19話
サルには宿屋がない。にも関わらず宿泊先に困らずに済むのは、ひとえにオンブロス協会の恩恵だ。前回の指令書に、サルで寝泊まりする場合の宿泊先が記載されていたのだ。
それがここ、村長宅である。
木戸をノックしてしばらく待つと、村人にしては小綺麗な服を着た女性が出てきた。うっすらとではあるが化粧をしているところからも、村長夫人だと考えて間違いないだろう。
イーリスが夫人に名を告げると、それだけで部屋に案内してくれた。もしかしたら協会と何らかの接点を持つ家柄なのかも知れないが、それをイーリスが確認することはない。まだそこまで考えがそこまで回らないのか、協会に興味がないかのどちらかだろう。
部屋への道すがら、夫人はイーリスの頭上に佇むおいらにチラチラ視線をくれたが、澄まし顔で素知らぬふりを決め込む。こういう場合、大人しくしているのが最善なのだ。
村長宅は村の家々と同じく簡素な石造りではあるが、他よりもずいぶん広く、頑丈そうだ。東向きの玄関から入ってすぐ応接間があり、その先の広いリビングには南北に一つずつ木戸が設えられている。その南側の木戸から出ると、リビングを這うように廊下が伸びる。その南側に、四つの木戸が等間隔に並んでいた。おいらたちには、その一番西側の部屋があてがわれた。
ベッドと机、それにランプがあるだけの簡素な部屋だが、普段から野宿に慣れている身としては雨風が凌げるだけでも充分だ。ただ、村長が来客にあてがうにはちょっと簡素すぎる気がする。冷たい石造りでこの狭さとなると、率直に言って、牢獄じみている。
「はぁぁ……」
夫人がランプに火を灯して部屋を出て行くと、イーリスは硬いベッドに腰掛けて長いため息を吐いた。無理もない。母親のことは、イーリスにとってはそう簡単に割り切れる問題ではないのだ。
何の力にもなれないおいらは、はがゆい思いでイーリスを見つめていると、
「今日はお風呂に、入れないのかぁ……」
などと心底残念そうに零したのには、さすがのおいらもずっこけてしまった。
やはりおいらには、イーリスの気持ちを理解することは不可能だ。
それにしても、アイトリアとのあのやりとりの後に出てくるのが風呂のこととは。おいらの記憶が正しければ、今朝入ったばかりのはずなのだが。
毎日のように風呂に入るなんて贅沢は、一般人には到底考えられないことだ。だがイーリスには雨女稼業で蓄えた大金があり、高い入浴料は障害にはなり得ない。
だが、いくら大金を積んだところで、水がなければ風呂屋は営業できない。温泉が湧く地域なら話は別だが、そうでない地域の入浴料が高額になりがちなのはそのためだ。それでもイーリスは今まで雨と共に旅をしていたので、宿に泊まればまず間違いなく入浴できていた。風呂屋自体はサルにもあるということなので、問題なのは雨が降らないことが全てだった。
つまり、イーリスが風呂に入れないこの状況は、雨女としての仕事が上手くいっていないことの弊害だと言える。そういう意味で、おいらとしても憂慮せざるを得ない。
「雨が降らないことにはな」
おいらの桶が先ほどの川の水で満たされているのと同様に、この村はあの細い川の水でどうにか保っているようなものだ。採掘所からの仕事帰りに水を運ぶ男たちの列を見れば、嫌でも思い知らされる。もしあの川が干上がったら、この村が大変なことになる。
それまでに、早く雨を降らさないと。
しかし雨を降らすために雨女にできることは、ただそこにいること以外にない。巫女のように踊ってみたり歌ってみたりしても、何の意味もないはずだ。試したことはないけどな。オンブロス協会も各地を回る以外には何も指示していないのだから、万が一踊って効果が上がると分かれば、新たな発見として功績を讃えられるかも知れないが。有名にはなれそうにないのが秘密結社所属の辛いところか。
そんなことより。
おいらには密かに踏ん切りをつけて、口を開く。
「おいイーリス。アイトリアに対して、あれはないぞ」
「あれって?」
背中からベッドに倒れてから、イーリスは首をかしげる。
おいらとしても仕事とは関係ないのだから敢えて指摘する必要はないと思っていた。さっきまではな。だが、イーリスはこの部屋に入るなり気持ちを切り替えやがった。それは人間としてどうよと、おいらは疑問に思わずにはいられなかったのだ。
「父親が居なくても普通だとか、お前は母親に捨てられたんだとか。おいらはお前さんの事情を知ってるから、お前さんがどういうつもりでそう言ったのかがよくわかるってもんだが、アイトリアにとってはただの酷い暴言だぜ」
「わたしは悪くないもん。だってそのとおりじゃない」
瞬く間にふくれっ面になるイーリスを、おいらはたしなめる。
「思ったことをそのまんま口から垂れ流してたら、そこら中で敵を作っちまうってことくらい、お前さんにだって想像つくだろ? 第一、お前さんが言ったことは、お前さんにとっては正しいことかも知れないが、普遍性の欠片もないぜ。アイトリアの家族のことなんか何も知らないくせに、よく偉そうに言えたもんだ。あんな失言ばっかりしてたら、いくらアイトリアが良い奴でもすぐに嫌われるぞ」
「思ってること隠したり、ちがうこと言ったり、ほんとはいやなのにへらへら笑ったり。わたしはそんなのぜったいいや。そんな大人みたいなこと、ぜったいしない! 思ってることをそのまんま伝えられないような友達なら、わたしはいらない!」
言って、両手で顔を覆ってしまう。
やれやれ、友達なんて一度もできたことないくせに、もう友達を語るのか。本当に、頑なで、不安定で、壊れやすい、どこにでもいる普通の女の子だ。だからこそおいらがそばに居てやらないといけないわけだが、カエルの体でできることの少なさには泣けてくるね。
結局、おいらは言葉を重ねることしかできないのだ。
「愛想笑いをしろとか、嘘をつけと言ってるんじゃない。ただ、しゃべる前にちょっとだけ相手の気持ちを考えてみろ。そしたら、あんなに無神経な言い方にはならないはずだ。それだけで、相手をむやみやたらに傷つけずに済むんだ」
イーリスは顔を覆ったまま、黙り込んでいる。
「イーリス」
名を呼んでもおいらの言葉を拒み続けるイーリスに、おいらは悩んだ末にその言葉を放った。
「お前はシルムに捨てられたんだ」
おいらが口にしたのは、禁句中の禁句だった。
その言葉を耳にしたとたん、イーリスは跳ね起きた。
その手が一直線においらに伸びてきて、そのまま掴まれる。
それだけでは止まらない。
おいらを掴んだ手は、内蔵を破裂させる寸前まで強く握りしめられる。
イーリスは、握りしめたおいらを真正面から睨み据える。
「だったらなによ」
低い声。光る瞳。肩が怒りで震えている。
おいらはつぶれそうな肺から空気を漏らすようにして、辛うじて細い声を漏らす。
「ほ、ほら、怒るだろ?」
おいらの囁きに、イーリスは傍目にも哀れなほど目を見開いた。
そう、おいらが繰り出した一言は、イーリスがアイトリアに放った言葉そのものだ。
つまりイーリスは、自分自身が最も言われたくない言葉でアイトリアを傷つけたのだ。
今更気づくなんて、遅すぎるぜ。
さすがのイーリスも、おいらの内臓を破裂するための活動は中止する気になったようで、手の力が緩んだ。と思う暇があればこそ。
そのままおいらをぽいっと投げた。
「な、なんでっ! あーれーっ!」
内臓具合の調子の悪さも手伝って、目が回って身動きが取れない。
となれば、為す術もなく不時着する以外に道はない。
不時着。地面に叩き付けられて今度こそ内臓破裂か。
短い人生、いやカエル生だったな畜生!
と、悪態が口を突いて出かけたが、そうはならなかった。
不時着したのは水の中。お見事、桶にホールインワン。
おいらはよろめきながらも桶の縁に前足を掛けて、こほんと咳払いをしてから一番伝えたかった要点を口にする。
「明日にでも謝った方が良いぜ。善は急げだ」
おいらのアドバイスに、イーリスは返事をしなかった。
ごろんと背中を向けると、そのまま頭から毛布を被ってしまう。
ランプの火が、部屋の中の影を揺らす。
おいらはイーリスの小さな背中を眺め続ける。
沈黙の中、時間だけが過ぎてゆく。
だが、まだ眠りについたわけではない。
寝息の代わりに押し殺したようなため息ばかりが聞こえてくる。
「できないよ……」
絞り出された声は、夜のサルの隅っこに溶けていった。