39話
そのもう一山を越えるまでの道中が、予想以上に大変だった。
カカル北山山頂から見渡した草原地帯は、足を踏み入れてみれば、酷くぬかるんだ泥炭地だったのだ。少しでもマシな足場を探して歩き回ることになり、えらく遠回りする羽目になった。町がないのも納得の、どうしようもない荒れ地だったってわけだ。
長い泥炭地を乗り越えた後は、ろくな休息も食事も取れないまま登山となり、これまた苦難の道となった。
しかし、二回の野宿を経て辿り着いた名も知らぬ山の山頂で、おいらたちはついに希望のしっぽを捕まえた。
「雨雲だ……」
そう、まだまだ北の彼方にではあるが、確かにそこに雲があった。同心円状に広がる、低く分厚い雨雲が。
「なんだか、町の真上みたいだね」
セナが言うとおり、雨雲の真下にはぽつりぽつりと民家らしき建物が見て取れる。そのどれもが、真っ白に彩られていた。
「しかも、雪だね」
町より北に連なる山々も、すっかり雪化粧をしている。こうまで銀世界を見せられれば、ああ、北国にやって来たな、と感慨深いものがあるね。道理で寒いわけだ。
「あれ、ピュイ、寝てるの?」
そんなつもりは毛頭ないおいらはイーリスに元気な姿を見せようとするが、気持ちに反して体に力が入らない。
これは、もしや。
体が冬眠を求めているってのか!
「寒いもんね、わ、氷が張ってきてるよ。よし、わかった!」
あれ、これは、まさか。
と思っているうちに、イーリスさんはおいらを指でつまみ上げて、大口を開けていた。
だめっ! でも、抵抗できないっ!
というわけで、またもおいらはイーリスの口の中、飴玉の横に鎮座させられることとなった。
「ひんやりーっ」
おいらのほうは生ぬるい世界に放り込まれて徐々に目が冴えてくる訳だが、閉じ込められているのだから手持ち無沙汰極まりない。
イーリスはセナというおしゃべり相手を獲得したため、おいらはただの置物と化しているきらいがある。そんな現状にあって、今の処遇にケチを付けられる立場でもなく。
考え始めるとしょんぼりしてしまうおいらだったが、イーリスは再び足を動かし始める。
いよいよ、メテオーラに会えるかも知れない。
雨雲とメテオーラの強い関係性を知らないセナは、とりあえず町に行こうとしていると思っているだろうが、おいらとイーリスは違う。
イーリスは、真っ直ぐに雨雲の中心を見据えていた。
今日は金曜日。できれば今日中にメテオーラを捜し出し、明日には反転したい。
そのためには、まずは目指すは雨雲の中心だ。
おいらは来たるべき時に備え、イーリスの口の中で体力を温存することに決めた。
山を下り始めてしばらくした頃、蓮の葉だらけの不気味な湖が姿を現した。
「うわぁ、大きな葉っぱだね。乗れそう」
はしゃぐイーリスの気持ちはわかるし、北方にあって水場を中心とした豊かな生態系には感服させられるが、下山を急ぐ身としてはただの障害物でしかない。
湖をぐるりと迂回して下ると、やがて山道は終わりを告げた。
そこにちょうど、休憩にはおあつらえ向きの無人の小屋があった。
小屋での小休止を経て平原を北上するにつれ、おいらたちの上空で霧雨を降らし続けていた雨雲が、とうとう雪を降らせ始めた。
イーリスの口から漏れる息は白く、おいらも隙間風に体を縮こまらせる。
そうして歩くこと数時間、ついに山頂で見つけた雨雲の端とイーリスが連れてきた雨雲とが接触し、おいらたちは初めて別の雨女の領分に足を踏み入れた。
もちろん、たぶんそうだろう、という憶測の話に過ぎないが。
そして二つの雲が重なり合った真下の天候は、遠目にも荒れて見える。雲はその黒さを増し、地上には激しい風雪が吹きすさぶ。かなり厳しい吹雪である。
「わぁ、これは、たいへんだ」
旅に慣れたイーリスも舌を巻く。そもそもこれまでの旅は南方中心で、雨には慣れ親しんでいても雪には縁がなかった。とにかく防寒具がままならない。それはイーリスよりもセナの方が深刻だ。防寒具はカカルで揃えた気になっていたが、吹雪ともなれば話は別だ。フードを閉じて、目だけをのぞかせて進んでも、隙間から入ってくる風が全身を冷やす。
それに、一番外側で冷気を遮断する役目を受け持つのがレインコートでは話にならない。
あっという間に足下に雪が積もり、二人の一歩が重くなる。
セナは荒い息を吐きながら、イーリスの手を強く握りしめて、終始無言で懸命について来る。
そんな中、吹雪の合間に確かに見た。
イーリスが口をぽかんと開けた拍子に、おいらもばっちりその光景を目に捕らえた。
セナを振り返って、イーリスは笑顔を漏らす。
「ほら、町だよ!」
セナはイーリスの指の先を目を細めて眺めると、震えながらこくりと一つ頷いた。
立ち並ぶ家々の影が、確かにそこに存在していた。
しかし、空を見上げても、どす黒い雲が満遍なく広がっているばかりだ。
もはや、どこが雨雲の中心なのか見当もつかなくなっていた。
空模様から人捜しをすることは不可能だ。
あとは町に行って、しらみつぶしに捜して回る以外に方法はない。
気ばかりが急くが、しかし、吹雪は行く手を拒むかのように強さを増す。
先ほどちらりと見えた町も、今はもう吹雪に視界を遮られて見失った。
それでも一歩ずつ着実に進んでいたイーリスの歩みが、唐突に止まった。
半開きになったイーリスの口から外を見ると、セナが両膝をついて肩で息をしているではないか。
「もうちょっとだよ!」
前のめりに倒れ込みかけたセナの体をすんでの所で受け止めて、イーリスはその両肩を揺さぶった。セナの目は細く、意識が朦朧としているようで、口からは白い息が漏れるばかりだ。
吹雪はこちらの状況などお構いなしに容赦なく激しさを増し、二人の肩に雪を積もらせる。
「セナちゃん、しっかり! 立って、あとちょっとだから!」
揺さぶられるに従って、セナの首が前後に揺れる。それだけで、反応がない。これはかなり危険な状態かも知れない。だが、この吹雪の中にあっては足を止めるわけにはいかない。平原地帯なので、避難先となるような木々すらもない。
「どうしよう、ピュイ……!」
「どうするもこうするも、背負ってやるには荷物を下ろさなきゃいけないし、背負ったところでお前さんに運べるかわかりゃしないし」
「役立たず! もういい!」
ぴしゃりと言って、イーリスはリュックに手をかけた。
そのイーリスの手が、背後からにゅっと伸びてきた分厚い手袋の手に掴まれた。
「ぅわっ!」
悲鳴と共に手を引っ込めながら、イーリスは振り返る。
そこには、防寒着をこれでもかと着込んで着ぶくれした、ゴーグルをかけた人間がいた。
そいつは驚くイーリスとおいらをまじまじと見つめて、思い出したかのように手を引っ込めてから口を開く。
「こんな天気の日に、子供が一体なにをしているのですか?」
それはまるで今日の献立でも聞くかのような、場違いなほど平静な女性の声音だった。
「あの、北の町に行きたいんです。でも、この子がもう、歩けなくて!」
危機的状況を必死に訴えるイーリスだが、女性はあくまで落ち着いた態度を崩さない。
「それで、あなたは荷物を捨てて、その子を背負おうとしているわけですね」
イーリスの返事を待たず、完全防備の女性はセナの前にしゃがんだ。そして、そのままよいしょとその背にセナを背負った。
「私が連れて行くので、あなたはついて来てください」
「は、はい」
二言三言のやりとりだけで、イーリスは完全に女性のペースに引きずり込まれていた。状況としては九死に一生を得たと言うべきなのだろうが、この女性、どうにも底知れない。
それに、まだ助かったと胸をなで下ろすには早すぎる。吹雪は猛烈な勢いで吹き付け、まっすぐ歩くのもやっと。すぐ前を歩く女性の背中さえ霞んで見えるほどの悪天候なのだ。
いや、視界が霞むのは、本当に吹雪のせいなのか?
本当の原因に気づいた時には、もはや手遅れだった。
次の瞬間、おいらはイーリスの口の中という好物件に居候しているにもかかわらず、寒さに負けて意識を失ってしまった。