22話
刻一刻と、おいらの桶の水が干上がっていく。
おいらはわずかな水分も逃がすまいと、桶の底にべたーっと伸びていた。
そんな時、ふいに影が差した。見上げてみると、そこにあったのはセナの顔だった。
「こんにちはっ!」
頭上から元気な挨拶を浴びて、ぽかぽか陽気にうつらうつらしていたイーリスが飛び起きた。
「お、おはよっ!」
「お姉ちゃん、おはようじゃないよ。もうお昼だよっ!」
そんなしっかりしたことをイーリスに言いながらも、セナの視線はおいらに向いていた。
「カエルさん、元気ないみたいだけど、大丈夫?」
「ん、ピュイのこと? だいじょうぶだよね?」
問われて即、「何の問題もない」と返事する。弱音を吐こうもんならまた暗黒甘々地獄に突き落とされる危険性があるからな。それだけは未然に防がねばなるまい。
「ん、心配なさそうだよ」
「そうなんだ、こんなに伸びてるのに。ピュイ~、ピュイ~?」
こら、指先でつつくでない。と、心の底では思いながらも、嫌な顔一つ見せずにじっと我慢するのが紳士的なカエルのススメだ。危害を加えられる一歩手前までは、何でも受け入れるこの心の広さに酔い痴れるがいい。
「あそうだ、お姉ちゃん!」
しかし残念なことに、おいらの紳士的振る舞いは子供たちには総じて不評なのだ。セナも何のリアクションも見せないおいらに興味を失ったのか、イーリスに視線をずらす。
「お兄ちゃんのところに行こうよ!」
「え、な、なんで?」
イーリスは突然の提案に仰け反った。眠気を残していた目も、否応なく覚醒したに違いない。お兄ちゃんのところへ行くと言っても、まさかセナの実兄を紹介されるわけではなかろう。セナが「お兄ちゃん」と呼ぶ男と言ったらアイトリア以外においらは知らない。
しかしイーリスとしては、アイトリアと顔を突き合わせるには色んな心の準備を済ませてからにしたいというのが本音だろう。そしてその準備は一向に進んでいない。となると、いきなり会いに行こうなどと言われたところで、イーリスとしては困惑するしかない。
「何でって、何ででも! ほら!」
言いながら、既にイーリスの手を取って引っ張っている。ちびこいくせに力はあるようで、イーリスの腰はベンチから簡単に浮いた。
「ええーっ、でもわたし、仕事あるし」
「仕事って、お姉ちゃん思いっきり寝てたじゃない!」
「う、うん、寝ててもいい仕事なの」
なんか、昨日似たようなやりとりを見た気がするぞ。人はこれを因果応報と言うのか。
そしてこうと決めたら譲らないのも、セナとイーリスで似通っていた。
「そんな楽な仕事があるはずないでしょ! ほら、立って! シャキッとして!」
セナは良いお母さんになりそうだな、などとほんわかしてられるのはおいらだけで、イーリスは腰を落として必死に踏ん張っている。しかしセナは、自分より一回り以上体格の大きいイーリスをそのままずるずると引きずっていくではないか。ここまでくると、ちょっとした力自慢である。
周りに人は一人も見当たらない。強い日差しから屋内に逃れて、乾きを凌いでいるのだろう。というわけで、イーリスは誰にも気づかれることなくセナに連行されるのだった。
普段イーリスの我が儘に振り回されてばかりのおいらとしては、ちょっとばかりスッキリしたのだが、保身のためにも黙っておこう。
アイトリアの所へ行くと言われて、おいらが想像した行き先は工房だった。だが、辿り着いたのは工房とは反対方向、村の入り口の付近にある、石造りの小さな一軒家だった。入り口に戸はついておらず、すだれが垂れているだけの、非常にオープンな家である。
「こんにちはーっ!」
セナは元気な挨拶と共に、イーリスを引きずりながらすだれをくぐる。光源は入り口と壁の隙間から入ってくるわずかな明かりだけという薄暗い室内の様子は、外から入ってきたばかりのイーリスやセナには黒潰れして何も見えないことだろう。だから、奥の部屋から音もなく現れた老婆に真っ先に気づいたのは、暗かろうが変わらず見える、おいらだったはずだ。
「おや、セナかね、こんにちは」
腰の曲がった白髪の老婆は、しわだらけの顔を笑顔で余計しわくちゃにしてセナへの歓迎を口にする。だが、その目はセナが片手を掴んで離さないイーリスに向いていた。声のした方を反射的に向いたイーリスだったが、老婆の表情まで見えているかは不明だ。
「珍しいね。友達かね?」
老婆の問いに、セナはそばに駆け寄りながら頷きを返す。
「うん、お兄ちゃんとも友達なんだよ!」
「ほう、アイトリアの。これはこれは」
細めた目で見つめられていることにイーリスも気づいたのか、ようやくセナの手から逃れようともがくのを止めた。その代わり、セナの背中に身を隠しつつ、申し訳程度に頭を下げることしかしない。
老婆が怖いのか、暗いところにいる老婆が怖いのか、アイトリアにゆかりのある暗いところにいる老婆が怖いのかどうなのかは不明であるが、とにかく老婆との交流に及び腰である。
「お主、名は何と?」
「い、イーリスっていいます」
「イーリスさん。うちのアイトリアがお世話になっているようだね」
アイトリアのばあさんはずっと笑顔だが、イーリスの返事はぎこちない。部屋の奥を妙に気にしているそぶりも相まって、ばあさんにはかなり挙動不審な感じの少女に映っていることだろう。
しかしセナはばあさんとイーリスのやりとりをどう解釈しているのか、ニコニコしっぱなしだ。
「お婆ちゃん、お兄ちゃんは?」
「おや、アイトリアなら今日も仕事だよ」
「そうなんだ~。土曜なのに、大変だね」
「おお、土曜日。そう言えばそうだったね。なら、今日は仕事じゃない。自分の作品を捏ねくり回しておるのだろうて」
その言葉を耳にした途端、イーリスは部屋の奥、続きの間へと向けていた注意を解いた。同時に、縮こまっていた背中も自然に伸びる。なるほど、さっきまでの挙動不審っぷりは、続きの間にアイトリアがいるのではと警戒していたせいか。
「わざわざ来てくれたのに、悪いね」
「ううん、ありがとうお婆ちゃん、お邪魔しました!」
アイトリアと顔を合わせたくないイーリスとしては胸をなで下ろすところだろうが、これで諦めるセナではない。すぐに工房に向かう気だろう。事実セナは、ぺこりと頭を下げるや、すぐにイーリスの手を取って、きびすを返そうとした。
「ちょっとお待ちなさいな」
セナを引き留めるばあさんの一声が、イーリスに一時の猶予を与える。
「あんたたち、お昼は済ませたのかい?」
セナは改めてばあさんに向き直って返事をする。
「えっと、まだだけど」
「じゃ、食べて行きなさいな。たいしたものは出せないけどね」
「悪いよお婆ちゃん」
「いいからいいから。一人で食べても、美味しくないんだよ」
「でも……」
いつも快活なセナの歯切れが悪い。なにかばあさんの飯を食えない理由があるのだろうか。もしや、このばあさんの飯はそんなにまずいのか? などと邪推し始めた時。
ぐぎゅるるる~……
ばあさんとセナが、一斉にこっちを向いた。
おいらの下で、イーリスが両手でおなかを押さえて照れ笑いを浮かべている。
「そういや、朝からアメちゃんしか食べてないや」
ばあさんがふぉっふぉっと笑った。セナもあきれ顔で、肩をすくめて見せた。