37話
落ち着いたピアノのメロディーが流れるロビーは広く、落とされた照明が実にムーディーである。そんな中駆け込んできた二人の少女に、ピアニストはぴくりと眉を動かし、受付の男は口髭をしごいた。ちなみに、やはり二人とも小ぶりの眼鏡をかけていた。
「あの、今晩泊めてください。朝に出て行きます」
口髭の男が何か口にするよりも早く、イーリスは紹介状を差し出した。
男は口髭から手を離して、二人を値踏みするように眺めてから紹介状を受け取った。紹介状が斜向かいの手練れによるものだと分かって、ようやっと髭は二人を客と認識する。
「いらっしゃいませ。一泊ですと、一部屋で一万カンになりますが」
「その部屋、お風呂ついてますか?」
「バス付きですと、一部屋二万カン」
「じゃあ、そっちで」
いよいよ目を剥く髭に、イーリスはカウンターにぽんと二万カンを出した。
「た、たしかに。おい、お客様をお部屋までご案内して差し上げなさい」
髭は小ぶりの眼鏡をかけた青年を呼び寄せてから、イーリスに部屋の鍵を手渡した。
「どうぞ、ごゆっくり」
街に着いて一時間と経たないうちにえらく散財しているような気がするが、いつものことと言えばそれまでだ。今後も協会からお給金がもらえるのならば気にするほどではないのだが、そこが怪しいのだから冷や汗も掻くというものだ。
当の本人は、今や入浴することしか頭にない。部屋に飛び込んで浴室を確認するや、セナの服をひっぺがし、自分の服も脱ぎ捨てて、かけ湯する間も惜しんでセナをバスタブに突き落とした。
もちろんおいらは誇り高き紳士だから、実際に目にしたわけじゃない。ソティルの件で懲りてるしな。
勝手に耳に入ってきた音声情報を元に、簡単に説明しただけだと弁解しておく。
ホテル備え付けの大人用バスローブを引きずりながら浴室から出てきたセナは、別人かと見間違うほどの変貌を遂げていた。
もしかしたらセナは、長いこと風呂に入っていなかったのかも知れない。
くすんだ茶色だった髪は輝かんばかりのアッシュブロンドに様変わりし、潤いを取り戻した肌からは健康的な柔らかさが見ただけで伝わってくる。
何故か勝ち誇ったような表情をおいらに向けるイーリスもさっぱりしているが、またいつもの旅装束を着直しているからには、予告通りブティックに再訪する気満々なのだろう。
そしてそれは近い未来の話などではなかった。
イーリスはおいらを桶に放り込むと、セナの手を取って直ちに部屋を出た。
バスローブの裾を気にしながら走るセナの姿は実に天使だった。
完璧な一礼で見送る手練れの先には、見事に生まれ変わったセナの姿があった。
キュロットスカートに襟付きのシャツといった動きやすい服装ではあるが、さすが手練れ、白と空色の配色が絶妙なコーディネートになっている。シャツの上に羽織る紺色のレインコートは、デザインもさることながら機能性抜群で、前を締めてフードを被れば、大雨の中でも足下以外は雨をシャットアウトできる優れ物だ。
しかしその足下に目を向けると、いつ朽ち果ててもおかしくなさそうなボロボロの靴が、以前のセナの面影となって残っていた。
足下をじっと見つめているセナの肩を、イーリスがポンと叩く。
「靴は、そのままのほうがいいよ。今新しいのに変えたら、ぜったい痛むから」
その言葉に、セナは首を横に振る。
「ううん、そうじゃないの。こんな高い服買ってもらって、悪いなって。私には、この靴がお似合いだよ」
苦笑いを顔に貼り付けるセナの肩を、イーリスはガシッと掴む。
「いいの。これはわたしからのプレゼントなんだから。セナちゃん勝手について来たんだから、プレゼントくらい、受け取りなさいよね」
間近でイーリスに凄まれれば、無理を言ってついて来ている立場のセナとしては頷くしかない。それを見たイーリスは、笑顔を満面に浮かべる。
「よろしい。似合ってるよ、セナちゃん!」
言って、ホテルに併設されたレストランのスイングドアを押して中に入る。
小さな来客に気づいた先客たちが、二人をジロジロ見た。
恐縮するセナに構わず、イーリスはウェイターを呼んで、長い注文を始める。
ここでもまた、景気よく万札がばらまかれたことは言うまでもない。