20話
一晩中、浅い眠りの淵をたゆたっていたのだろう。
イーリスは眠そうな目をこすりながら、たまに通りかかる通行人を見るとはなしに眺めている。朝のサルで見かけるのは、採掘所に行き来する男たちばかりだ。
イーリスの様子からすると、昨日のことはうやむやのまま今日という日を迎えた感じだ。
さて、おいらたちは村長宅前に広がる円形広場の隅にあるベンチを午前中の拠点と定めた。ちょうど広場に一本だけ生えた広葉樹が日傘代わりになってくれる。
あとはひたすら、活きの良い日差しから身を潜めつつ雨雲の到来を待つばかりだ。
そう、今日も雲一つない快晴なのだ。雨が降る気配は一向に訪れない。
だからといってジタバタしたってしょうがない。雨を降らすために雨女にできることは、目標地点にいること以外にないのだ。道行く採掘所作業員には、けったいな小娘が暇そうにしているように映るだろうが、これでも全力で仕事に勤しんでいるってわけだ。何の成果も現れないのが辛いところだけれど、成果を上げたところでおいらたちの手柄だと公にするわけにはいかないのだから、どうしたって報われない。
ま、どんな綺麗事を並べたところで、結局今のおいらたちは、時間を食い潰しているだけだった。
そんな緩みきった時間が流れる中、おいらは村長宅から出てくるそいつに気づいた。
「おいイーリス、あれ」
おいらの促しに、イーリスは目だけを村長宅に向ける。イーリスもそいつに気づくと、二度三度、ゆっくりと瞬きした。声を掛けるかと思っていたが、そうする様子はない。
だが、イーリスが手をこまねいているうちに、相手さんがこちらに気づいて足を止めた。互いに目が合ったところで、イーリスはその眠そうな口を開けた。
「おはようー」
おいらたちを無視して去ろうとしたそいつは、浮かせかけた足をその場に下ろすと、何かを決心したような足取りで、ズイズイとこちらに歩み寄ってきた。
「朝、早いですのね」
そいつというのは、雨乞いの巫女ソティルだった。
紺のガウンに紺のヴェールという昨日と同じ日除け装束は、露出過多の巫女装束とは別の意味で目立つ。正体を隠すためにしていることなのだろうが、逆効果ではないだろうか。しかし二日連続でこの服装ということは、どうしたところでこれが彼女の外出着らしい。
「もしかして、ソティルもこの家に泊まってたの?」
「サルには、ここ以外には家畜小屋さえ空き部屋がないというお話、信じられます? ま、数が少なかろうが、泊めてくださったお部屋は清潔でしたし不満はありません。我慢ならないのはお風呂に入れないことですわっ! お肌も髪も、もうパッサパサ!」
「だよねー」
剣幕をたてるソティルに、イーリスはのほほんとした笑みを返す。
それまで腕を組んで目の前に突っ立っていたソティルだったが、イーリスの笑みをまじまじと見つめると、ふぅ、とひと息吐いて肩を落とした。
「お隣、よろしくって?」
「どうぞーっ」
ガウンを汚さないように気をつけながら、ソティルはベンチに腰を下ろした。
「……あなたは、怒っておられませんの?」
探るような口調で切り出す。上目遣いでイーリスの表情を探るソティルは、いつもの傲岸さが影を潜めて実にしおらしい。しかし、イーリスには遠回しな言葉は通じない。
「なにを?」
「何って……き、昨日のことに決まってますわ。もうお忘れ?」
おいらはよく覚えているぜ。セナを轢きかけたことだろ、セナやアイトリアのことを下民扱いしたことだろ。とにかく昨日のソティルはやたらめったら横暴だった。
って、あれ? 昨日暴言を振りまいていたと言えば。
おいらが不意に見つけた符合について唖然としている間に、イーリスはソティルの問いかけに答えるべく、一生懸命言葉を紡ぐ。
「うーん、轢かれかけたのはひやっとしたけど、わたし身分とかよくわかんないし。別に怒ってないよ。でも……」
「でも?」
「言葉って、人を簡単にヤな気分にさせるよね」
しみじみそんなことを言うイーリスに、ソティルはぽかんとする。
しかし、おいらはイーリスの言葉に納得する。
やはり昨日の二人は同じだったのだ。イーリスもソティルも、深く考えもせずに発した言葉が相手を傷つけた。ただ、イーリスはおいらに指摘されるまでは自分の非を認めようとしなかった。対してソティルは、どうやら既に、昨日の自分の振る舞いを後悔しているらしい。その気持ちに素直になれさえすれば、ソティルはきっと、すぐにでもアイトリアたちと仲直りできるだろう。
おいらが慈しみの目でソティルを見つめていると、ソティルはイーリスから顔を逸らして肩をすくめた。
「あなた、やっぱりちょっと変ですわ」
言葉面だけ受け取れば馬鹿にしたような発言だが、クスッと笑うソティルに、イーリスを貶すような雰囲気は微塵もない。それは、イーリスにもしっかりと伝わっていた。
「ソティルって、優しい目、してるよね」
「目、ですか?」
「うん。とってもきれいで、優しいよ」
横からじっと見つめられて、ソティルはヴェール越しにもはっきりわかるほど、あからさまに狼狽える。
「ど、どうかしら! 綺麗なのは自覚しておりますが、私は優しくはありませんわっ」
「ふふふ……」
イーリスがまぶしそうに目を細めて微笑む。
ソティルはイーリスの視線から逃れるように、真っ青な空を見上げた。
「ソティル、実は、謝りたいんじゃない?」
「な、なんのことですの?」
「昨日のことだよ」
「昨日のことって、あなたついさっき、怒ってないと仰ったばかりじゃありませんか」
ソティルは目線だけをイーリスに向けて不服そうな声を上げる。形の良い眉が曲がったのがヴェール越しに辛うじて見えた。イーリスはそれに対して口元を不敵に歪めて応じる。
「わたしにじゃないよ、アイトリアに、でしょ?」
イーリスの言葉に、ソティルは一瞬固まった。
「――あなた、何故それを……」
それだけ口走ると、ソティルは視線を空に戻して、ため息を一つ吐いた。
「私には、守るべき立場というものがあるのです」
「ソティルのお父さんとお母さんは、どうしてるの?」
「は?」
イーリスとの会話は疲れるよな。ソティルに同情するぜ。とにかく話がよく飛ぶし、その上真っ直ぐに問いかけてくるもんだから、それに答えない限り会話が進まなくなる。自然、主導権はイーリスが握りっぱなしになるというわけだ。
しかし、イーリスが自ら親の話題を持ち掛けるとは、どういうことだ?
「お父さんとお母さん、どうしてるの?」
同じ言葉を繰り返されれば、ソティルとしては肩を竦めるより他ない。アイトリアに謝る云々の話題からは頭を切り換えねばならないと諦めたようだ。
「父様はシートスの王国議会議員を務めてらっしゃいます。雨乞いの儀の宮司でもありますので、私が雨を降らせて帰ってくるのを心待ちにされているはず。母様は……そう、自室で編み物でもされているのではないかしら」
「仲、いいの?」
「そういった間柄ではありませんわ。直接お話ししたのだって、もうかれこれ一年以上前のことですし。でも、父様や母様に恥じないよう、使命を果たさねばとは常々思っております。父様も母様も、私に期待してくださっています。私たち親子は、強い信頼関係で繋がっておりますの」
そう口にするソティルの瞳は青空を見つめており、特段感情は読み取れない。だが、イーリスの一言がその瞳を揺らす。
「もったいないね」
「何がですの?」
揺れる瞳をイーリスに向けて問うソティルに、イーリスはベンチの下で足をぶらつかせながら答える。
「せっかくお父さんもお母さんもいるのに、それじゃ、いないのと変わらないじゃん」
じっとイーリスの横顔を見つめていたソティルは、更に問う。
「あなたの父様と母様は、どうしてらっしゃるの?」
イーリスのぶらついていた足が、止まった。