30話
相変わらず枯れた瓶が並ぶ石造りの家々を眺めながら、ひび割れた地面を歩く。
どこか様子がおかしいことには、村に入ってすぐに気づいていた。
村の東側の入り口に人の気配がないのはいつもと同じだったが、どうも向かう方角から喧噪のようなものが聞こえてくるのだ。そして、これはおいらの考え過ぎかも知れないが、なにやら空気が張り詰めているように感じるのだ。
しかし悪い予感ほど当たるもので、喧噪も緊張感も、歩を進めるにつれて高まってくる。
そして細い通りから中央広場に入った途端、喧噪と緊張の原因を目の当たりにする。
広場中央に舞台が設けられ、そこに壮年の男と見覚えのある少女が上がっていた。その二人に人々の視線が集まっている。
少女は顔や体を紺のヴェールとガウンで覆い隠しているが、影武者でもない限りソティルと見て間違いない。男の方は、貴族然とした小綺麗な服装を身に纏っていることから、村外の実力者ではないだろうか。舞台の周囲は、雨乞いの儀の際にいつも裏方作業をしている装束の者たちが取り囲んでいる。
何が起こるんだ?
しかしなんだ、この胸騒ぎは。
ソティルの表情はヴェールで覗えないし、貴族風の男は無表情。だが、村人たちからは恐怖と不安の相がありありと滲み出ている。
ソティルやアイトリアが口にしていた、不穏な言葉が脳裏をよぎる。
胸騒ぎがとまらない。
「静粛に!」
装束の者の一人が叫んだ。続けて、周りの装束の者たちが声を合わせて叫ぶ。
一瞬にして静まりかえった広場の中心で、貴族風の男が一歩前に出て咳払いをした。
「さて皆の衆、よくぞお集まり頂いた! 今日こうしてお集まり頂いたのは、他でも無い、私、オクシュ・ブライトンの息女にして、雨乞いの巫女たるソティル・ブライトンから、重大な報せがあるからだ!」
皆の視線が隣のソティルに誘導される。
「巫女の言葉は神が授け賜いし神聖な御言葉、心して聴くように!」
ソティルの父親、オクシュが一歩下がる。同時に舞台中央に移動したソティルが、よく通る澄んだ声で語り始める。
「サルの地に雨が途絶えて早一年。豊穣の神ナーガはお怒りである。我への感謝が、供物が足りぬと」
芝居がかったソティルの声に、群衆はざわりと揺れる。
ソティルは周囲の反応など一切受け付けず、衝撃的な内容を、朗々と続けた。
「生贄じゃ、生贄の儀式じゃ。この村で最も精気溢れる者の生き血を、神はお求めである」
そこまで言うと、用意されていた台詞を言い終えたのか、ソティルは一歩下がった。
嫌な予感は、裏切らない。おいらはアイトリアやソティルの不吉な言葉から、雨乞いの儀の行き着く先がこうなることを、漠然と予期していた。
とはいえおいらが予期していたのはここまでだ。これから何が起こるのかはわからない。
だが、どう転んだところで良くないこと以外起こりようがない。
群衆は不気味なほど沈黙している。
おいらの胸騒ぎをよそに、改めて前に歩み出たオクシュが、ソティルの言葉を引き継ぐ。
「皆の衆、今耳にされた通り、神は精気溢れる若者をお求めだ! 我こそはと名乗り出る者、前へ!」
群衆が揺れるが、イーリスの頭上からでは何が起きているのかわからない。
正気の沙汰じゃない。自分から生贄になろうなどという者がいるはずがない。
だが、その時。野太い男の声が辺り一面に響いた。
「この子だ、この村で一番若いこの子こそがふさわしい!」
その声に遅れて舞台の真ん前に押し出された少女を見て、おいらは息を飲んだ。
その少女は、オクシュを見上げて、蚊の鳴くような声で名を名乗った。
「はい、私はこの村で一番若い、セナといいます」
嘘だろ、誰だよセナを推挙した馬鹿野郎は。こんな少女を生贄に仕立て上げるのかよ!
狂気じみている。周りの大人たちは、ただただ傍観するばかりなのだ。
震える唇で名乗ったセナに対して、オクシュは鷹揚に頷いた。
「ではセナよ、そなたに命ずる。これよりそなたは、」
「待った!」
叫び声と共に、青年が舞台に駆け寄り、そのまま飛び乗った。
見紛うはずはない、青年はアイトリアその人で、セナを庇うように手を広げてオクシュの前に立ちはだかる。
「セナはこの村の生まれじゃないから部外者だ。生贄には俺がなる。俺は先代呼び水の贄の息子、アイトリアだ!」
オクシュは突如現れたアイトリアをまじまじと見つめている。
群衆はあくまで群衆であることを貫き、成り行きを見守るばかりだ。
動いたのはセナだけだった。セナは舞台に上ると、気遣わしげにアイトリアの片手に指を絡ませた。
そんな束の間の空白の後、オクシュが一つ頷いて、厳かに口を開く。
「そうか、呼び水の贄の息子アイトリアよ、そなたならば資格は充分だ。異論のある者は?」
群衆を見渡したところで、水を打ったような沈黙が広がるばかりだ。セナのことを押し出した野太い声の男くらいは異論を唱えても良さそうだがそれもない。
オクシュは反応がないことを無言の肯定と捉え、重々しく頷く。
「では、アイトリアよ。改めてそなたに命じよう。これよりそなたは、来たる穀雨に執り行う供物奉納の儀に向けて、神への供物として準備を致せ。良いな?」
穀雨とは、二十四に区分された暦の一つだ。今年の穀雨は、確か来週の水曜日。
ここからではアイトリアの背中しか見えない。だが、アイトリアがはっきりと頷いたのは見てとれた。それが何を意味するのかも察せられるが、かと言っておいらにできることは何もない。
しかし、イーリスは暴れ出すかもしれない。そう心配になって、額にへばりついてその顔を覗き込んだ。だが、それは杞憂だった。
そこにあったイーリスの目は、真っ直ぐに空だけを見つめていた。
「雨が、降りさえすれば……!」
おいらも空を見上げてみる。太陽が西の大地に沈み行き、空は紫と橙に二分されている。
そこには一片の綿雲すらなく、一番星が空を独り占めにして輝き始めていた。
イーリスは冷静さを失っていない。ただ激烈に、自分が雨を降らせられないことを責めている。噛みしめた唇が血の気を失って真っ白になっている。
つまりイーリスは自分の仕事を全うすることでアイトリアを救いたいと考えているのだ。そこに生まれる懊悩は、何物にも替え難く清い。
おいらは違った。聞いた瞬間から、とにかく雨乞いのやり方に反感を抱いた。そして、そんなものぶち壊してやればいいと思った。おいらはそんな自分を恥じる。それでは嫌いなものは食べない、嫌なことがあると駄々を捏ねる、そんな子供と変わらないではないか。
おいらは知らぬ間に成長していたイーリスを誇りに思うと同時に、冷静さを取り戻した。
それぞれの思いが錯綜する中、オクシュによる演説は終盤を迎える。
「ではここに、来たる翌週水曜日、穀雨に供物奉納の儀を執り行うことを宣言する。皆の衆、それまで渇きに耐え、どうか命を繋いでくれたまえ!」
オクシュはそれを結びとし、親子並んで舞台から降りていく。残ったアイトリアは、装束の男たちに囲まれて腕を掴まれた。それを見た瞬間、イーリスは駆け出していた。
あれ、冷静じゃなかったの? と、突っ込む暇さえなかった。
「ちょっと、どこへ連れて行くのよ!」
群衆の流れに逆らって、アイトリアを連行する装束の男の腕を掴む。なんだか見覚えのあるおっさんだなと思ったら、アスカールで、身悶えるソティルを舞台下に下ろした時に立ちはだかった奴だった。
「またお前か、邪魔ばかりしおって!」
一行のしんがりを務めていたそいつが通すまじと立ちふさがったため、アイトリアとの距離がどんどん離れていってしまう。
「どいてよ、アイトリアを返して! 雨は降るから!」
「貴様、本当に無知だな。彼は七日七晩かけて、神への供物へと昇華するのだ。そのために地下祭儀場に籠もらねばならぬ。貴様の相手をしている暇などない。そもそも彼は、先ほどの宣言により、既にこの世の存在ではなくなっているのだ」
「そんな……でも、今度の水曜までまだまだあるし、それまでに雨が降れば、こんなのおじゃんだよね?」
「ずっと雨が降らないから、こうして生贄の儀式を執り行わざるを得ないのだ。よそ者の貴様には、村人の乾きと絶望は解せぬだろうがな」
嘲笑と共に言われて、イーリスは言葉を詰まらせた。事実、雨女の力を持ってしても、雨を降らせられないのが現状なのだ。
「気持ちはわからんでもないが、彼のことは忘れろ。それが、運命というものだ」
諭すように言って、男は一行の最後尾に戻っていく。アイトリアの姿はもはや見えない。
イーリスは、何一つ言い返すことができなかった。
唇を噛みしめ、拳を握りしめて、
立ち尽くすことしかできなかった。