13話
生ぬるくも甘ったるい闇の中で、おいらはすっかり参っていた。これならいっそ乾涸らびて乾物になっていた方がマシだったかも、と、後悔し始めた頃だった。
「着いたよ」
唐突に呟いたイーリスの口の隙間から光が差し込み、わずかに景色が零れた。
幻ではない。一瞬のうちにおいらのまぶたに焼き付いたのは、石造りの家々が並ぶ見たことのない町並みだった。ここが鉱物資源の特産地、サルか。
おいらはイーリスの唇に手足を突っ張って、暗黒甘々地獄からの脱出を試みる。
試行錯誤の末、なんとか口の合間から片手を滑り出させることに成功すると、おいらの涙ぐましい努力にやっと気づいたのか、イーリスは手で口を覆って、おいらをぺっと吐き出した。
「どう? 元気でた?」
「干物にはならずに済んだけどな! 甘和えになるかと思ったぜ」
イーリスの手でいつもの桶に戻されて一息ついたおいらは、目に入ってくる村の様子に思わず顔をしかめた。
「ひでぇな、カラッカラじゃないか」
いつもは雨と共に入村するので、おいらたちは人々が干魃に苦しんでいる現場を見ることはない。だからこそ、こうして目の当たりにすると、雨の恵みがいかに尊いものかよくわかる。
寄り添い合うかのように建つ石造りの建物の戸はどれも堅く閉ざされ、外に出ている者は一人としていない。家々に備えられた水瓶には一滴の水も残っておらず、水を失って久しい水路には、生命力溢れる雑草だけが辛抱強く生えていた。
この様子からすると、ひょっとして水の備蓄が尽きているんじゃないか?
もしそうなら、すぐにでもイーリスの口の中に逆戻りせねばならないかも知れない。
「こんなに水がなかったら、たいへんだね」
だからこそおいらたちはここに来たわけだが、できることといえば雨が降るまでこの辺にいることだけなのだからどうにも歯がゆいもんだ。ドライに言えば、宿で寝転がっていても雨女の仕事としては問題はないのだが、雨も降らせられないでいるのにくつろぐというのは、想像するだけでも落ち着かない。
そういうわけで、特にあてもないまま静まりかえった通りを進むことしばし。
遠くから一定のリズムで鳴る機械的な音が耳に触れた。断続的に響くその音は歩いているうちに大きさを増し、数分後にはその音の発信源に辿り着いた。
発信源に建つのは、造り自体はサル特有の石造りの平屋と似たり寄ったりの建物だ。ただ、その屋根から突き出した煙突がモクモクと白煙を上げているのが、機械音と相まって異彩を放ってる。そしてなによりその建物からは、確かな人間の営みが感じられた。
建物の前で立ち止まって、立ち上る煙を眺めていると、ふいに目の前の扉が開いた。
「あぐぅっ」
突然のことに驚き、イーリスは飴玉を喉に詰まらせた。
目を白黒させるイーリスの前に現れた青年は、驚きの表情と共にこちらを指さしてきた。
「あっ、昨日の!」
妙に人なつっこいその顔、おいらも見覚えがあるぞ。
イーリスの飴瓶を落としかけたあいつだ。
「えっと、なんて言ったっけ、そう、確かとってもきれいな名前だったよね」
イーリスの顔をのぞき込んで必死に名前を思い出そうとする青年に悪意はなかろう。しかし、昨日会ったばかりの女性の名前を忘れているなんて、ジェントルマンとしては三流以下、それどころか鳥並の脳みそと蔑まれても文句は言えないぜ。
しかし相手はレディからはほど遠いイーリスだ。そんなことに頓着するはずがなかった。
青年が首を捻って唸っている間に飴玉を飲み込んで、花のような笑顔を満面に咲かす。
「わたし、イーリス。こっちはルリアオガエルのピュイ。こんにちは、アイトリア!」
おいおい、イーリスの方がよっぽどしっかりしているじゃないか、手のひらをポンと叩いてる場合じゃないぞ青年。
「あ、そうだったそうだった、イーリスにピュイ、ようこそサルへ!」
笑顔と共に、アイトリアは無造作にイーリスの頭に手を伸ばす。対するイーリスは、待ってましたと言わんばかりに頭を差し出す。アイトリアの大きな手がイーリスの髪をもみくちゃにするのは、本人同意の上なので咎めはしない。だが、おいらとしては面白くない。
というのも、おいらの根城が右に左にグラグラ揺れて、不快不愉快極まりないのだ。
「おい、いい加減にしたらどうだ青年!」
「きもちいい~」
おいらの主張がアイトリアにはケロケロとしか聞こえないのを良いことに、イーリスは頭をぐいぐい突き出して、さらなるなでなでを求めている。いや、イーリスを責めるのはよそう。諸悪の根源は、延々頭をなで続けるアイトリアだ。
頭ってのはとっても大切な場所なんだぞ。みだりにいじくりまわして良い場所じゃない。あとおいらの桶を揺らすない!
と、おいらの抗議の声を聞き入れたわけではなかろうが、アイトリアの手の動きが不意に止まった。
「あ、父なる太陽!」
アイトリアはイーリスの肩に止めてあるアクセサリーを手を伸ばした。
「なんでこれを持ってるの?」
「アスカールで買ったの。かわいいでしょ」
「そうか、かわいいか。ありがと」
いきなり頬を赤らめてこそばがゆそうにするアイトリアに、おいらは感づいた。
「どうしたの? なんで、ありがとうなの?」
「これ、俺が作ったんだ。仕事の合間にさ」
やっぱりか、値段からして大した作家の作品ではないと思っていたが、妙な縁もあるもんだ。イーリスはと言えば、アイトリアを見る目を一層光らせる。
「えっ! すごーい!」
「と、ところで、どうしてこんなところに来たの?」
いきなり話題を変えるとは、こいつ褒められ慣れてないな。ま、作品が作品だからイーリスのような物好きにしか受けないだろうし当然と言えば当然か。青年よ、修練を積め。
感動さめやらぬイーリスは突然の話題転換にきょとんとするが、すぐに気を取り直して答える。
「ん、ここに用があって」
「用? 何も無い村だぜ?」
「なにもなくても別にいいの。そういう旅だし」
「あ、イーリスって旅してたのか。え、まさか、一人で?」
「ううん、ピュイといっしょだよ」
「ああそっか、ピュイとは家族だったな」
こいつ、昨日のイーリスの言葉をそのまま受け入れるというのか。そんなのは心が広いとか、器がでかいのとは違う。ただの馬鹿って言うんだぜ。もっと女の子の一人旅を心配してしかるべきだろ人として。
しかし満面の笑みを浮かべて頷くイーリスを見ていると、おいらからは何も言えない。
そんなおいらの複雑な心境などお構いなしに、今度はイーリスがアイトリアに質問する。
「アイトリアはここでなにしてるの?」
「ん、ここ、工房なんだ。俺はここの鍛冶職人見習いってわけ。……いけね、早く鉱石を取りに行かないと」
アイトリアはイーリスを撫でていた手で自分の頭を掻きながら、別れの言葉を口にしようとしたのだろう。だが、先に口を開いたのはイーリスだった。
「わたしもついて行っていい?」
アイトリアの頭を掻く手が止まった。目をぱちくりさせて、それから口を開く。
「良いけど、別に面白いものは何もないよ? それに、めちゃめちゃ埃っぽいし」
おいらの方に視線を向けてきたのには意表を突かれた。
たしかに埃が粘膜に付着すると、とっても苦しいのだが、まさかこいつがおいらの心配をしてくれてるとは。良いとこあるじゃないか。
しかし、おいらのハートがウォームしかけたのも一瞬のことだった。
「あ、ピュイのことなら、気にしなくていいよ」
言って、有無を言わさずおいらをつまみ上げる。
これは、まさか、と思うが早いか。
ぐうの音も出せないまま、おいらはまたも暗黒甘々地獄に突き落とされた。
と、すぐにイーリスの口の中がぐにゅりと動く。間違いない、表情を変えたのだ。
口角がきゅっと上がり、「ほらね?」とアイトリアに笑顔を向けている様が目に浮かぶ。
イーリスさんよ、残酷過ぎますぜ。これが家族に対する扱いですか!