32話
セナの足音が遠ざかるのを確認してから、ばあさんはゆっくりと口を開く。
「お主、その若さで一人旅をしていると言ったな。しかもこの干魃地帯に傘二本。極めつけはその桶の蛙。東方の雨林帯にしか棲息しないと言われる瑠璃青蛙ときたもんだ」
じっとイーリスの瞳をのぞき込んで、重々しい声を喉から絞り出す。
「そういうことで、良いな?」
「そういうこと、って?」
おいらはすぐにピンときた。と同時に戦慄する。
ばあさんはイーリスが雨女なのかと問うているのだ。いや、ばあさんが雨女について何か知っているという予感はあった。だが、それを指摘してくるとは考えていなかったのだ。なんせおいらたちは、自らの素性を明らかにできないのだから。
そしてばあさんは、その事情すら知っている。だからこそ、濁して確認してきたのだ。問われたイーリスはただ頷けばよかった。イーリスが問い返したところで、補足の言葉が返ってくるはずがないのだから。だが、そんな確認すらも蛇足だったと言わんばかりに、ばあさんは言葉を続ける。
「いや、良い。ここからは独り言だて」
と言って、イーリスから目を逸らして語り始める。
「アイトリアの母、私の娘じゃが、メテオーラは不思議な女でな。あやつがいると妙によく雨が降る。そう言えば、ここに雨が降らなくなったのは、あやつが旅に出てからかのぅ……」
おもむろに茣蓙に横になる背中を、おいらとイーリスは食い入るように見つめていた。
イーリスも自分が雨女だと気づかれたと悟ったのだろう。
そして、アイトリアの母、メテオーラも雨女なのだということも。
おいらもイーリスも、雨女について他人から聞かされるのは初めてのことだった。それだけじゃない、イーリス以外の雨女の存在を知ることすら初めてだ。
つばを飲み込むイーリスに構うことなく、ばあさんはこの上なく重要な独り言を続ける。
「確か北へ向かうと言っていたな。もう一年にもなるから、今はどこにいるやも知れんが、それ以外手掛かりはないからなぁ。あやつのことだ、雨雲と共にあることは間違いなかろうがなぁ」
そこまで言うと、ばあさんは一つため息を吐いて、片目だけおいらたちのほうに向けた。
「なんだ、まだ居たのか。セナにはああ言ったが、私の世話など要らんから、自分たちのすべきことを、きっちりすることだ」
「……北へ行って、ここにメテオーラさんを連れてこればいいの?」
「すべきことをすればいい。私は、おまえさんが何をすべきかまでは、面倒見切れんよ」
「うん、そうだよね。じゃ、行くよ」
「ああ、達者でな」
イーリスは一つ頷くと、さっと立ち上がった。決断の早さは折り紙付きだ。
だが、まだだ。まだ足りない。
おいらはイーリスに待ったを掛ける。
「まだ大切なことを聞いてないぜ」
おいらの鳴き声を耳にして、ばあさんの視線がこちらに向く。
「何故、雨が降らないのか。知ってるんだろ?」
それを聞かない限り、根本的な解決は望めない。
イーリスもそれに気づいて、おいらの言葉を通訳する。
「……どうしてわたしじゃ、雨が降らないの?」
おいおい、ちょっと聞き方がまずいんじゃないのか、と思う暇もなく、イーリスは言葉を重ねる。
「何がわたしを、邪魔してるの?」
うーむ、絶対に外に漏れたらいけないことを言ってくれる。
だがばあさんの視線は爆弾発言を投じたイーリスにではなく、なおもおいらに注がれる。
「やはり、そうやって同行している限り、ただのペットではないと思っておったが。いや、皆まで言うまい。瑠璃青蛙よ、私に免じてそれは聞かんでくれ。メテオーラを連れてこれば雨は降る。それでアイトリアは助かるじゃろて」
その返答は予想できたものだった。だからおいらは、最後に一言投げかける。
おいらの言葉にイーリスは息を飲んだが、今度はそのままばあさんに問いかける。
「アイトリアが死んだら、雨は降るの?」
ばあさんの呼吸が、止まった。
そして、喉の奥でくっくっと笑う。
「アイトリアを助けておくれ。それが私の願いじゃ。それでセナも、救われる」
やはり、そういうことか。
ばあさん、どれだけの秘密を握ってるんだよ。
おいらは内心で舌を巻きながら、別れの言葉を告げる。
「ああ、それだけ聞ければ充分だ。ばあさんも、体には気をつけなよ」
おいらの鳴き声に、ばあさんは頷きながら手を上げて応えた。
イーリスは一つ頷いてから、きびすを返してすだれに向かう。
去り際、ばあさんが微かな声で囁いたのをおいらは聞き逃さなかった。
「頼んだよ」
返事をするまでもない。おいらたちにはもう、迷いはなかった。