40話
薪木が爆ぜる音と共に、おいらは目を覚ました。
イーリスの口の中ではない。澄んだ空気が肌に優しい。腹はひんやりした水に浸かっている。目を開けると、いつもの桶の板目板が目の前にあった。
頭を上げて暖炉の揺れる炎を見るとはなしに眺めてから、おいらは部屋全体に視線を投げかける。
窓には雨戸が嵌め込まれているため、光源は暖炉の火だけで仄暗い。風が家に吹き付ける音が、耳を澄ませるまでもなく聞こえてくる。たまに家が揺さぶられているような感覚に襲われるのも、気のせいではないだろう。それほど、外は大荒れに荒れているようなのだ。
部屋は広くない。この建物、どうもロッジのようで、玄関と思しきドアの他には出入り口はない。おいらの桶は部屋中央の四角い食卓に置いてあり、奥の壁際にベッドが設えられている。そこに、横たわる二人の姿があった。身動き一つせず眠るセナの胸に手を置いて、浅い眠りをたゆたうイーリスはまるで母親のようだ。
「心配いりません。二人とも無事です」
おいらは声の主にピントを合わせる。
おいらがいる食卓とベッドとの間に安楽椅子を据えて腰掛ける、年齢不詳の美しい女性がそこにいた。
「ピュイさん、と仰るのですね?」
おなかの上に両手を置いて、真っ直ぐにおいらを見つめてくる。その落ち着いた声音は、絶体絶命の危機に瀕したおいらたちを助けてくれた、あの着ぶくれした女性のものと完全に一致していた。
だが、問われたところで返事などしない。ただ喉を上下させながら、その目を見つめ返すのみだ。
いや、強がりはよそう。白状する。女性の全てを包み込むような暖かく優しい眼差しに射竦められて、目を離すことができないのだ。
「あの子があなたを口の中から引っ張り出した時は、本当に驚きました。ピュイさんは、あの子の、イーリスさんの、家族なのですね?」
返事がないのを肯定と捉える人生を送ってきたのか、目の前の女性は唇で微笑みを作る。
「私の言葉を理解していますね。喋れるのではありませんか? あなたから、強い魔法の気配を感じます。ただならぬカエルだということは、お見通しですよ」
その言葉に、おいらは上下させていた喉を止めた。魔法の気配を感じるだって? そんなの、自分が魔法使いだと公言しているようなものじゃないか。
ただならないのはお前さんの方だぜ。
しかしおいらはここで、遅まきながら気づいてしまった。こうやっていちいち反応していることで、おいらが人語を理解しているとバレちまったのだということに。
なんだか急に、しらばっくれているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
おいらの言葉を理解できたのは未だかつてイーリス親子以外存在しないが、物は試しだ。別に減るもんじゃなし。
「言葉遣いは丁寧だが、人に物を尋ねるときはまず自分の身元を明かすもんだって、誰にも教わらなかったのか? そういうのを慇懃無礼って言うんだぜ」
そう言ってやると、女性は目を見開いた。
人間にはおいらの言葉はケロケロ鳴いているようにしか聞こえないはずだが、さて。
女性は瞬きを二度三度と繰り返してから、目尻に慈しみの籠もった笑みを湛える。
「これは失礼しました。私は、メテオーラ・トールと言います。ずいぶんと冷えてらっしゃいましたけれど、調子はいかが?」
メテオーラ。やはりというか、なんというか。探す手間が省けたのは素直に喜ぶべきだろうが、あんまりうまく事が運びすぎるのも逆に不安になる。
それはまぁ良いとして、こうもすんなりおいらの言葉を理解されてしまうと拍子抜けする。魔法使いならおいらの言葉を理解できるというわけではないことは過去に確認済みだ。
となると、やはり雨女特有の能力だと考えるべきかも知れないが、もしそうなら、これまで考えることを避けてきた驚きの事実に直面することになる。
そう、ならばおいらと普通に喋っていたシルムはどうなのだ、という話なのだが。
今回も、それについてはひとまず棚上げだ。このままだと脳みそがパンクしちまう。
まずはメテオーラとの会話に全神経を集中させる。
なぜ会話程度に全神経を集中させる必要があるのかって?
もちろん、イーリスが雨女だと気づかれないように会話するためだ。
ひとつ、同協会及び雨女の存在をなんぴとにも隠匿せよ。
何があっても、オンブロス協会との約定に抵触するわけにはいかない。
「おかげさまで。ところでお前さん、メテオーラと言ったな。アイトリアって名前に聞き覚えはないか?」
慎重に切り出したおいらの言葉に、メテオーラは予想以上の動揺を見せた。
安楽椅子から身を乗り出し、目を見開いて、えっ、と、小さく声を上げたほどだった。
「アイトリアですって? ええ、アイトリアと言えば、私が息子に付けた名前と同じです。でも、なぜ今ここで、息子の名前が」
「おいらたちはアイトリアの母親を探してここまで旅をしてきた。強行軍だったからこのザマだがな、急いだのには訳があるんだ」
メテオーラはおいらを桶から両手で掬い上げた。そして、息のかかる距離で囁きかける。
「アイトリアの身に、良くないことが起きたのですね?」
おいらは軽く頷いた。
勘が良い相手だと、言いにくい話も切り出しやすくなって助かるぜ。
「ここ一年、サルに雨が降っていないんだ。それで、雨乞いの連中が供物奉納の儀をするってんで、生贄が必要だと言い出した。で、選ばれたのがアイトリアってわけだ。そこのちっこいのは、アイトリアのおかげで難を逃れたセナって子だ」
「ああ、見覚えのある顔だと思いました、セナさんだったのですね、少し見ないうちにお姉さんになられて。……って、それどころじゃありません。アイトリアが、雨乞いの儀の供物ですか」
そう口にするメテオーラの表情には、驚きよりも、納得の色の方が濃いように見えた。
「ああそうだ。ここまで聞けば、何故おいらたちがあんたに会いに来たかわかるな? 雨はあんたが去ってからぴたりと降らなくなった。そして儀式は穀雨に行われる。来週の、水曜だ」
「今日が土曜ですから、残り四日のうちにサルに戻り、雨を降らせるのが狙いですね」
真っ直ぐな眼差しを間近でぶつけてくるメテオーラに、おいらはただ黙って頷きを返す。
「わかりました、他ならぬ、故郷と息子のためです。遙々来て下さって、感謝します」
そこまで言って、メテオーラは苦虫をかみつぶしたかのような苦渋の表情になる。
「ですが明日は日曜日。どうしても外せない用事があるのです」
すぐにピンとくる。指令書のことと考えて間違いないだろう。それが、メテオーラが正真正銘オンブロス協会所属の雨女だということを如実に物語っている。
「何が何でも外せない用事なのか? 息子の命がかかってるんだぜ?」
おいらは敢えて試すように訊ねる。イーリスは指令書を無視してここまで来たし、明日ラディアにもたらされるはずの指令書も確認できない。
それがどれほどの約定違反となるのか、メテオーラの口から確認したかった。
「ええ、場合によっては、命を落とすことになるほどの。でも、アイトリアを助けるためなら、やはり私の命など」
命を落とす、だと?
おいらは内心の動揺を悟られぬよう、取り繕うようにメテオーラの言葉を遮る。
「いやいい。明日朝一番でその用事を済ませてくれ。どの道セナがこの様子じゃ、急いだところでしっぺ返しを食らうだけさ。セナに与える休養は、長いほど良いだろう」
「間に合えば、良いのですが」
「間に合わせる。それしかないだろ?」
「一つ確認したいのですが、この大吹雪に、思い当たる節はありますか?」
何気ない口調で問い返してきたメテオーラの目は、暖炉の火を受けて燃えていた。
なんだ、気づかれていたのか。おいらはため息交じりに簡単に返す。
「ああ」
「やはりですか。いえ、安心しました。頼りにしています」
メテオーラはこう言っているのだ。
雨女の力を合わせて、サルに恵みの雨を降らせましょう、と。
メテオーラが約定違反すれすれまで踏み込んだのなら、おいらも一つ、聞かせて貰う。
「メテオーラ。あんたはなぜ、サルを離れた」
その問いに、メテオーラは意外にも、微笑みを浮かべた。
「そういう仕事だからです。断るわけにはいかなかった。アイトリアを連れて行けば障害になることはわかっていましたし、母を一人にするわけにもいきませんでした。誤算は、一年もサルに帰らせてもらえなかったことですね」
その返答は、同業者にしかわからない示唆が存分に含まれていた。
曰く、指令書には逆らえない。
曰く、太陽に愛されたアイトリアを連れて行けば、雨女の任務に支障を来す。
重ねて、指令書の指示がない限り、故郷に帰還することさえままならない。
メテオーラは、おいらの問いかけに可能な限りの情報を詰め込んで応じてくれたのだ。
「そうか、よくわかった。ありがとう」
メテオーラは何も言わずにおいらを桶に戻すと、安楽椅子に深く腰掛け直した。
暖炉の火が相変わらず揺れている。
朝を待ち焦がれる思いと、可能な限りの猶予を求める思いとが交差する。
おいらは揺れる炎に照らされる、メテオーラの憂う横顔を見つめて改めて考える。
雨女であるメテオーラは、おいらの言葉を理解した。
そして、メテオーラとイーリスが同じ場所に存在することにより巻き起こるこの大吹雪。
その二点から、おいらはどうしても考えてしまう。
それは、イーリスの母、シルムもまた、雨女だったのではないかという考えだ。
そしてその考えには、イーリスが母に抱く絶望を、一気に払拭するだけの力があった。
あの嵐の日。イーリスを追い出すように旅立たせたシルムには、そうしなければいけないだけの理由があったのではないか。
全ては想像の範疇であり、今にも消えてしまいそうな幻影に過ぎない。
だが、イーリスもやがて、このことに気づくだろう。
その時にイーリスは、何を思い、何を望むのか。
それを考えると、おいらはこの話題をイーリスに持ち掛けることを躊躇ってしまう。
結局おいらにできることは、イーリスを見守ることだけなのか。
我が子を心から心配するメテオーラを見つめながら、おいらはちっぽけな桶の中で、ただただ時の流れに身を任せることしかできなかった。