2話
訪問者を歓迎する横断幕が、乾いた風を受けて懸命にたなびいている。
土埃が舞う街からは、干魃被害にも屈しない商売人たちの喧噪が聞こえてくる。シートスからの道中、行き来する荷馬車の少なさが気になっていたのだが、杞憂だったようだ。
「やっぱり、雨、降らないねっ」
言葉と共に、横断幕の真下、街と街道の境を両足ジャンプで跨いだイーリスは、その場で思いっきり背伸びを始める。
「でも、太陽サンサンで、きんもちいいねーっ!」
「ああ、ずっと雨降りだったからな」
「うんうん。これだけ天気がいいと、お洗濯したくなるねっ!」
「なーにがお洗濯だ、服なんて、自分で洗ったこともないくせに」
「むーぅ」
すっかり姿を消した雨雲が心配だが、イーリスがいつになく上機嫌なのは悪くない。しかし、日差しが気持ちいいのは分かるが、いつまで背伸びしているつもりなんだ。
「膨れるのはいいが、街の入り口で立ち止まるのは感心しないぜ。通行の邪魔になる」
「わかってるよぅ、ピュイがいじわるいうからじゃない」
イーリスが頬を膨らませたのは一瞬のことだった。目抜き通りを歩み始めれば、すぐに笑顔を花咲かせる。
干魃の影響か人通りこそまばらだが、さすがは首都シートスと水産の街ラディア、繊維の街カカルの中継点だけはある。各地の商人が競うように色とりどりのテントを張って露店を営んでいる。
「わ、あれは、もしかして!」
声を上げるや、黄色いテントの露店に一直線に向かっていく。陳列棚に激突する寸前で急停止したイーリスは、その商品群を目にするや、両手を頬に当てて恍惚の表情を浮かべる。
「わぁぁ、おたからだらけだぁぁ……」
イーリスの視線の先には、彩り豊かな飴玉が各種豊富に並んでいた。真っ黒なもの、真っ青なものから、いろんな色が混ざって渦を巻いたようなものまで、種類ごとに区分けされること十種以上。その奥には干し菓子や焼き菓子もあり、香ばしい匂いを漂わせている。だが、イーリスの目は、飴玉が並べられている手前の棚に釘付けだ。
「ど、どれも、おいしそう……」
涎を飲み込むイーリスを、おいらはあきれつつも待つ他ない。
ふと、視線を感じて前を見てみれば、目の前に髭面の禿親父がいた。薄汚れてはいるが、前掛けをしているから分かる。駄菓子屋の店主で間違いないだろう。それだけ分かったところでおいらは店主に対する興味を失ったのだが、店主の方は未だにおいらをジロジロ観察してやがる。
だが、おいらは怒ったり、ガンを飛ばしたりなんてしない。
考えてもみろ。
年端のいかぬ少女の頭になにやら桶が結わえてあるだけでも珍しかろうに、その上その桶にはカエルが居座っているんだぜ? こりゃどういう大道芸なんだって、店主の立場なら不思議がるのが当然ってもんだ。
おいらは不躾な視線を寛大に受け止め続ける。もしおいらが気を変えて「何ジロジロ見てんだよコラ」などと不平を口にしたとしても、どうせ店主の耳にはカエルがケロケロ鳴いているようにしか聞こえないのだから意味がない。
おいらの言葉を理解できる人間に、イーリスを除けばあと一人しか出会ったことがないのだから、喋る気にならないのもわかるだろ?
さて、おいらと店主との間に起きた視線のぶつかり合いなど気にもとめず、イーリスはすっかり飴玉に魅入っていた。だが、おいらはイーリスが長々と品定めするのは時間の無駄だと知っている。イーリスが最終的に下す結論は、結局いつも同じなのだ。
イーリスは飴玉から顔を上げて、髭面禿親父店主を上目遣いに見る。
大人に対して極度の猜疑心を抱くイーリスだが、口を開けておいらの観察を続ける店主の間抜け面にひとまずは警戒を解く。
「えっと、すみません」
イーリスに声をかけられて、店主はその目をおいらからイーリスに向ける。
「ぜんぶ、ひとつづつください」
そう、イーリスは結局いつも全部買いをオーダーする。おいらにとってはお決まりの一言だったが、イーリスの頭上にばかりを気を取られていた店主は、へ? と、貴重な大口顧客に呆け面を返す。
「あの、ここのアメちゃん、ぜんぶ、ひとつづつください」
顔を近づけてくる店主の吐息から逃れるように後退しながら、背中のリュックを前に回して、その中をごそごそと漁り始める。程なくして取り出した物を店主に突き出しつつ、上目遣いで注文する。
「この中に、入れてください」
促されるままに店主が受け取ったのは、コルクで栓がされた大口の瓶だった。
「へ、へい毎度。本当に、全種類でいいんだね?」
イーリスは離れれば寄ってくる店主の顔に、無言でコクコクと頷きを返す。ええい、水面が激しく揺れるぜ。
「えっと、全種類だと三三五〇カンなんだけど、お嬢ちゃん、お金持ってるのかい?」
店主は髭の中の口を心配そうに歪めながら、なおも顔を近づけてくる。たまりかねたイーリスは、後ろに跳ねて充分距離を取ってから、ポーチに入った財布を取り出す。
イーリスは分厚い財布を開けると、一万カン札を無造作に取り出して勘定皿にぽんと乗せた。それを見た店主の小さな目が、限界まで大きく見開かれる。その驚きの目をどうしてだかおいらのほうに向けてから、今度はイーリスに取り繕うような愛想笑顔を向ける。
「お、お嬢ちゃん、お金持ちだねぇ。用心しなよ?」
イーリスの札束ギッシリの財布の中まで目ざとく覗き見たのか、やたら丁寧に揃えてお釣りの千カン札を返してくる。イーリスはと言うと、手渡された札をろくに確かめもせず、そのまま財布に突っ込んでいる。何でもかんでも万札で支払うから、千カン札が無尽蔵に増え続けるのも問題だ。札入れは既に万カン札で満席だというのに。
とはいえ諸悪の根源は、お金の価値も充分に分からないような少女の口座に、杓子定規に高給を振り込んでくる奴らだとおいらは思うね。たとえその金額が働きに見合った対価なのだとしても、もっとこう、将来のために積み立てておいてやるとかさ、そういう優しさって、あるんじゃねぇの?
おいらが心の中でオンブロス協会御中に苦言を呈している間に、全種類の飴玉をきっちり瓶に詰めてもらったイーリスは、その瓶を振り振り通りに戻る。店主がそんな珍客の去り際を見ながら肩を竦めていたが、イーリスの注意は既に駄菓子屋からかけ離れているので気づく由もない。
色とりどりの飴玉が織りなす賑やかな音に、イーリスとってもご満悦である。
そう、イーリスの注意は全て飴瓶に向いていた。
そんな、弛緩しきっている時に、事件は起きるべくして起きる。