3話
どん!
横手からの、突然の衝撃。
イーリスの体が、否応なく傾く。
桶の水が、空に飛び散る。
それだけでは済まない。
イーリスが手に持っていた飴瓶が、その勢いで宙に放り出される。
「あっ!」
短い悲鳴がイーリスの口を突いて出る。
よろめきながらも懸命に伸ばす指先をかすめて、瓶は無情にも地面目指して落下する。
おいらもイーリスも、地面に衝突する瓶を、ただ見つめることしかできなかった。
だが、そうはならなかった。
突然、瓶の真下にぬっと足が現れたのだ。
と思うや。
その足が、あろうことか瓶を高く蹴り上げた。
「よっと」
高い放物線を描いてイーリスの頭上を超えていく瓶の行方を、後ろを振り返って追う。
瓶は程なくして、その放物線上にあった手が危なげなく受け止めた。
瓶を手にしたそいつは、イーリスより頭一つ分は背の高い、少年だか青年だか、微妙な年の頃の若僧だった。
「ごめん! 怪我はない?」
若僧は心配そうな顔でイーリスの顔を覗き込みながら、瓶を手渡す。
イーリスはと言うと、受け取った瓶をぎゅっと胸に抱きしめたのは上の空での行動だろう。その瞳は若僧をじっと見つめていた。先ほど店主に向けていた探るような上目遣いとは全く別の、熱を帯びた眼差しだった。
イーリスの熱い視線に捕まった若僧は、居心地悪そうに頭を掻く。
「ほんとごめん。俺、アイトリアって言うんだけど、隣の村で鍛冶職人の見習いをしてるんだ。今日はそのお遣いで、ちょっとそこら中走り回っててさ、不注意だった。……大丈夫?」
一人で勝手に弁解を始めた若僧だったが、イーリスはやはり唇を引き結んで、ただただアイトリアなる若僧を見つめている。
アイトリア。どう見ても平民にしか見えない小汚い布の服を着てはいるが、妙にさっぱりとした雰囲気とすっきりした容姿が貴族然とした名前とのギャップを埋めている。
目が覚めるような金髪と青い大きな瞳、彫りの深い顔立ちが、実に好青年然としているのだ。美青年と言ってもまぁ通用するだろう。
明朗快活な美青年。どうにも面白くない。温度と湿度のわずかな変化にも神経を尖らせて生きねばならないカエルの身を与えられた側としては、どうあってもいけ好かないぜ。
おいらが胡散臭そうな眼差しをアイトリアに向けていると、ふいに当人と目が合った。
次の瞬間には顔中を好奇心いっぱいに輝かせて、不届きにも人差し指を槍のようにして突ついてきやがった。こいつ、やっぱりいけ好かねぇ!
「あっ、ピュイをいじめないでっ!」
ずっとアイトリアを見つめていただけに、イーリスの対応は素早かった。
アイトリアの指先がおいらに届くよりも早く、イーリスはその左手でおいらをぐわしと握って安全確保。だが、よくやった、と思ったのはそこまでだ。
あろうことかイーリスさん、おいらを握りしめたままの左手で、大事な大事な飴瓶を掴み直したのだ。必然、抗いようもなく瓶にベッチャリとへばり付くおいら。
ああぁ、ひんやりして気持ちいぃぃ……じゃねぇっ! 潰れる、潰れるからっ!
おいらの悲鳴が耳に入らないのか、イーリスはまたも唇を引き結んで、アイトリアを見つめている。あの、おいらのことを守ってくれるのか虐待するのか、どっちかはっきりしてくれない? ていうか、虐待はやぁよ?
そんな中、おいらの悲鳴に先に気づいたのはアイトリアだった。
「仲良いんだね。そいつ、ペットなの?」
何がおかしいのか、不届きにもぷっと吹き出しながらイーリスにたずねる。
「ペットじゃないもん、家族だもん」
はじめてまともに返ってきた返答に、アイトリアの目がまん丸になる。
「家族。家族って……カエルが家族?」
腰をかがめて目線の高さをイーリスと合わせたアイトリアは、目をぱちくりさせながら首をかしげる。真っ直ぐ見つめ返されて、イーリスの頬がほのかに朱に染まる。
「うんそうだよ。ずっといっしょにいるんだっ!」
イーリスさんイーリスさん、カエルのおいらを隔てなく家族扱いしてくれるのは嬉しいけど、手に力を込めないでっ! おいらの内臓、マジで飛び出す五秒前!
「そうか、とにかく家族なんだね。でも、家族をそんなふうに痛めつけてて良いの?」
指摘されて、イーリスはアイトリアの指さす先、おいらのほうに視線を落とした。
おいらの有様にようやっと気づいたイーリスは、小さな悲鳴を上げた後、手を瓶からゆっくり離した。ふぅ、粘膜が瓶にくっついて離れないぜ。
「ご、ごめんピュイ、だいじょうぶ?」
おいらは頷きとともに、ケロ、と一声返事した。他人が見ている所では、可能な限りイーリスとの会話を控えるのがおいらの流儀だ。それがお互いのためと信じている。
そんなおいらを、アイトリアはまじまじと興味深げに見つめている。
「見たことのないカエルだけど、どこに棲んでたの?」
「ずーっと向こうのほう。ルリアオガエルっていうんだよ」
イーリスは漠然と東のほうを指さして言った。そう、おいらたちの旅は、ずっと遠く東の果て、アーカン帝国の辺境から始まったのだ。語れば長い話になるのだが、アイトリアの興味はおいらたちの冒険譚ではなく、おいらそのものに向いていた。
「へぇ、ルリアオガエルって言うんだ、きれいな名前だね。それに名前通り、きれいな色」
「名前は、ピュイだよ」
「そうか、ピュイか。さっきもそう呼んでたね。でもこいつ、さっきから俺の顔をじろじろ見てるけど、嫌われたかな」
「ピュイ、そうなの?」
二人しておいらの顔をのぞき込んでくるので、どうしたもんかと思案するが、問われたからには答えねばならない。おいらは流儀に反して気が乗らない返事をする。
「おまえのことなんか、別にどうとも思ってないし、どうでもいい、だって」
ほらみろ。イーリスがそのまま伝聞形で言うもんだから、やっこさん、目をぱちくりさせているじゃないか。
「もしかして、こいつの考えてることがわかるの?」
「ううん、なに考えてるかはわかんない。わかるのは、いってることだけ」
おいおい、カエルと会話できることを簡単に公にしすぎだろ。まぁ、おいらのことについては協会とも関係がないし、誰から口止めされているわけでもないから、構わないっちゃ構わないんだが。
それはいいとして、この若僧――
「え、じゃあこいつ、お前のことなんかどうでもいい、って言ったってこと?」
さっきからこいつ呼ばわりしやがって何様のつもりだ、という抗議の声をイーリスが通訳すると、おいらを見るアイトリアの目は、いよいよ輝きに満ち溢れる。
「へぇ~、俺にはケロケロ鳴いてるようにしか聞こえないよ。それに、人間の言葉もわかってるってことだよね、賢いなぁ。俺も君みたいに、こいつと話してみたいなぁ」
「わたし、イーリス。きみじゃないよ」
おいらはそのさり気ない一言に耳を疑った。イーリスが、自ら名乗っただと?
人間不信を極めて久しい人見知りイーリスだぞ。一体、こいつの何がイーリスの心を開かせたっていうんだ。だが待て。単にイーリスが、こいつを信頼できる人物だと認めたというだけの話なら問題はない。
しかし、もしもそれだけに留まらない話だったら?
つまり、普段のイーリスにはあり得ない言動から、おいらは連想してしまうわけだ。
この青空の原因は、雨女イーリスの心理的な変化に起因するのではないか、と。
これは天候の動向と併せて、アイトリアとの様子を注視する必要があるな。
「イーリス。イーリスかぁ、きれいな名前だね」
「ありがと」
何でもかんでも「きれいな名前」で片付けるやつだな。語彙に乏しい名前フェチめ。
名前フェチはニッと笑って、イーリスの髪をわしゃわしゃと掻き回すように撫でた。くすぐったそうに目を細めるイーリスの表情だって、そうそうお目にかかれるもんじゃない。
おいらがアイトリアの顔を糸目で見つめていると、やっこさん、何かを思い出したのか、鳩が豆鉄砲を食ったように、突然表情を引きつらせてイーリスの頭から手を引っ込めた。
「いっけね、油を売ってる場合じゃなかった。そろそろ行かないと」
空いた手で自分の髪を掻きむしってから、アイトリアはぐっと背筋を伸ばす。
「お邪魔しちゃったね。それじゃ、良い昼下がりを!」
登場が突然ならば、去り際も素早かった。
笑顔とともに片手を上げると、振り返ることなく颯爽と走り去って行った。
そんなアイトリアの後ろ姿を、イーリスは見えなくなるまでずっと眺めていた。
「えらく気安い野郎だったな」
と、話を振ってみても、上の空のイーリスさん。当然のように返事はない。
やはりこれは、重傷かも知れない。
おいおい、これはなんだか、本格的に嫌な雲行きになってきたんじゃないか?