34話
おいらはある日のことを思い出していた。
あれは酷い嵐の夜だった。
イーリスが、突然あの山奥の家から追い出された日のことだ。
「この書状に書いてある場所に行きなさい。そして、そこでの指示に従いなさい」
「え、なに? 母さん、どういうこと?」
イーリスは戸惑っていた。それは、いつものように血の滲むような修行を終えて、いつものように母子で連れ立って家に帰ってきた矢先のことだった。
「今すぐ、家を出て行きなさいって言ってるの。着替える時間くらいはあげる。荷物はここに準備してある。背負えるでしょ、そのための修行だったんだから」
「今からって、なんで? 母さんも、いっしょだよね?」
「分からない子ね、もう、あんたとはこれっきりだって言ってるのよ。この日のために、この二年間、ありとあらゆることを教えてきた。分かるわよね?」
イーリスは押し黙る。体中に癒えきっていない生傷があるのはイーリス自身が一番よく知っている。イーリスの母、シルムの厳しさは、時に常軌を逸していた。それでもイーリスが一生懸命耐えてこられたのは、それが母の愛によるものだと信じていたからだ。
それが今、足下から崩れ去ろうとしていた。
「とにかく、今すぐなの! まだ字が読めないことは分かってる。ピュイと一緒に行くの。書状はピュイに読んでもらいなさい。分かったわね、ピュイ!」
当然おいらもなにも聞かされておらず、この時はイーリスと一緒に混乱していた。
おいらもイーリスも、シルムがどうしてそんなことを言い出したのかわからないまま、されるがままに従った。
気づいた時にはイーリスは服を着替えさせられ、リュックを背負わされ、頭に桶を付けられていた。仕上げとばかりに、おいらがその中にちゃぽんと落とされる。
「じゃあね。もう、あんたとあたしは二度と会わないと思う。あたしのことなんか忘れなさい。憎んでくれてもかまわないけど、とにかく逞しく生きなさい。分かったわね!」
そう言い放って、シルムはイーリスを豪雨の中に放り出した。
振り返るイーリスに、罵声を浴びせる。
「こっちを向くな! 前へ進め! あんたが生きられる道は、そっちにしかない! 今度振り向いたら、あたしがあんたを刺し殺す!」
シルムは決して嘘をつかない女だった。
イーリスは雷にでも撃たれたかのように背筋をぴんと伸ばして、前を向いた。
まだ小さかったおいらは、桶にへばり付いているのに必死だった。
結局おいらとイーリスは、豪雨の中、一度も振り返ることなく山を下りた。
それ以来、おいらたちはシルムの言いつけ通り、書状――オンブロス協会の指令書に従って、ただただ日々を生き存えている。
あのときのシルムの真意を知らぬまま、再会することもないままに。