26話
いつまで続くとも知れない沈黙に終止符を打ったのは、頭上からの声だった。
「雨、降らなかったか」
「お兄ちゃん!」
素早く振り返ったセナは、腰に手を当てて立っていたアイトリアに飛びついた。
「儀式、見れなくて残念だ」
「何作ってたの?」
「うーん、まぁ、投げて使う武器のようなもの」
そんなやりとりを、イーリスは目を閉じて聞いていた。まだ、どう顔を向き合わせれば良いのかわからないのだろう。しかしアイトリアは違った。イーリスが体を硬くするのも構わず、ためらいなくイーリスの真横に腰を下ろした。しかも、何のつもりかイーリスの方に手を差し伸べてきたかと思ったら、その手はおいらをぐわしと掴みやがったではないか。
「お、今日は干涸らびてないな。元気か?」
手のひらに下ろされて、顔を真正面からのぞき込まれる。くそ、男のくせに毛穴が目立たない、良い肌してやがるぜ。おいらが返事代わりにケロと一つ鳴いてやると、それで満足したのか頷きを一つ返してきた。そしてアイトリアの手が遂にイーリスの肩にかかる。
「おーい、まさか寝てないよな」
「もう、起きてるよ」
肩に置かれた手を勢いよく振り払ったイーリスは、その勢いのままおいらめがけて飛びついてきた。
「ピュイを返して!」
もとよりアイトリアにおいらを攫う気など皆無なので、イーリスはあっさりおいらを奪還する。それは良いんだが。
両手でぎゅっと握りしめるのは本当にやめてくれ頼むから!
「お、元気そうじゃないか。こんばんは」
「こ、こんばんは」
おいらを盾、もしくは魔除けのように構えて体ごと後ずさるイーリスに、アイトリアは口をへの字に曲げる。
「なんだよ、俺、なんか嫌われるようなことしたっけ?」
本気で傷ついたような声を漏らすアイトリアに、イーリスは上目遣いでおずおずと問う。
「怒って、ないの?」
「え、何のこと?」
「ん、なんでも……」
ちょっと待て、おいらを顔の前に掲げてモジモジするのは許そうおいらは心が広いからな。だが握りしめる力をそれ以上強めるのは勘弁してくれ本気で潰れる。粘膜から変な液体が出てきてるのに早く気づいて!
「じゃ、お互い何も、気にすることないな」
言葉と共に、アイトリアは優しくイーリスの両手を包み込んだ。すると、頑なに握りしめられていたイーリスの両手から力が抜けて、おいらは一命を取り留めた。そのままアイトリアの手で救出されると、何事もなかったかのようにイーリス頭上の桶に戻された。
アイトリア……なんて良い奴なんだ!
その間イーリスはというと、ただじっとアイトリアを見つめていた。その頬がほんのり染まっているのを見逃すおいらじゃなかったが、今となっては心配もしなければちゃかしもしない。アイトリアは本当にいい男なのだから、手を握られて赤面するのは道理ってもんだ。
「それじゃ、帰ろうか」
アイトリアに促されて、イーリスはぎくしゃくした動作で頷きを返した。和解する前より余計不自然な態度になった気がするが、好ましい変化と言えるだろう。その理由が、気まずさから気恥ずかしさに変わったのだから。
帰路を歩くのはイーリスに任せて、おいらは背後の舞台を見た。関係者らしき装束の人々が数人で円陣を組んでいるが、撤去などの作業が始まる様子はない。
「ねぇお兄ちゃん。明日も儀式、するのかな」
左手をイーリスと、右手をアイトリアと繋いで歩くセナの問いに、アイトリアが顎を右手で触りながら思案する。
「明日は日曜か。やりそうだな」
「じゃ、明日こそ三人で見ようね!」
二人の手をぶらんぶらん振りながら、セナが元気に提案するが、そうなるようではおいらたちとしては困る。何せ明日は日曜日、指令書を確認しに、シートスに戻らねばならないのだ。サルにはそれまでに雨を降らせて、仕事を片付けておきたい。この状況では期待薄だが、素直に諦めるわけにはいかないのが誇りをかけた仕事ってもんだ。
「今夜、降ってくれたらいいんだけど」
未だに頬を火照らせている色ぼけイーリスだったが、こと仕事に関しては意識が高く、おいらと同様の認識だった。幼いながらも、この道二年のプロフェッショナルなのだ。
「ま、早いに越したことはないからな」
見れば、アイトリアも浮かない表情をしていた。明日の儀式を見るためにまだ雨は降らないで欲しい、とか、そういう利己的な考え方をするような男ではなかった。
それどころか、
「この儀式でうまくいかなかったら、もう、後はなさそうだからな」
そう口にするアイトリアの表情は、一段と深刻さを増していた。
「お兄ちゃん、後がないってどういうこと?」
怪訝そうに問うセナの様子に気づいたのか、アイトリアは慌てて笑顔を作る。
「いや、何でもない。じきに降るさ」
「へんなの」
アイトリアの表情をちらちら盗み見ていたイーリスも不思議そうに首をかしげたが、おいらにはだいたい察しが付いていた。だが、それをイーリスに伝えるつもりはない。アイトリアがはぐらかしたのだから、それに従うまでだ。
いずれにせよ、深く考えても仕方がない。おいらたちにできることは、雨女一行として、雨が降るまでそこにいることだけなのだから。
となれば、今は開き直って、この晴れの日を堪能すれば良い。
闇色のグラデーションで彩られた夜空には、星々が宝石のように燦めいている。
常に雨と共にあったおいらたちは、こんな美しい夜空があるなんて知らなかった。
イーリスの顔をのぞき込むと、瞳に無数の星々を宿らせて、雲一つない夜空に魅入られたように見つめ続けていた。