう。
そのことに気づいた時には、おいらは既に、イーリスに連れられて舞台の上だった。
「おいイーリス、勝手に神聖な儀式の舞台に上がったりして、おいらはどうなっても知らないぞ」
おいらの心のこもっていない忠告を聞く耳など、イーリスが持っているはずがなかった。
騒然とする観衆にも、浮き足立つ関係者一同にも目を向けず、舞台上の清き雨を全身に受けながら、リュックの二本の傘を背中越しにさっと抜き放った。
そしてそのまま、双方の傘を、夜の舞台に花咲かす。
普段使いのイーリス愛用傘、「水玉とみせかけて飴玉傘」を柄の部分でリュックに固定し、雨から自分の頭上を守ると、残る予備の傘、「オンブロス協会支給、戦闘用折り畳み傘改」で巫女に降りかかる雨を遮ってからその手を取った。
「あんっ」
巫女は触れただけでびくんと震え上がったが、どうにか顔を上げてイーリスを見上げた。
至近距離で見れば、先ほどの洗練された舞いとはかけ離れたあどけなさが際立った。イーリスよりは年上だろうが、やはり二、三歳程度の違いしかない少女だと言える。そんないたいけな少女の瞳は蕩け、口元を覆い隠す布は、漏れる吐息で揺れている。この様子からすると、倒れたのは苦しさからというわけではなさそうだ。どう見ても恍惚とした表情そのものである。
しかし正真正銘お子様なイーリスには、その表情の意味などわからない。
「立てる?」
少女は内股のまま、なんとかへっぴり腰で立ち上がったが、とても歩けそうにない。
イーリスは少女に肩を貸して、舞台から滑り落ちた。
最前列に陣取っていた観衆は、いきなり降りてきた二人を見て反射的にさっと左右に割れた。
イーリスは戦闘用折り畳み傘改を開いたまま置いて、少女を連れて舞台の下に潜り込む。
観衆はイーリスが何のために舞台下に入ったのかさっぱり分からないだろうが、おいらには分かっていた。イーリスは舞台中央部の主柱まで少女を連れて行くと、そこに背中をもたれさせた。真っ暗な舞台下は、四方八方を大勢の観衆が囲んでいることを忘れてしまうほど、不気味な静けさが満たしていた。
「ここでしばらく休も?」
そう、イーリスはただ、苦しそうにしている少女を、雨から救い出したかったのだ。
返事はないが、徐々に正常な呼吸を取り戻しつつある少女の様子に安堵して、イーリスは背中で開きっぱなしの飴玉傘を外して閉じる。
「ちょっと君、勝手なことをしてもらっては困る」
振り返れば、儀式関係者とおぼしき衣装の男が舞台下に入ってくるところだった。こちらからは逆光で、相手の表情までは窺い知れない。
イーリスは中腰になって、頭上に注意しながら寄ってくる男を待ち構える。
ぎりぎりまで近づいてきても、イーリスはじっと動かない。
イーリスが動いたのは、男がイーリスを捕まえようと、手を伸ばしてきたその時だった。
イーリスは腰だめに構えていた傘を居合いの要領で振り抜き、その手を打ったのだ。
「痛っこらっ!」
男が顔をしかめて手をひっこめている隙を突いて外に出る。
開いたまま置いておいた戦闘用折り畳み傘改を拾い上げると、イーリスはそれを派手にぶん回す。
「苦しんでるのにほったらかしにして! だから大人なんかきらい!」
イーリスのつんざくような叫び声には雨も震えるほどで、皆手で耳を覆った。
イーリスがその期を逃すはずもなく、開いた傘を槍のように構えて突進。人垣を割いて、一気に突破する。
人だかりを抜けさえすれば、舞台付近に陣取っていた儀式関係者は追っては来られまい。
このまま一目散に宿泊予定の宿に駆け込むまでだ。場所は既に確認済みだ。
魔法に頼らず上手く切り抜けたと褒めてやりたいところだったが、しでかしたことが儀式の妨害に当たる可能性があるので、おいらは急遽台詞を変更する。
「また無茶しやがって」
宿の軒先に辿り着き、一息つきつつ戦闘用折り畳み傘改を畳んだところで、おいらはそう窘めた。
イーリスは桶を外しておいらをまじまじと見つめた後、傘からしたたる雨水を桶につぎ足しながら、唇を曲げた。
「だって、あの子、ちゃんと雨降らせたたんだよ? それなのにあんなに苦しそうで、だれも褒めてあげない。そんなの、あんまりだよ」
おいらは目をぱちくりさせた。そして、これ見よがしににやりと笑う。
「へぇぇ、そういうことかい」
「なによう」
膨れるイーリスを見つめながら、おいらはケロケロ笑う。
なるほど、おいらはてっきり、苦しそうな少女を見ているのが我慢できなくて助けたのだとばかり思っていたのだが、それだけではなかったのだ。
イーリスは、雨を降らせた少女が蔑ろにされることに憤ったのだ。
同じ雨を降らせる使命を背負う者として、イーリスは彼女への冒涜を許せなかったのだ。
自分の仕事に誇りを持つことは大切なことだ。それ自体は好ましい。
だがそれはそれ。さっきのイーリスの振る舞いが犯罪行為にあたるとしたら厄介だ。パストゥス王国の法律や南部地方の条例なんぞ把握していないから分からないが、もし神事の妨害として扱われれば、重い刑罰を科される可能性だって充分あり得る。
しかし、やってしまったことを悔いても仕方がない。
おいらは一日ぶりの雨水の匂いを胸一杯に吸い込んで、膨らませた胸の端っこのほうに懸念材料を追いやった。
何はともあれ、雨が降ったのだ。
アスカールでのおいらたちの仕事は無事達成。
任務完遂である。