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片時雨のイーリス  作者: せき
第三章
39/46

38話

 二人が連れ立ってホテルをチェックアウトしたのは、夜が明けるのと同時だった。

 北を目指す上で必要な準備は、昨日のうちにすべて済ませていた。もちろん何が起こっても対処できると言えるほど万全ではない。最低限の備えを整えたという程度の意味だ。

 夕飯の後に道具屋で買ったリュックは、ほどよく詰まってセナの背中で揺れている。手練れが選んでくれたセーターなどの防寒着もその中だ。

 カカルの北門は、そのまま山道へと続いていた。

 最初は果樹園が広がっていたが、少し歩くと背の高い針葉樹に切り替わり、空を覆い隠した。枝葉の隙間を縫って落ちてくる雨粒はごくわずかなので、二人は傘を畳んで歩く。

 どんより曇った空さえ見渡せないまま、薄暗い山道を黙々と歩く。

 だか、そんな静寂も長くは続かなかった。

 最初に気づいたのはおいらだ。来た道から、草木が不自然に揺れる音や、石が転げ落ちる音が聞こえてきたのだ。

 遅れて気づいたイーリスが振り返って、セナの手を強く握る。


「なにかついて来てる。熊だったら、どうする?」


 セナが不安そうな顔を向けるのも無理はない。どうするも何も、その時は逃げるしかないのだから。そんな洒落にならないことを口にしながら笑うのは自粛してほしいものだ。余裕があるのは良いことだが、時と場合をわきまえなさいと諭したい。

 雨が降り注いでさえいれば冗談歓迎だが、何せ今は、雨が木々に遮られているのだから。

 どうしたって、地面に含まれる水分が足りない。

 何の話かって?

 今に分かるかもな。

 突然、谷側の針葉樹林の陰から男が現れた。それも一人じゃない。

 ――四人、五人、いや、六人だ。

 背後ばかり気にしていたおいらたちは、完全に虚を突かれた。

 男たちは手にそれぞれ剣や斧を携えている。一目見ただけで、おいらたちと仲良くするためにやって来た森のお友達でないことがわかった。落胆せざるを得ない。


「お嬢ちゃんたち、ちょっと待ちな」


 先頭の赤いターバンを巻いた男が声を上げつつ近づいてくる。

 しかしイーリスはちらっと下方を見ただけで、何事もなかったかのようにペースを変えずに道を進む。手を引っ張られるセナは、野蛮な男たちに睨めつけられて相当動揺しているが、イーリスに従う以外に選択肢はない。


「おいおい、無視とは賢くねぇぜ。お嬢ちゃんたち、裕福なんだろ? おじさんたちは全部お見通しなんだぜ?」


 あー、思い当たる節が多すぎる。カカルで景気よく買い物し過ぎたか。なんて、反省したところでしょうがない。まずは現実を直視しようじゃないか。

 イーリスの歩調に合わせてついてくる男共は、一様に不潔な感じの服装に身を包んでおり、その下の肉体は筋骨隆々といった風情だ。よく見れば、ターバンは最初の男だけでなく、全員が巻いていた。ただ、赤いターバンを巻いているのは一人だけだった。

 返事がないことに早くも業を煮やしたのか、赤いターバンの男は、先ほどまでのからかうような軽い声音から、低くドスの効いた声に変じさせる。


「ここまで言えば分かるよな? さっさと観念して金品寄越せや。それだけじゃ済まさねぇ、お嬢ちゃんたちだって値打ちもんだ、全部まとめて、差し出しな!」


 恫喝と共に、赤ターバンの男はイーリスめがけて一直線に崖を駆け登り始めた。後続の男共も追随する。

 が、イーリスも後れを取ることなく動いていた。比較的登りやすそうな崖にめどを付けて、山道から逸れて駆け上がる。足場に気をつけて駆け上がりながら、枝を落としたり岩を蹴り落としたりという、上を取っている地の利を活かした割と容赦の無い攻撃を仕掛ける。ついてくるセナがとばっちりを食わないよう、四方八方に細心の注意を払いながら動いている。

 だが、いくらイーリスが孤軍奮闘したところで、セナを庇いながら走るのは圧倒的に不利だった。ついに赤ターバンがイーリスの背後に付き、左右を鼠色ターバンに挟まれる。

 その時、視界がぱっと開かれて、降り注ぐ雨がおいらを叩いた。

 尾根に出たのだ。ターバンズは足を止めた二人を瞬く間に取り囲む。


「さて、年貢の納め時だ。暴れなければ、悪いようにはしないぜぇ?」


 舌なめずりしつつ荒縄を構えるのは、赤ターバンの隣に立つ恰幅のいい群青ターバンだだ。赤ターバンと群青ターバンが一歩踏み出したその時。

 イーリスが五本の指を見せつけるように片手を突き出した。


「待って」


 ターバンズが怪訝そうな顔をした一瞬の隙を突く。

 イーリスは、早口で捲し立てる。


「ここの土はやわらかい。まさに泥。むしろ泥沼底なし沼」


 それが呪文の詠唱だと気づいた者は、おいらを除けばこの場には一人もいなかった。

 そして、たとえそれが呪文の詠唱だとわかったとしても、この呪文を防ぐことは不可能だったろう。


「な、なんだ!?」


 最初に声を上げたのは、イーリスに一番近寄っていた赤ターバンだった。見れば、そいつの足がずぶずぶと地面に沈んでいっている。同様の現象が、残りの五人にもすぐに訪れる。


「どうなってるんだ、おい何しやがった! 抜けやしねぇぞ!」


 瞬く間に赤ターバンの男は腰まで地面に埋まった。注意深く見れば、男と地面の境界が液体のように波打っているのが見て取れる。だが、男たちは状況を分析できるほど冷静ではなかった。手をばたつかせながら声を荒げることしかできない。

 セナが青い顔をして見守る中、遂に六人の沈没が止まった。

 生首六つと十二本の手が、地面からにょきりと生えているという、なんとも前衛的な芸術作品のような代物が、カカル北山の尾根に完成していた。


「この野郎ーっどうなってやがるんだーっ」


 苦しそうに呻く赤ターバンに、イーリスは腕を組んで、フンと鼻を鳴らす。


「なんで教えたげなくちゃならないのよクズ。悪いことばかり考えてないで、まじめに働けゴミ!」


 イーリスはターバンズに罵りの言葉を浴びせるだけ浴びせて、そのまま振り返ることなくすたすた歩いて行く。その体は、小刻みに震えていた。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 セナが握る手に力を込める。イーリスは弱い微笑みを返す。


「ん、だいじょうぶ。土が堅かったから、ちょっとつかれただけ」


「さっきの、魔法なの?」


「うんそう、どろんこ魔法」


「お姉ちゃん、魔法使いだったんだ!」


 セナの羨望の眼差しももっともだが、イーリスのような小娘が一人旅をするとなれば、何らかの護身術が必要なのもまた道理。それがたまたま、イーリスの場合はどろんこ魔法だというだけだ。


「セナだって、なれるかもよ」


「え、なれるって?」


「魔法使いに」


「そんなわけないよ、私には無理だよ」


 イーリスは後ろを振り返ってターバンズがついてこないことを確認すると、ふうと一つ息を吐いた。そして、改めてセナに微笑みかける。


「ま、わかんないけどね!」


 実際、イーリスだって泥の精霊リームスの加護を得るのに一年を要したのだ。それも、シルムによる血の滲むほどの修行に耐えての一年だ。そう簡単なものではない。

 魔法を操るには、まず精霊の加護を得る必要がある。その上で実用できる領域まで魔法の効果を高めるには、地道な修行を続ける他ない。一般に魔法使いとは、人々の役に立つ魔法を使う者のことを指し、ごくわずかな人数しか世に知られていない。

 厳しい道であることは、イーリスが誰よりも知っている。にもかかわらず、イーリスはセナが魔法使いになれるかもしれないと言った。そしておいらも、あながちただの軽口とは言い切れないんじゃないかと感じている。

 精霊は、純粋で美しい心の持ち主を好む。必然、精霊の加護を得られるのは子供のうちに限られる。その点セナの心の美しさは、ここ数日行動を共にしただけでも希有だと太鼓判を押せる。

 それに、深い事情は知らないが、セナも相当苦労しているようだし、それくらいの恩恵があってもいいんじゃないかと思うのが人情ってもんだ。

 精霊の加護さえ得られれば、あとは努力の問題だしな。


「魔法使い、かあ」


 セナはイーリスの横に並んで、優しい霧雨の降りしきる尾根を歩く。

 そして、二人はついに頂上に辿り着く。


「うわぁ……」


 イーリスの口から感嘆の声が漏れる。

 セナはと言えば、息を飲んでその景色に見入っていた。

 霧雨が空を閉ざすのは先三マイルほどまでで、その境目を越えた裾野には、色とりどりの草花が日の光の下伸び伸びと生い茂っている。その先を見渡せば草原地帯が広がり、青々とした草が風に揺れている。そして広大な草原の更に北には、山々が壁のように立ちはだかっていた。


「綺麗……」


 思わず感動を口から漏らすセナの隣で、イーリスは苦笑する。


「でも、どこにも町がないね」


「えっ」


 言われて首を巡らせて、見渡せる限りを見渡すセナだったが、イーリスの言葉通り人工的な建物は何一つ見つけられなかった。


「しばらくお風呂にも、入れないねー」


 別に嘆く様子はない。イーリスはあくまで事実を口にしているだけだ。おいらたちにとっては日常茶飯事のことなので、大きな問題ではない。


「うん、大丈夫!」


 元気よく答えるセナは、どこまでも健気だ。


「そか、よかった。それより、まだまだ先は長そうだよーっ」


 イーリスが口にしたのは、根拠のないただの悲観ではない。

 雨雲がこの先見渡す限りどこにも存在していないことから、メテオーラが近くにはいないだろうという仮説を踏まえた言葉だった。

 もう一山越えて、雨雲が見つかれば良いが。

 おいらはイーリスの頭上から、目を細めて空を眺めていることしかできなかった。


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