10話
あり得ないことがまた起きた。
アスカールの西門から出てから小一時間、距離にして三マイルほど進んだ頃。それまでしとしとと雨を降らせていた雨雲が、だんだん朧になりはじめ、羊雲へと分かれ始めた。
それから三十分後には、雲という雲が完全に上空からその姿を消したのだ。
「また、やんじゃったね」
イーリスは飴玉傘を頭上からずらして、照りつける太陽をまぶしそうに見上げる。
「ああ、どうも雲行きが怪しいな」
雲がないのに雲行きもなにもないだろう、とか、揚げ足を取らないでくれよ?
おいらたちの仕事は目的地に雨雲を運ぶこと。雲がなくなることほどまずい状況はないのだから。
「こまったね~」
言葉に反してイーリスの声音は明るい。むしろ傘を畳む手つきは軽やかだ。
「二日連続とは穏やかじゃないな」
「どうしちゃったんだろうね?」
「案外、今までの雨は全部マグレで、本当はおまえさん、雨女でもなんでもないんじゃないか?」
おいらがわざと声を低くして脅すように言うと、イーリスはぷぅっと頬を膨らませてそっぽを向いた。
「いじわる」
不機嫌を装ったのも束の間。よほど青空が気に入ったのか、鼻歌交じりにスキップを始める。だが、おいらはそう暢気に構えてはいられない。
さっきは冗談めかしていったが、事実、イーリスが雨女である証拠などどこにもない。オンブロス協会ですら、イーリスを雨女として公認しているわけではないのだ。そんなイーリスが雨女として今まで任務を続けてこられたのは、常に雨と共に行動していられたからに他ならない。それだけが、イーリスは確かに雨女だという自信の拠り所だったのだ。
それなのに、もしこの先さっぱり雨が降らなくなったら。
一体俺たちは、何にすがって生きていけば良い?
「ま、なるようになるさ」
努めて投げやりな口調を気取るが、なるようにしかならないしな、というのが正直なところだ。
辺りは一面のステップ地帯。先ほどまで降り注いでいた恵みの雨は今はなく、風が吹くたびに熱された砂が舞い、俺は桶の中に身を伏せる。
と、陽炎揺らめく行く手の先に、なにやら動くものが見えた。
「おいイーリス、あそこでなにか動いてないか?」
「どこどこ?」
浸かったばかりの桶から飛び出して、イーリスの手のひらに乗る。
おいらが前足で指す方向を、イーリスは歩みはそのままに凝視する。
「あ、ほんとだ、なんだろ」
そのまましばらく歩き、陽炎の揺らめきが弱まると、それが人であることが分かった。そうと分かれば、その人影は立ち止まってこちらをじっと観察していることがはっきり見て取れた。
背丈は低い。ブラウンに見える髪は、少年にしては長く少女にしては短い長さで、鳥の巣のようにクチャクチャだ。
目の前までたどり着いて見れば、そいつは年端の行かない素朴な少女だった。
簡素な木綿のワンピースを着てはいるが、装飾品のたぐいは一切無く、身なりははっきり言って小汚い。ただ、これでも南部地方にあっては一般的な生活水準の子だと言えるだろう。
しかし、ここはアスカールとサルを繋ぐ道の中間地点付近。どちらの町を目指すにしろ、徒歩だと一時間以上はかかる。少女が一人で突っ立っているというのはどこかいびつだ。
そんな少女がガラス玉のような瞳を輝かせて、深呼吸したかに見えた、次の瞬間。
「こんにちはっ!」
やたら威勢の良い挨拶に、イーリスは反射的に仰け反った。おいらもびっくりした。
「こ、こんにちは。すんごい元気だね」
目を丸くするイーリスに、少女は満面の笑顔で頷く。だが、それだけだった。少女は何を問うでもなく、ただイーリスを見上げている。
「そだ、これ……」
何かを思いついたイーリスがリュックの中をがさごそ漁り始めると、程なくして一つの瓶が取り出された。その中には、既に半分ほど減ってはいるものの、昨日買った飴玉が詰まっていた。
「アメちゃん、いる?」
「え、くれるの?」
今度は少女が目を丸くする番だった。イーリスは気にせず瓶の口を開けて差し向ける。
「はいどうぞっ!」
「わぁい、ありがとうお姉ちゃんっ!」
言いながら瓶に手を伸ばそうとするが、目移りするのかなかなか選ばない。そんな少女を見かねてか、イーリスは肩を揺らす。
「ね、じゃ、三つまでいいよ」
「本当? ありがとうっ!」
言ってから飴玉三つ取り出すまで一瞬だった。三つまでは絞れてたのな。
早速一つ口の中に入れて、二つを大事そうにワンピースの切れ込みに仕舞う。
「ね、ここでなにしてたの?」
飴玉を舐めながら至福の笑みを浮かべる少女に、イーリスはしゃがんで問うた。少女は、飴玉をほっぺたに押しやってから元気に返事をする。
「お姉ちゃんを見てたの!」
その答えに、イーリスはまた目を見開いた。
「え、ずっと、わたしを見張ってたの?」
「ううん、お姉ちゃんが来るのが見えたから、見てたの!」
なんだか要領を得ない会話だが、カエルのおいらが口を挟むわけにもいかない。幸いまだ少女の関心はおいらには向いていないようだが、子供の関心を惹いてもロクなことがないのは目に見えているしな。ここはイーリスに任せるとしよう。
「ええと、じゃあ、わたしが来るまでは、なにしてたの?」
「あのね、雲さんをおっかけてたの!」
「え、雲を?」
「うん! でも、雲さんなくなっちゃった」
なるほど、何となく事情が分かってきた。サルにいたこの子は、おいらたちがアスカールから引き連れて来た雨雲に気づいたのだろう。それでその雨雲を求めてサルからここまで来たけれども、雲は消えてしまったと。そこに現れたのがおいらたちというわけだ。
「ずっと雨が降ってなくて、みんな困ってるの。やっと降るかなって、思ったのになぁ」
「そっか、ごめんね……」
「お姉ちゃんが謝ることないよ。なんで?」
「ううん、なんでも。ごめん」
イーリスがしょげて俯いていたのは、わずかな間だけだったはずだ。
そんな間隙を突くかのように、事件は起きる。