17話
西からの夕日を浴びて、おいらたちは三本の長い影を東に携えてとぼとぼと歩く。
アイトリアが引く手押し車の軋みがやたら耳に障る。その音自体はたいした大きさじゃない。さっきから、会話が全くないのが問題なのだ。
イーリスはずっと口の中で飴玉を転がしている。いつも通りじゃないかと言うにはまだ早いぜ。普段はリュックに仕舞っている瓶を、ずっと抱え持って歩いているのだから。口の中の飴玉が溶け切るやすぐに新たな飴玉を投入するのも、己の口を閉ざすために思えてならない。隣を歩くセナまでずっと頬に飴玉を蓄えているのだから、重い沈黙はまだまだ長続きしそうだった。
だから、突然イーリスが飴玉を噛み砕いたのには驚いた。
だが、それはまさに序の口だった。飴玉の破片をゴクンと一飲みにしたイーリスは、開口一番、とんでもないことを口にしたのだ。
「アイトリアのお父さん、貴族に殺されたんだって?」
あまりに直截な一言に、おいらは目ん玉が飛び出るかと思った。セナに至っては、短い悲鳴を上げる始末だ。
おいらは桶越しに、恐る恐るアイトリアの様子を伺う。
アイトリアはうつむき加減に手押し車を引き続けていた。その表情は平静そのもので、イーリスの発言による変化は見受けられない。そしてその口から漏れる声音も、抑揚のない平坦なものだった。
「セナから聞いたのか?」
「うんそう。だからさっき、ソティルを怒ったんじゃないかって」
イーリスの気遣いのかけらもない発言の連続に、セナは一層縮こまる。セナがイーリスにアイトリアの父のことを教えたのは、ただ純粋に、ソティルに強く当たったアイトリアを擁護するためだったはずだ。このような傷口を抉るような真似を、セナが望むはずがない。
だが、イーリスはセナやおいらの思いなんぞつゆ知らず、ただ一心にアイトリアの横顔を凝視している。よそ見歩きは危険だが、それ以上に危険なことを口走っているのだから始末に負えない。馬車が来ないかくらいはおいらが見ておいてやるから、おまえさんはこれ以上口の利き方を間違えてくれるなよ。
一方のアイトリアはと言えば、イーリスの凝視を横っ面に受けながら、相変わらずの無表情で歩み続けている。イーリスも、黙って返事を待ち続ける。
やけに長く感じる数秒間を挟んで、アイトリアの唇がようやく開く。
「俺の親父は、殺されたわけじゃない。生贄になったんだ」
「いけにえ?」
首をかしげるイーリスに、アイトリアは頷きを返す。
「そう、雨乞いの儀の生贄。この地方には昔からある風習さ」
「いけにえって……雨を降らせるために、アイトリアのお父さん、殺されたの?」
「殺されたんじゃない、命を捧げたんだ。神様、命を差し上げますからどうか雨を降らせてください、ってね」
アイトリアが芝居がかった口調で説明したのは、ともすれば爆発しそうになる感情を抑え付けるために違いない。無表情を貫いていても、平静でいられる話題のはずがなかった。
それなのにイーリスときたら、あからさまに不服そうな顔で、これ以上ない不用意な言葉を口走る。
「そんなの、意味ないよ。ばかだよ」
そんな言葉が、一体誰のためになる?
それは死者を冒涜する発言であり、その親族への配慮など欠片もないただの暴言だった。
もしおいらが人間ならば、掴み掛かってでもアイトリアに対して詫びさせただろう。それくらい、言ってはいけない発言だ。だが、悲しいかなおいらはカエル。この場の調停役にはなり得ないのがもどかしい。
アイトリアは父親の名誉のために、イーリスを弾劾する権利を得た。イーリスは怒りのままにぶん殴られたとしても文句は言えない。
だが、イーリスの暴言を受けてもなお、アイトリアの表情は少しも変わらなかった。
「いや、意味はあった。ずっと日照り続きだったのに、親父が命を捧げた途端、雨が降り始めたんだ。本当に、命を捧げたと同時に空が曇りだして、すぐに雨が降ってきたんだぜ? それでも生贄の儀式と雨が降ったこととの間に関係があるかどうかなんて、誰にも証明できないのは分かってる。だが、結果として生贄の儀式は成功した。親父の名は、雨を降らせた呼び水の贄として語り継がれるんだ。永遠に、な」
アイトリアの言葉には、自分の父の死について考え抜いた深さがあった。事実をありのまま受け入れたとき、ただ貴族の勝手な理由で殺されただけなのだとしても、記録では雨を降らせた英雄として名が残るのであれば、それを尊重するとアイトリアは言うのだ。
イーリスは、それを否定するだけの言葉を持っていなかった。そもそも、アイトリアの父への誇りを否定することなど誰にもできないし、しようとさえしてはいけないのだ。
押し黙るイーリスに、アイトリアは歩みを止めずに言葉を続ける。
「だから、俺が親父のことで貴族を嫌ってると思ったなら誤解だ。親父のことについては納得しているからな。気に食わないのは身分がどうだとごちゃごちゃ言う奴らだ。身分に上下が生まれるのはわかるけど、それだけで人間として蔑まれるなんておかしいと思わないか。俺はそれが、許せないだけなんだ」
それは結局、父親の命が貴族のそれより軽く見られたがために生贄に選ばれたという事実を認めたくないだけなのではないか。根源では繋がっているのではないかと、おいらはつい訝ってしまう。
だが、それを解き明かす必要など全くない。これはアイトリアの個人的な問題なのだ。
「それだけのことだ」
そう締めくくると、アイトリアは話はこれで全部だとばかりに、ここで初めてイーリスに微笑みを向けた。しかしイーリスは、アイトリアと目が合う間際に顔を背けて歩幅を大きくする。
「うん、そっかーありがと。へんなこと聞いてごめんね」
そんな簡単なお詫びの言葉ではとても足りない不躾さだったぜ、と思う間もなく、イーリスは続けざまに衝撃の台詞を口にする。
「わたしも、お父さんいないんだ」
平坦な声音だった。だが、アイトリアもセナも、突然のことにどう返して良いかわからない。イーリスの後頭部を眺めながら、次の言葉を待つことしかできないでいる。
「顔もしらない。あ、死んだとかじゃないよ。最初っからいなかったの。そもそもお父さんなんて人がわたしにもいるんだってことも、よくわかんなかったし」
そう、あれはおいらがイーリスと旅を始めてすぐの頃だ。ふと何気なく、世間話の体で、父親はどうしているのかと聞いたことがある。それに対する答えが、「お父さんなんていないよ」だったのだ。それ以上の深い事情は、おいらも知らず知らずのうちに避けてきた。
だから、イーリスは父親と会った記憶がないという事実は、おいらにとっても初耳だった。だが、イーリスがアイトリアに伝えたいのはそんなことではない。
「だから、死んじゃったのは悲しいことかもだけど、いないのは、普通のことだよ」
自分の父親のことを口にしたのは、あくまでアイトリアを慰めるためだったのか。
気づけば、目前にサルの西門が迫っていた。
自分たちの影を踏みながら門を越えてもアイトリアは無言で、イーリスの不器用な励ましに応えることはなかった。