11話
実のところ、イーリスの頭上にいるおいらはそれに気づいていた。だが、人前ではみだりにしゃべらないというおいらの流儀が、イーリスに注意を促すのを決定的に遅らせた。
「イーリス、避けろ!」
おいらの叫びは時機を逸していたものの、イーリスはこの一声でようやくそれに気づく。
少女の背後から、馬車が猛スピードで突っ込んできたのだ。
馬車の走りは地鳴りさえするほど騒がしい。それに、なんと言ってもイーリスの真正面からやって来ているのだから、気づくに決まっているとたかをくくっていたのがいけなかった。イーリスと少女は二人だけの世界に入り込んで会話をしていたのだろう。女子のおしゃべりにはそれがあることをすっかり失念していた。
イーリスは反射的に少女の手を取って、すんでの所で道の外に横倒しに倒れた。
たった今まで二人が立っていたところを、馬車が土煙を上げて地鳴りと共に通過していく。
間一髪間に合った。だが、全く喜べない。
こんな危機に瀕したのは、おいらの過失のせいだ。
しかし、思わずにはいられない。あの馬車、おいらたちが見えていないはずがない。
もしイーリスが足を竦めて動けずにいたら、今頃どうなっていたことか。
二頭の馬が引く、しっかりした造りの黒い馬車だった。
土埃が落ち着くのを待って、イーリスは胸に抱いた少女に声を掛ける。
「だいじょうぶ?」
「う、うん」
頷きと共に立ち上がった少女だったが、しかし、よろめいた。
見ると、左の膝小僧から血が流れている。結構な広さの傷口に土がこびりついて、どす黒く変色している。実に痛々しい。
それに比べりゃ些末事極まるが、別のところでもう一つ問題が発生していた。
そう、おいらにである。イーリスが倒れた拍子に桶から飛び出して砂まみれ。桶の水だって空っぽになっちまったときたもんだ。
ま、おいらの嘆きは今は良い。ある意味自業自得だしな。少女の怪我のが心配だ。
「傷、洗い流したほうがいいね」
言って、イーリスはバッグから水筒を取り出した。おいおい、なけなしの飲料水だぞ。おいらの桶の分は残してくれるんだろうな。などと、一瞬でも心の隅で思っちまった自分の小ささに辟易するね。おいらは自省と共に砂まみれのまま、瞬き一つせず様子を見る。
イーリスは何のためらいもなく、傷口に向けて景気よく水筒を傾けた。
傷口についた砂はみるみるうちに洗い流され、赤黒い血も土と一緒に清められる。
程なくして空っぽになった水筒に栓をし直して仕舞うと、イーリスはリュックの中から未使用のハンカチを取り出し、少女の膝を覆うようにして巻く。旅も長くなれば、これくらいの怪我への対処なら慣れたものだ。ぎゅっと縛れば、ひとまずの処置は完了だ。
「ありがとう!」
笑顔を浮かべる少女に、イーリスもつられて顔をほころばせる。
大事に至らなくてよかった。不幸中の幸いと言えるだろう。
だが、覆水盆に返らずという言葉通り、流れちまった水はもう取り返しがつかないんだよな。おいらは人知れず、少女の足下にできた水溜まりに身を転がして水分を補給する。
「いっしょに、行く?」
怪我を気に掛けたイーリスの提案に、少女は首を横に振った。
「ううん、早く帰らないと怒られるから、走って帰る!」
言って、その場で駆け足して見せた。そして、ニッと笑顔を作る。おいらたちを安心させようとしての振る舞いだろう。実に健気な少女だ。
「そっか、じゃあね」
イーリスが右手を挙げて、小さく手を振ると、少女もぶんぶんと手を振り回す。
「うん、またねお姉ちゃん! あたしセナ! またね!」
別れ際に名乗るとは、再会する気満々だな。ま、おいらたちも同じくサルに向かうわけだから、再会する可能性は低くはないか。
小柄な割に健脚な少女の背中はぐんぐん離れていき、すぐに陽炎の彼方に消えた。先ほどの笑顔は作り笑いかと勘ぐっていたのだけれど、深読みのし過ぎだったか。
「それじゃ、おいらたちもぼちぼち行くか」
「うん」
頷いてから、飴玉を口に一つ放り込むイーリス。
「お前は良いよな、そんな美味い保存食があってさ。唾液で乾きも紛れるだろうし」
「アメちゃん、おいしいー」
心から幸せそうな顔を見せられたら、おいらは肩をすくめるしかない。
イーリスはおいらを拾い上げて桶に戻すと、カラカラに乾燥した道を鼻歌交じりに歩き始めた。