1話
「雨、やんじゃったね」
イーリスは三つの鞄を持ち歩いている。柿渋染めのリュックとデニム地のショルダーバッグ、それに鮮やかなピンク色のポシェットだ。イーリスはショルダーバッグから左手一つで水筒を取り出して、右手に持ったおいら専用の桶に水をつぎ足しながら呟いた。
「妙なこともあるもんだな」
おいらは水かさを取り戻した桶の中で、手足を伸ばして体を冷やす。飲み水に浸かるというのは何とも贅沢な話だが、どうか大目に見てほしい。何を隠そうおいらはカエル。変温動物たるおいらにとって、暑さと日照りは天敵なのだ。
イーリスは肩口で切り揃えた紺碧の髪を手櫛で整えてから、おいら入りの桶を頭に乗せ直すと、顎紐をしっかり結んで固定する。そんな一つ一つの動作のたびに、服や鞄に付いたバッジやら羽根飾りやらが盛大に音を立てて実にやかましいが、イーリス当人は気にもとめない。かといっておいらにイーリスの収集癖をとがめる気はさらさらない。この見晴らしと適度な水分。それだけあれば、おいらとしては不満はない。イーリスのファッションはあくまでイーリス個人の問題であり、おいらがとやかく口を出すような事じゃないだろ?
それより問題なのは、この空模様だ。
「雲がぜんぶなくなっちゃったよ。これじゃ、雨、降るわけないよね」
イーリスは慣れない眩しさに手でひさしを作って、目を細めて空を見上げる。足下の土はパッサパサだし、背の低い草木も軒並みしなびており今にも枯れ果てそうだ。
予定では、今頃ここにも雨をもたらしているはずだった。傾く桶にしがみついて、おいらも丸くてまぶしい奴を恨めしげに眺めながら、ケロ、と一つ鳴く。
「太陽燦々だしな。お前さんの力も、鈍ったもんだ」
今までずっと差しっぱなしだった傘も、今は畳んでリュックの側面に固定してある。普段からリュックの逆側に備えている予備の傘の存在も相まって、この炎天下にあっては風変わりさ満点といった風情である。
「本当にそうだったら、たいへんじゃない? もう、おこづかい、もらえなくなるよ?」
あからさまに不安そうな顔をするイーリスだが、おいらは鼻で笑う。
「いらない心配だな。振り返って空を見ろよ、それだけで安心できるじゃねぇか」
おいらの言葉に、イーリスはちらっと背後を振り返る。
「ほ、ほらみてよ! 青空だよっ! ぜんぜん安心できないよ!」
「そうだな、たしかにここから五百ヤードほどは青空だ。だがその後ろ! んでもって、そのずっと向こうまで! めちゃめちゃどす黒い雲が空を埋め尽くしているじゃないか。おいらの目の錯覚とは言わせないぜ?」
口ではそうは言ったものの、遠くの雨雲を眺めながら、うー、と唸るイーリスの反応はもっともだ。おいらもこの状況が楽観できるものだとは思っていない。
何故なら、イーリスの雨女の力は、イーリスの居る上空、半径約二マイルに渡って、常時雨雲が覆い尽くすというものだからだ。それだけじゃない。その雨雲の範囲内では、雨は常に降り続ける。これは誇張ではない。
イーリスと旅を始めて二年間。おいらたちはずっと雨と共にあった。それがついさっき、ぴたりと止んだのだ。そして雨が止んだ地点から五百ヤードほど歩いた今、はっきりと分かる。雨が止んだ地点から、雨雲がおいらたちについて来ていないのだ。
これはどう考えても異常事態だ。だが、この二人旅にあって、おいらは何が起きても冷静でいなくちゃいけない。イーリスの前で首をかしげるわけにはいかない。
原因は何か。対策としてどんな手が打てる?
そんな事を具体的に考えるにしても、情報がなさ過ぎる。第一、本当にただの取り越し苦労かもしれないのだ。ここはデンと構えるのが一番だ。
「ま、兎にも角にも、早いとこ村に入ろうや。水筒の水だって、今のでなくなったんだろ?」
おいらはあくまで軽い調子でそう言って、桶の水に頭まで浸かる。
「もう、ピュイは楽でいいよね。自分で歩いてくれたって、わたしはいいんだよ?」
イーリスの不平は聞こえなかったことにして、おいらは目指す地に思いを馳せる。
商業の要衝アスカール。その距離あと一マイルほど。時間にして半刻とかかるまい。
アスカールに、無事恵みの雨を届けられればいいのだが。
仰向けになって、雲一つない青空を水面越しに眺めながら、おいらはイーリスに気づかれぬよう、静かに腕を組んだ。