II
彼女が転校して来てから2週間が経ったある日、どこからかフルートの音色が聞こえて来た。とても美しく、強く、優しい音色だ。行ってはいけないと思いつつも、音の聞こえる方へ進んでしまう。ようやくたどり着き、そこにいた人物を見て驚いた。美しい金髪を揺らしながら堂々と吹く姿に見覚えがあった。
「あ、やっぱり来た。」
彼女は僕が来て当然と言う顔をしていた。
「何で僕がくると思ったの?」
「君はフルーティストだから。」
碧い瞳で僕を見据え、はっきりとそう言った。
「小学生の時から数々のコンクールで優勝。中1ながら、中学部門の全国大会でも優勝。同年代で君を知らない演奏者はいないよ。」
「何を言っているんだ。」
喉に声が張り付き、かすれた声しか出ない。
「僕は音楽を、フルートを捨てたんだ。新聞とかニュースでもやってただろ。」
「えっと…」
彼女は少し言葉に詰まったが、すぐに言い返して来た。
「それはそうだけど、君は私の音を聴いてここまでやって来た。つまり、まだ捨て切れていないんでしょ。あなたの心にまだ音はある。」
「そんなことない!僕は音楽を捨てたんだ。」
そう言うと僕は夢中で駆け出した。
「待って!」
彼女の声が僕の背で響いた。
「待ってって、止まれ〜!」
しばらく走って来たが、彼女はフルートを持って追いかけてくる。あまりにしつこいので、やけになって全速力で走り出した。
「いい加減止まれ!光丘朝陽!」
急に名前を呼ばれ、僕は少し止まってしまった。その隙に彼女が追いついて来た。
「もう!私これでも50m7秒台なんだからね!あー疲れた。久々に走ったなー」
何だか自慢なのか関係ないことを教えてくれた。驚いたが。
「何でこんなにしつこいんだよ。ほっといてくれ。」
「だってまだ教えてくれてないじゃん。」
「何を?」
「理由」
「え?」
「君が自ら音楽を捨てた理由。」
正直ウザいと思った。転校生のくせに他人のプライベート探ってんじゃねーよ。でも、その碧い瞳で見つめられると何も言えなくなるんだ。
「何があったの?」
優しい声音で尋ねられ、僕はふと既視感を覚えた。それにつられ僕は話し出した。
4年前、初めて中学部門の音楽コンクールに出た。県予選を通過し、ついに本選。全国大会だ。小学校部門とは違い、張り詰めた空気の中、演奏は最後という最悪の順番。そんな中でガッチガチに緊張していた僕に話しかけてきた人がいた。
「1年生?」
外国人のような人なのに、日本語が上手だと思った。後から知ったことだが、彼女は19歳で伝説のフルーティストと呼ばれている。今回のコンクールの特別出演者だという。
「そうです。しかも最後なんですよ。緊張しちゃって。」
「よかったね。」
え。嫌味かと思った。少しカチンと来て、つい言い返してしまった。
「なぜですか。最後ですよ。」
「最後の演奏は人の心に残りやすい。最初の人なんて、よっぽど素晴らしくない限り心に残りはしない。そう考えると有利に思えて来ない?それに…」
そこで言葉を切ると、美しい笑顔を浮かべて言った。
「それに君は、人一倍汗と涙を流して頑張って来たんでしょ?私も君のような立場だからわかるんだ。いくら天才って言われても、その影にはとてつもない努力があることを誰も知らない。知ろうとももしない。でも私は知っている。努力なくしてここには立てないということを。だから自信を持って君の心の音を届けて。」
ずっと待っていた。過程を評価してくれる人を。ずっと言って欲しかった。「天才」などという表面上の言葉などではなく、日々の努力を評価してくれる言葉を。
「次、光丘朝陽くん。」
「あら、ちょっと話しすぎたみたい。」
「いえ、貴重なお話をありがとうございました。」
「じゃ、頑張って。光丘朝陽くん。」
「はい。」
それからステージに立った僕は、史上最高の演奏ができ、全国大会で優勝した。ゲスト出演したあの人の演奏は、ただただ、素晴らしかった。
それから約1年、必死に練習した。来年もこの舞台に立てば、あの人に会える。そう思っていた。
中二の夏、あの人は事故で亡くなった。20歳という若さで。あの時の僕は、ただ泣いていた気がする。そこで初めて僕はあの人に恋をしていたのだと気付いた。あの人が亡くなってから目標がなくなり、練習に対する熱意も消えた。
あの日から今日まで、僕はフルートを吹いていない。
「つまり僕は、約4年間フルートを吹いていない。4年のブランクは大きい。何より、吹こうとするとあの人の顔が浮かんでくる。もう思い出したくないんだ。辛いんだよ。」
こんな話初めてしたな。
「……い。」
「えっ?」
「なさけない!」
「人のせいにして。わ…彼女が死んだから何?君は彼女に出会うまで1人でやって来たんでしょ?なのに、たった数分話した彼女が死んじゃったからって。悲しいよ。」
彼女は本気で怒り、悲しんでいるように見えた。
「私はコンクールの時の君の演奏を聴いて感動したよ。だから、音楽を捨てたなんて言わないで。」
「コンクール聴いていたの?」
「えっと…君が出演するって聞いたから聴きに行ったの」
「それは、ありがとう。でも僕はもう…」
音楽を捨てた。そう、あの日から僕の心の音は止まったままだ。
「よし。」
彼女が言った。なんだか嫌な予感がする。
「決めた。1ヶ月後の文化祭のステージで演奏しよう。」
「それは頑張ってね。じゃ。」
そう言って、さっさと立ち去ろうと思ったが、阻まれた。
「何言ってんの?ふ・た・り でだけど。」
「はあ?だから僕は吹けな…」
「吹けないんじゃない。吹かないんだよ、君は。」
ドキッとした。そうかもしれない。
「出るよね。光丘朝陽くん。」
その言い方は、まるであの人そっくりだ。
「ここで出なかったら、一生後悔するよ。」
「…分かった。出るよ。」
やけになって了承したのもあるが、あの人に誘われているように思えて来たのもあった。
「やった。」
素直の嬉しそうな彼女は、眩しかった。
「じゃあ、お礼に一曲演奏してあげましょう。」
と言うと、彼女は演奏し始めた。曲は「きらきらぼし」。吹く姿はあの人のようで、音色もあの人そのものだった。
気づけば空には無数の星が輝いていた。