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片時雨のイーリス  作者: せき
第一章
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18話

 工房の煙突の長い影が、イーリスとアイトリアとを二分する。西の地平線に半分顔を沈めた夕日が、二人を真っ赤に照らしている。セナはと言えば、工房の壁に背中を預けて、そわそわしながら二人の様子を伺っていた。

 工房の中では親方なりが作業を続けているらしく、金属音が断続的に聞こえてくる。それが今は、何故か妙にもの悲しく響いた。

 そんな中、アイトリアはぽつりと呟いた。

 これまでで一番頼りない、小さな声だった。


「この際だから言うとさ、」


 イーリスとセナの目が、アイトリアの唇を見つめていた。

 金属音の間隙を縫うように、その言葉はおいらたちの耳に届く。


「母さんが、帰ってこないんだ」


 瞳が揺れていた。アイトリアは父親の死を語った時でさえ平静を装い、感情を表に出さなかった。だが、今の彼は明らかに様子が違う。心細そうにイーリスをのぞき込む表情は、年相応の青年のそれだった。

 対してイーリスの瞳は、すっと陰る。


 ――まずい。


 今日何度もイーリスの暴言にヒヤヒヤさせられたが、それとは別次元のまずさだ。

 まさかここに来て、アイトリアの口からイーリスに対するタブーが出ようとは。

 そのタブーとは、母親の話題に他ならない。おいらはイーリスの父親のことは何も知らないが、母親のことならよく知っている。そしておいらは、イーリスとその母親の別離の瞬間に立ち会った唯一の人、いやカエルなのだ。そこで生まれたイーリスのトラウマの深さを知っているのも、もちろんおいらだけだ。

 だから、おいらにはわかる。

 今この瞬間、イーリスの心の中は、間違いなく土砂降りだ。

 だから、次の瞬間にイーリスの喉から漏れた一言が、おいらにはむしろ納得できた。


「捨てられたんだよ、きっと」


 その言葉は、アイトリアにとっては何の救いもない、ただの絶望そのものだった。

 アイトリアの揺れていた瞳が、一瞬にして光を失った。しかし、イーリスの言葉に憤慨したりはしない。代わりに頬の端を歪めて、笑みのような他のなにかを作った。


「そう、かもな」


 それだけ呟くと、表情を石膏のように硬くして、再び手押し車に手を掛ける。


「じゃあな」


 機械のようにぎこちなく右手を上げて、振り返らずに工房の中へ去って行く。

 イーリスは唇を引き結んで、そんなアイトリアの背中をじっと見つめていた。

 その背中が工房の中に消えた時、イーリスはぽつりと呟いた。


「アイトリアって、なにからなにまでわたしとそっくり」


 イーリスのかすれた声を聞き取ったのは、おいらだけではなかった。

 セナだ。彼女は壁から背中を離してイーリスに歩み寄る。


「もしかして、お姉ちゃんのお母さんも……」


 イーリスは、焦点の合わない目のまま、こくりと首を縦に振った。


「うん。わたしのこと、捨てたんだ。あれは、いつのことだっけなぁ」


 まさか忘れているはずがない。まして懐かしんでいるわけでもない。その証拠に、イーリスの顔色は血の気が引いて真っ青だ。

 あの日の記憶は、今もイーリスの胸の深いところを抉って突き刺さったままなのだ。

 おいらもイーリスと一緒に、沈みゆく太陽に目を向ける。

 夕焼けの朱と夜闇の紫が、天を分かち合っている。そこに雲の姿はない。

 こうして雨が降らないまま、一日が幕を下ろそうとしている。

 今日は実に色々なことがあった。

 イーリスはアイトリアとの交流を通じて、母親にまつわる苦い思い出を蘇らせた。

 そしてその交流の中で、イーリスはアイトリアを傷つけた。

 そのアイトリアも、雨乞いの巫女ソティルの頬を打った。

 イーリスを中心に、人と人との感情が正面からぶつかり合うのを沢山見た一日だった。

 こんなことは、今までの旅では一度もなかった。

 だが、それが一体なんだというのだ。

 ここで敢えて冷徹な言い方をしよう。

 そんなことは、おいらたちの仕事とは一切無関係だ。

 おいらたちの仕事は極めて単純。期限内に雨を降らせることが全てなのだ。

 今一番問題視すべきは、雨が降らないこと。

 所詮アイトリアやソティルとの交流もこの場限りのもので、仕事を終えればそれまでだ。

 深く立ち入る必要はどこにもない。

 そんなことを改めて肝に銘じねばならないほど、今日は他人と深く接しすぎた。

 つい雲のない空を呪いそうになるが、それ即ち雨女の力なさに繋がるのだから逃げ場がない。


「今日はもう、休もうぜ」


 セナの前だったが、おいらは空を眺めて立ち尽くすイーリスに向かってケロケロ鳴いた。

 そうでもしないと、日が暮れても突っ立っていそうなほどにイーリスは茫然自失になっていた。

 おいらの声だってちゃんと通じるか不安だったが、無事に伝わったようだ。イーリスはヨロヨロと歩き始める。


「お姉ちゃん、またね!」


 両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、セナが声を上げた。イーリスの心の傷が、何となく分かるのだろう。セナの目はイーリスをいたわる気持ちで満ち溢れていた。他人の気持ちを思いやれる、本当に優しい子だ。このまままっすぐに育ってほしい。

 しかしイーリスは、自分を気遣うセナにさえ気づけないほど消沈している。

 それほどまでに、イーリスにとって母親の話題はタブーなのだ。

 今のイーリスには、重い体を引きずって歩くことだけで精一杯だった。


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