25話
採掘所に向かって歩くにつれて、空模様はようやく好転の兆しを見せ始めた。
沈みかけの太陽がオレンジに染め上げる西の空に、徐々に層雲が集まってきているのだ。
気づいたセナが歓声を上げる。
「わぁ、あれ、雲だよね! もしかして、もう儀式始まっちゃってるのかな」
セナは目を輝かせて言うが、儀式が始まるのは日没後。あの雲は、イーリスの力によって引きつけられているはずだ。しかし、あの雲を見た村人が十人いれば、十人ともが儀式の恩恵だと思うことだろう。そしてそれを否定することは、おいらたちにはできない。
イーリスは飴玉を舐めながら、黙って歩み続けるだけだった。
採掘所に到達する頃には、夜空はどんよりとした雨雲に覆い尽くされていた。
あんなに渋っていた雲が、こうも簡単にやって来るとは気が抜ける話だ。サルから離れたからというわけではないだろう。ここに昼間に来たときは、雲一つやっては来なかったからな。まさか本当にソティルの力か、などと少しでも思ってしまう自分自身を鼻で笑い飛ばす。
人は既に千人規模で集まっており、中央部最底辺に設えられた舞台を可能な限り見やすい位置から見物しようと、すり鉢状の採掘所内各所で場所の取り合いが行われている。
まだ、儀式は始まっていない。
「ほんとに、今にも降りそうだね」
既に日は完全に沈み、月も雲に隠されている。採掘所のぐるりや舞台に灯された松明で人々の動きくらいはわかるが、誰かを捜すには心許ない照明と言わざるを得ない。
「もうすぐ始まりそうだけど……お兄ちゃん、まだかな」
イーリスの手を握るセナの手に力が入る。採掘所内を見下ろしてから、村に続く道に視線を飛ばすが、人だかりのためアイトリアを捜すのは困難だ。
一方、先ほどまで舞台の上で慌ただく作業していた儀式関係者らしき装束の人たちが、今は舞台を降りて等間隔に並んで座している。準備万端といった風情だ。
なにがきっかけになったのかは、わからなかった。
だが、その瞬間。
群衆の数は相変わらず増え続けているにもかかわらず、ふいにざわめきが収まったのだ。
そんな突如訪れた一瞬の間隙を縫うかのように、しゃん、と澄んだ音が響いた。
舞台の周りを照らしていた松明が、さっと角度を変えて舞台上を照らし出す。
そこに、一人の少女が凜として立っていた。
一昨日見たときと同じ、紐を身に這わせただけの神秘的な姿をしたソティルだ。しかし今日は右手に柄杓を携えているだけでなく、左手には錫杖を持っていた。その錫杖を舞台に突いて、もう一度、しゃん、と澄んだ音色を鳴らす。
辺りは完全な静寂で満たされる。今駆けつけたばかりの者も、息を飲みつつ忍び足で場所を確保すると、舞台を食い入るように見つめた。
ソティルの舞いはゆっくりとしたリズムで始まる。しなやかな四肢が光に照らされて、筋肉のうねりまでもが美しく浮き彫りになる。
甘美でありながら、厳かな舞踊。それをソティルは完璧に舞う。
そして、ふいに動きを止めたソティルは、緩やかな舞いから激しい舞いへと変調させる。
鳥肌が立つとはこのことか。
楽隊の演奏が加わると、ソティルの舞いは一層神秘性を増し、儀式としての純度が際限なく高まっていくのを肌で感じる。
誰もが思ったことだろう。
雲はこの雨乞いの巫女が呼び寄せてくれたのだ。
この雨乞いの巫女なら、きっとすぐに雨を降らせてくれる、と。
恥ずかしながら、おいらも例外ではなかった。
おいらは自分の立場も忘れて、そんな期待と共に空を見上げた。
だが。
「なんだと……?」
思わず声が漏れた。慌ててサルの方、南東の空を振り仰ぐ。
ソティルの力で雨が降りそうだから驚いたのではない。全くその逆だ。
南の空から、みるみるうちに雲が散っていくのだ。
儀式は佳境に近づいている。ソティルの舞いは相変わらず完璧に見えるし、音楽も実に感情豊かだ。それなのに、ああ、群衆の注意が散りゆく雲に逸れ始めるではないか。
「降るよ、ぜったい」
群衆がざわめき始める中、イーリスだけはじっと舞台のソティルを見つめ続けている。
そうだ、おいらたちにとって雨が降らないことは、雨乞いの儀が失敗して残念だった、だけでは済まされない。
イーリスが雨女としてここにいるにもかかわらず雨が降らない。それこそがおいらたちにとって真の問題なのだ。秘匿される存在故、誰に誹られることもないが、だからこそおいらたちは、自身の存在証明のために結果を出さねばならないのだ。
イーリスは両手をぎゅっと組み合わせて、祈るようにソティルを凝視する。隣のセナも、イーリスの言葉に頷いて、じっとソティルを見つめている。
舞いが、錫杖の音が、音楽と渾然一体となって調和する。
ソティルが柄杓を振ると、謎の液体がきらめきとともに四方に散る。
やがて音楽が緩やかになり、刻むステップはリズムを落とす。
しゃん。
そしてついに、錫杖の音と共に音楽が止んだ。
ソティルが恭しく一礼すると、舞台を照らす松明の明かりがふっと消えた。
雨乞いの儀が、終わったのだ。
アスカールの時のような歓声は、一つも上がらなかった。
幕切れはあっけなく、余韻はまるでない。
群衆は落胆と共に、散り散りに村へと戻っていく。
だがイーリスは、身じろぎ一つできないでいる。
おいらは再び空を仰ぎ見る。
そこにあったのは、満天の星空だった。雲は、一欠片すら見当たらない。
イーリスは一つため息を吐くと、背中から斜面に倒れ込み、大の字になって寝そべった。
セナは、イーリスの隣にちょこんと座って空を眺めている。おいらたちの事情を知らないセナは、雨が降らなかったことにイーリスがひどく落胆しているとでも思っているのだろうか。
それぞれがそれぞれの思いを胸に秘めたまま、おいらたちは星々がまばゆいばかりに輝く夜空を見上げることしかできなかった。